日本サッカー史

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1919(大正8年)

 第3回大会の日本開催によって、国内のスポーツに大きな刺激となった極東大会の第4回は、5月にマニラで開かれることになっていた。
 ところが大日本体育協会が、学校の試験前後であって、学生を中心とする日本選手団には都合が悪いと開催期日の変更を求め、フィリピン側に拒否されると、大会不参加、さらには極東体育協会からの脱退にまで進みはじめた。
 こうした体協の態度にスポーツ界から批判が出ると同時に(これが後の体協の組織改革の遠因ともなる)大阪在住のアスリートを中心に日本青年運動倶楽部を組織し、代表選手を派遣することになった。ただし陸上・水泳・テニスの3競技だけで、サッカーはチームを送れなかった。
 国内では前の年にスタートした関東、関西、中京の各地の大会が2年目を迎え、学校チームの遠征や交流試合も活発になった。

 この年3月、東京の英国大使館にサッカーの母国のFA(フットボール・アソシエーション)から立派なカップが届いた。この前年に日本各地で大会が行なわれるのを知り、FAが日本へ寄贈したものだった。まだ国内の団体を統轄する協会はなかったから、とりあえずIOC委員で東京高師の校長でもある嘉納治五郎が同校教授の内野台嶺とともにカップを受け取り、JFAを創設することになった(1921年設立)。
 また大戦中にロシアに捕虜となったチェコの軍隊が革命後、シベリア経由で日本を通り、アメリカを回って母国に帰ることになり、神戸に滞在中に関西学院や神戸一中と試合をした。
 それまで、イングランド・スタイルの試合運びをKRAC(神戸外人クラブ)などから学んでいた神戸一中の若者たちにとって、短いパスをつなぐ中部ヨーロッパのショートパス戦法は大きな驚きだった。

日本のサッカー
  • 1月 広島でドイツ人捕虜と広島高師、広島師範との交流試合
  • 3月 東京朝日新聞に、英国からシルバーカップ寄贈の記事
  • 3月 東京高師・嘉納治五郎校長を中心にJFA設立を企画
  • 9月 チェコの軍人チームが神戸で関西学院、姫路師範、神戸一中などと交流試合
世界のサッカー
  • 5月 第3回コパ・アメリカ(南米選手権)でブラジルが初優勝(2勝1分け)。フリーデンライヒ選手が活躍
     6−0 チリ
     3−1 アルゼンチン
     2−2 ウルグアイ
     [決定戦]  1−0 ウルグアイ

主な大会

  • 第2回日本フートボール大会ア式の部
    御影師範が優勝(豊中、9チーム参加)
     決勝 御影師範 5−1 明星中

  • 第2回関東蹴球大会
    青山師範が優勝(東京、8チーム参加)
     決勝 青山師範 2−0 佐倉中

日本代表

主な出来事

日本の出来事
  • 3月 朝鮮の京城(ソウル)はじめ各地で独立運動(万歳事件)
  • 5月 東京帝大主催 第1回全国中等学校陸上選手権大会開催
  • 5月 講和会議で赤道以北の南洋群島の委任統治国に日本を決定。山東半島を中国に還付すると日本が発表
  • 11月 堺で第1回全国学生相撲大会開催
世界の出来事
  • 1月 ベルサイユで講和会議はじまる(1月18日〜6月28日)
  • 3月 モスクワでコミンテルン創立第1回大会
  • 3月 イタリアでムッソリーニが「ファッショ」を結成
  • 10月 孫文が中国革命党を中国国民党と改称

フォトライブラリ

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チェコ軍人チームと神戸一中チーム。体も大きく技術も高かった――とは、一中側の感想。

 

南米10ヶ国の国旗と南米地図、ボールをあしらったマーク。C.S.FはCONFEDERACION SUDAMERICANA DE FUTBOLの略。

 

世界で最も古い大陸大会、コパ・アメリカのカップ(コパ)。

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