日本サッカー史
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1921(大正10年)
5月に第5回極東大会(上海)に参加。日本サッカーは初めて日本代表を海外へ送った(2戦2敗)。
9月10日には懸案の大日本蹴球協会が創立、11月にア式蹴球全国優勝競技会の名で、第1回全日本選手権(今の天皇杯)を開催と、将来への布石を打った年であった。
世界大戦の戦火が収まって2年、戦禍を受けることの少なかった日本では、社会的な矛盾はあっても、庶民の生活も徐々に向上し、スポーツは多くの学校の中で奨励され、国際舞台で名をあげる選手も現れるようになっていた。こうした時期に、サッカーが統轄団体を組織したのは、国内での普及にも、国際大会での活路にも、大きなステップだったといえる。
第5回極東大会に参加したのは全関東選抜チームで、全国予選会で関西学院を破って代表となったが、このときのメンバーがビルマ人チョウ・ディンの指導を受けたという話が残っている。技術への新しい目も開かれようとしていた。
1904年に誕生したサッカーの国際組織FIFA(国際サッカー連盟)はこの年3月、フランスのジュール・リメを第3代会長に選ぶ。世界選手権大会(ワールドカップ)の熱心な提唱者である彼によって、この9年後に第1回大会が開催され、サッカー繁栄の大きな力となる。
日本のサッカー
- 4月 早稲田高等学院(略称・早高)にア式蹴球部誕生
- 4月 慶應アソシエーションフットボール倶楽部誕生
- 5月 第5回極東大会(上海)に参加
- 9月 大日本蹴球協会(JFA)創設。初代会長・今村次吉
- 11月 第1回全国優勝競技会
世界のサッカー
- 3月 ジュール・リメ(Jules Rimet)が第3代FIFA会長に就任。ワールドカップ開催に向けての努力がはじまる
主な大会
-
第4回日本フートボール大会御影師範が優勝(豊中、12チーム参加)
決勝 御影師範 3−0 姫路師範 -
第4回関東蹴球大会豊島師範が優勝(東京、12チーム参加)
決勝 豊島師範 6−1 埼玉師範 -
第1回全国優勝大会(現・天皇杯)・東部予選会(11月、20チーム参加)
決勝 東京蹴球団 2−0 青山師範
・中部予選会(9月、3チーム)
優勝 名古屋蹴球団
・近畿予選
推薦 御影師範
・西部
参加団体少なく、山口高校を認定
・全国決勝大会(11月)
準決勝 御影師範 4−0 名古屋蹴球団
東京蹴球団 棄権 山口高校
決勝 東京蹴球団 1−0 御影師範
日本代表
-
第5回極東大会
日本は2戦2敗(〜6月・上海)
日本 1−3 フィリピン
日本 0−4 中華民国
主な出来事
日本の出来事
- 3月 皇太子裕仁親王、ヨーロッパ歴訪に出発(3月30日〜9月2日)
- 9月 デビスカップ・テニスに日本初参加。熊谷一弥、清水善造のチームがインド、オーストラリアを破りアメリカに惜敗
- 10月 皇太子裕仁、摂政に就任
- 12月 ワシントン会議で日英米仏四国条約に調印(日英同盟廃棄)
世界の出来事
- 5月 米国務長官が日本のシベリア占領不承認を警告
- 7月 ヒトラーがナチス党首に
- 11月 ローマでファシスト党全国大会開く
- 11月 孫文の広東政府が北伐軍を編成
関連項目
- 昭和の大先達・竹腰重丸(上)
- ケルト人の国。苦難の歴史
- サッカーは移民のスポーツ
- 昭和の大先達・竹腰重丸(下)
- ブリテン島への選手の流出
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(中)
- どのポジションもこなした“天才”右近徳太郎
- 第16回 竹腰重丸(2)少年期は剣道 大連でサッカーに出会い山口高校でチョー・デインを知る
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(下)
- 早稲田の“主” 工藤孝一(上)
- 第32回 戦野に倒れたフットボーラー 松永行さんをガダルカナルで、竹内悌三さんをシベリアで失う
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(下)
- 殿堂入り歴代会長と第6代藤田静夫(上)
