日本サッカー史

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1918(大正7年)

 ヨーロッパでの大戦争でドイツ側の敗色が濃厚となり、11月には降伏して皇帝ヴィルヘルム二世が退位。1914年以来4年余の戦火は収束。ドイツとともに戦ったオーストリアハンガリーも皇帝カールが退位して共和制となり、ハプスブルグ王家の統治下にあった大帝国は瓦解した。
 ロシアでのプロレタリアート革命の余波は世界に及び、日本でも「民衆、あるいは大衆の意志」について声高に論じられるようになった。

 日本政府は革命政府を認めず、ウラジオストックでの居留民保護を理由にシベリア(ロシア極東地域)への軍隊派遣を狙っていた。ちょうどロシア国内にあったチェコ軍団の救出にアメリカなどが動くことになったのを理由に、8月にシベリアに出兵した。米・英・仏・伊・中の5ヶ国の派遣部隊の合計よりもはるかに多い7万余の大部隊を送り込んだが、政府と陸軍の考えには多くの兵士や民間の同意は得られなかった(撤兵は1922年)。
 むしろ多くの国民には、8月の米騒動の方が関心の的となった。異常な米価値上がりのため富山県で起こった暴動は、京都や名古屋に及び、全国37市にまで波及した。このため夏の全国中等学校野球大会が中止となったほどである。

 中国では清朝が去り、次の大勢力であった袁世凱が死去した後、北京政府と南軍との対立は深まり、それぞれの側もまたまとまりがなくて混迷が続いていた。広東(広州)で実権を握っていた孫文が日本へ亡命したのも、そうした情勢のあらわれだった。

 こうした流動する社会のなかでもスポーツ熱の高まりは続き、日本のサッカー人たちは1〜2月に東京、名古屋、大阪の各地で新しい大会をはじめた。
 東京で第1回関東蹴球大会、名古屋で第1回東海蹴球大会、大阪・豊中で第1回日本フートボール大会がそれぞれ開催された。
 各地の学校に浸透しはじめていたサッカーがこれらの大会によって普及を進めることになると同時に、日本蹴球協会(JFA)の設立を促すきっかけともなった。

日本のサッカー
  • 1月 名古屋で第1回東海蹴球大会
  • 1月 大阪で第1回日本フートボール大会
  • 2月 東京で第1回関東蹴球大会
世界のサッカー
  • 5月 イングランドの戦時体制リーグ(WAR TIME FOOTBALL)終了。1919−20シーズンから平常に
  • 5月 第1回フランスカップ決勝。オリンピック・ド・パンタン・パリ 3−0 FCリヨン

主な大会

  • 第1回東海蹴球大会
    八高が優勝(名古屋、4チームリーグ戦)
     参加は八高、明倫中、愛知一師、愛知一中

  • 第1回日本フートボール大会ア式の部
    御影師範が優勝(豊中)
     決勝 御影師範 1−0 明星商
     参加は明星商、関学高等部、奈良師範、姫路師範、京都師範、堺中、神戸一中の8チーム

  • 第1回関東蹴球大会
    豊島師範Aが優勝(東京)
     決勝 豊島師範A 2−1 豊島師範B
     参加は豊島(A・B)青山(A・B)埼玉各師範と明治学院中、横浜二中、佐倉中の8チーム。ノックアウトシステム

日本代表

主な出来事

日本の出来事
  • 5月 孫文が日本に亡命
  • 7月 丹那トンネル起工(昭和8年完成)
  • 8月 シベリア出兵
  • 8月 米騒動
世界の出来事
  • 1月 北京政府が南軍討伐令を出す
  • 2月 ロシアのソビエト政府のトロツキーがドイツとオーストリアとの戦争終結を宣言
  • 3月 ロシアにいたチェコ軍団がソビエトに反乱
  • 10月 ハンガリーがオーストリアから分離
  • 11月 ドイツのキール軍港で水兵がストライキ
  • 11月 皇帝ヴィルヘルム二世が退位してオランダに亡命。連合国との休戦条約に調印して第一次大戦は終わる

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