日本サッカー史
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1913(大正2年)
東アジアでの初の国際スポーツ大会「第1回極東選手権」が開催された(1〜2月・マニラ)。
フィリピン体育協会のE.S.ブラウンが前年に、日本・中国(中華民国)を訪れて大会案を示し、「スポーツを通じて東洋の五億の民の友愛と福利を啓発する大会にしよう」と説き、極東体育協会の設立を提唱した。
日本では、前年のストックホルム・オリンピックに初参加して、ようやく国際スポーツに目が向けられようとしたばかり。
この年の冬に開催された大会の8種目(陸上競技・水泳・野球・テニス・サッカー・バレーボール・バスケット・自転車)のうち、野球に明大野球部、陸上の長距離に2選手が参加しただけだった。日本が極東体協に加入するのは第2回大会(1916年・上海)の後で、サッカーもまだ、第1、2回は不参加。第3回(1917年・東京)に初参加する。
明治から大正に年号も変わり、いわゆる大正デモクラシーへの移行の時期に、この極東大会が始まったことは、日本のスポーツ界にとっても、オリンピックと違った手近な目標が設けられたことになる。またサッカー界にとって、それまでの手探りの知識から国際舞台を経験することで一気にレベルアップに向かう。そうした点からも、この第1回極東大会(はじめは東洋オリンピックといい、のちに極東選手権競技大会と称した)開催はきわめて大きな影響を持つことになる。
また、4月には神戸一中に蹴球部が創立された。この学校では創立のころ(明治29年、1896年)からボールを蹴っていたが、教師の中にサッカーに通じている者がいないため、運動部設立までにはなっていなかった。それが、この年に広島高等師範学校で選手であった岩田久吉(故人)が赴任してきたので、校長の要請により野球部附属の蹴球部が誕生。岩田先生は野球部副部長の立場でとりあえず11人の生徒を集めて指導した。英語教師のC.B.Kアーガル(英国人)もコーチするようになり、後の日本サッカー界の技術発展に大きな影響を持つ神戸一中蹴球部のスタートとなった。
世界では、ロンドンでFA(フットボール・アソシエーション)創立50周年の祝賀会開催。また、規則改正でFKのときに10ヤード(9メートル15)離れることが決められた。
日本のサッカー
- 4月 神戸一中蹴球部創立
世界のサッカー
主な大会
日本代表
主な出来事
日本の出来事
- 2月 第1回全国スキー大会開催
- 4月 宝塚唱歌隊生まれる(のちの宝塚少女歌劇)
- 8月 東海道線の複線工事完成
- 10月 中華民国を承認
世界の出来事
- 4月 ブラジル、アメリカと各国が相次いで中華民国を承認(〜5月)
- 6月 第2次バルカン戦争
- 9月 セルビアがアルバニアに侵入。オーストリアが撤退要求(セルビアは受諾)
関連項目
- 初期のサッカー。1913年にスタンド付き競技場
- どのポジションもこなした“天才”右近徳太郎
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(中)
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(上)
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(下)
- 大日本蹴球協会(JFA)設立、全日本選手権開催。大正年間に組織作りを成功させた漢学者・内野台嶺
- 自らプレーヤーで指導者でもありサッカーに生涯を捧げた記者 山田午郎
- 第3回アジア大会決勝で主審を務め、日本レフェリーの国際舞台への第一歩を記した 村形繁明
- 自らは優れたランナー。体協の筆頭理事で募金活動に腕を振るったJFA初代会長 今村次吉
- ノルウェーのデータ
- 1930年極東大会「初の選抜ナショナルチーム」
- アンダルシアの太陽とバスクの「最古」サッカー・スタジアム
- vol.2 イタリア(中)
- 大正末期のショートパス(1)
- 敗戦国日本のスポーツを活気づけた 第1回アジア競技大会実現
- ベルリンの奇跡の日本代表 闘志あふれるDFで理論派監督 堀江忠男(上)
- 「ACL」から見えるアジアの未来(後編)
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創設時の神戸一中サッカー部。左から清家、森本、相川、町田、小田、アーガル先生、河野、紅野、三宅、若村(喜)、白洲(尚)、右端・岩田先生。神戸市生田川畔のグラウンドで。