- 大日本蹴球協会(JFA)設立、全日本選手権開催。大正年間に組織作りを成功させた漢学者・内野台嶺
- 自らプレーヤーで指導者でもありサッカーに生涯を捧げた記者 山田午郎
- 日本サッカーの創生期から発展期まで、歴史とともに生きて歴史を伝えた大先達 新田純興(上)
- チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)
- 国際舞台での初勝利からベルリンの逆転劇まで代表チームのリーダー 鈴木重義(上)
- 大戦前の4年間、光彩を放った慶應義塾のソッカーを築いた 松丸貞一(上)
- JFA創立から20年間の急成長を彩った稀有のチームリーダー 松丸貞一(下)
- 自らは優れたランナー。体協の筆頭理事で募金活動に腕を振るったJFA初代会長 今村次吉
- 極東大会で活躍した名プレーヤー。JFAを支え、導いた 篠島秀雄(上)
- 第9回極東大会で中華民国と3−3を演じた最年少FW 篠島秀雄(下)
- 1936年ベルリン五輪 スウェーデン戦逆転劇のキャプテン 竹内悌三
- 30年極東大会、36年五輪。2つのビッグイベントを勝ち抜いた名FB 竹内悌三(続)
- 大衆の血を騒がせる心の糧
- vol.6 オランダ(下)
- 大正末期のショートパス(1)
- ショートパス開花と天性のストライカー 特別編
- 昭和初期のレベルアップ(1)
- 昭和初期のレベルアップ(4)
- メキシコの余韻の中で(2)
- 【番外編】岡田武史監督 彼自身と日本サッカーの10年の証を見たい
- ロナウド(4)98年フランスW杯準決勝で見せたビューティフルゴール
- 対カメルーン、労を惜しまぬ動きと36年、30年代表に見る日本サッカーの原点
- 始まりは明治初期の英国海軍。極東大会敗戦が熱中期へのきっかけ
- JFA初代会長、今村次吉は不忍池周回競争の裸足のランナー
- 89年前の「天皇杯」第1回大会。優勝の東京蹴球団にFA銀盃
- 2競技開催の日本フートボール大会。常勝・御影師範
- 全国優勝大会の大正末期の技術進歩。ドイツ捕虜との交流で進化した広島
- 大正末期日本サッカーの技術進化に貢献したビルマ人留学生チョー・ディン
- スコットランド流のパスゲームを強調したチョー・ディンの指導
- 1927年第8回極東大会、チョー・ディンの弟子たちが初勝利
- 昭和初期の日本サッカー技術力アップのリーダーとなったチョー・ディンの弟子たち
- 手島と篠島の働き、死力を尽くした竹腰 劇的な対中華民国3-3ドロー
- 死力を尽くして東アジア1位獲得 昭和5年代表に悲運のロス五輪
- 極東1位を足場に充実をはかるJFA
- さあベルリンを目指そう 早大に新しいストライカー、川本
- 日本的組織プレーとストライカー 30年と36年の成功の理由
- 五輪代表の進化を「東京」への始動 早慶の充実でサッカー人気が向上
- オットー・ネルツのフスバルをバイブルに 東大、早大を追う慶應の初代主将濱田諭吉
- 40年「東京」を目指す日本代表の腕試し 38年、対イズリントン・コリンシャンズ
- 当用漢字制定で蹴球がサッカーに ロンドン五輪不参加も、明日に備え合同合宿
- 長い歴史とトヨタの先見をバックに花開いたピクシーと仲間たち。次は世界のビッグクラブへ
- 84年前に中華民国から1ゴール。兵庫、関西の協会長、神戸FC会長として少年育成に尽くした明治生まれのリーダー 玉井操
- 世界の仲間とともに苦難の人たちへ心を届けよう ――東北関東大震災に思う――
- 日本サッカーを応援、バックアップした FIFA会長 サー・スタンレー・ラウス(上)
- 先人を師と称える日本サッカー殿堂入り 奥寺康彦
フォトライブラリ
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48歳の若さで第3代FIFA会長となったジュール・リメ。ワールドカップを創始し、成功させた彼の在任中(1921−54)にFIFAの加盟国は20から85に増えた。

ロンドンのFAが日本サッカーに寄贈した銀製の大トロフィー。第1回の優勝チームにはエリオット英国大使から手渡された。

大正10年 大日本蹴球協会発行の会報第一号に掲載された、全国優勝競技会の1ページ(全3ページ)。