日本サッカー史
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1915(大正4年)
中国山東省のドイツ軍港・青島を占領した日本に対して、中国(中華民国)は日本軍の撤退を要求し、これに対して日本側は21か条の要求を提出する。武力を背景とした日本側の中国領土での権益拡大をはじめは拒否していた中国側も、最後には飲むことになり、この年5月9日を「国恥記念日」として排日運動のひとつとなって残る。
こうした情勢のなかで、5月に上海で第2回極東大会が開催された。日本側も今回は相当な準備をしながら、選手派遣については国際情勢待ちといった空気があって、選手たちが上海に到着したのは大会が始まってからという有様。陸上、水泳ともにフィリピン、中華民国に次いで3位に終わった。ただしテニスでは熊谷一弥、柏尾誠一郎がシングルス、ダブルスともに優勝、水泳も7種目中4種目で1位を占めた。
この大会の後に極東体育協会に日本も加盟し、次の第3回大会を大正6年(1917年)に東京・芝浦で開催することが決まった。
サッカーにもようやく国際舞台出場のチャンスが回ってくることになった。 8月には、第1回全国中等学校野球大会が豊中グラウンドで開催。参加10校、全国高校野球選手権のはじまり。
日本のサッカー
- 11月 御影師範学校で第2回関西連合蹴球大会。御影が優勝(参加は御影・姫路・京都・奈良の4師範と明星商業の5チーム)
世界のサッカー
主な大会
日本代表
主な出来事
日本の出来事
- 5月 上海での第2回極東大会に日本が参加。陸上・水泳・テニス・自転車などで活躍
- 6月 陸軍二個師団増設、海軍の軍艦建造など追加予算案可決
- 8月 初の全国中等学校野球大会
- 11月 大正天皇即位式
世界の出来事
- 1月 ツェッペリン飛行船が初めてロンドン空襲
- 4月 ドイツが潜水艦による対英封鎖を宣言
- 7月 客船ルシタニア号がアイルランド沖でドイツ潜水艦に撃沈される
- 11月 中華民国の実権を握っていた袁世凱が皇帝となることが決定(1961年1月即位とする)日本など各国の強い反対で1916年の帝制は停止される
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大戦に参加した兵士たちにとって、サッカーは戦闘の間の楽しみだった(1914年ギリシャ派遣の英国陸軍)。こうした情景はフランス軍でも、ドイツ軍でも見られたという。