日本サッカー史
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1914(大正3年)
7月、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナンドがサラエボでセルビア青年に暗殺されたことが原因となり、第1次世界大戦が始まった。日本は日英同盟の立場から、8月23日にドイツに宣戦を布告。中華民国の山東省にあるドイツの軍港である青島を攻撃して占領、また日本海軍は赤道以北にあったドイツ南洋群島をも占領した。
青島のドイツ基地の占領は、ドイツ文化との交流を生むことにもなり、ドイツ人捕虜によってベートーベンの第九交響楽の「合唱」やドイツケーキなどが日本に紹介され、広島の似島(にのしま)の収容所のサッカーチームは広島地方のレベルアップに大いに役立つことになる。
関東では前年に続いて、東京高師への各師範学校からの指導申込みや対戦要請があった。高師のこの年の蹴球部報告のなかに、10月26日、雨中に平塚外人クラブとの試合を行ない2−3で敗れたこと、そしてサッカーは雨天順延の必要はなく、かえって雨の試合の方がより痛快であることを知った――と記されている。
関西では11月に京都師範学校で関西連合蹴球大会が開催され、御影、京都、姫路、滋賀の各師範学校が参加した。兵庫では神戸一中が初めての対外試合を行なったが、KRAC(神戸外人クラブ)との試合もそのひとつ。神戸一中はこの外人クラブとの交流によって、新しいルールや戦術・技術を覚えた。
広島では広島一中(現・広島国泰寺高校)にこの年チームを編成した。FBに4年生の野津謙(第4代JFA会長)がいた。
日本のサッカー
- 10月 東京高等師範学校が平塚外人クラブと対戦。2−3で敗れる
- 11月 京都師範学校で関西連合蹴球大会開催
世界のサッカー
- 4月 FAカップ(イングランドの協会杯)の決勝に、キング・ジョージ五世がご臨席。「THE FIRST ROYAL CUP - FINAL」となる(バーンリー 1−0 リバプール)
主な大会
日本代表
主な出来事
日本の出来事
- 1月 桜島大噴火
- 3月 貴族院(現・参議院)で海軍建艦費を削減。予算不成立で山本内閣総辞職
- 8月 第1回水上選手権(全国水泳大会)開催
- 8月 ドイツに宣戦
- 11月 日本軍が青島占領
- 12月 東京駅開業(東海道線の起点が新橋から東京へ)
世界の出来事
- 6月 オーストリア皇太子暗殺
- 7月 オーストリアがセルビアに宣戦
- 8月 パナマ運河開通
- 8月 ドイツがロシアに宣戦、次いでフランスにも宣戦。フランスもドイツに宣戦。英国もドイツに宣戦
関連項目
- 19世紀末からサッカー
- チェコ軍人が神戸一中と対戦
- バルカン半島の複雑さ
- ダニュービアン・スタイル
- ポルトガルのデータ
- 第7回 川本泰三(2)ボール扱いが始めで、ボール扱いがすべて
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(中)
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(下)
- 第32回 戦野に倒れたフットボーラー 松永行さんをガダルカナルで、竹内悌三さんをシベリアで失う
- 東北初の高校チャンピオンを育てた剣道の達人 内山真(下)
- ブラジルサッカーの草創〜サンパウロとリオから全土へ
- パリ・オリンピックの刺激
- 「川本泰三放談」とは
- サッカーは英国の鉄道人から
- 日本大使館の正月パーティーで会った老ペニャロール・ファンはウルグアイ・プロの実情を語った
- vol.21 ルーマニア
- vol.29 ドイツ(下)
- シベリアから始まったスウェーデンへの旅
- 全国優勝大会の大正末期の技術進歩。ドイツ捕虜との交流で進化した広島
- 広島、神戸、名古屋、各地各様の伏流がやがて日本代表へJFA創設からの急速進化
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