日本サッカー史
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1922(大正11年)
協会(JFA)も作った。全国のナンバーワンを決める大会も創設した。優勝チームはFA(イングランド・サッカー協会)からのシルバーカップを受ける名誉を得た。
東京での関東大会、大阪での日本フットボール大会はそれぞれ参加チームも増えた。関東大会はスタートから中等学校(旧制)と師範学校のための大会で、専門学校や大学のチームは模範試合を行なっていた。
関西での日本フートボール大会はもともとラグビーの関係者が大阪毎日新聞社へ持ち込んだ企画で、日本のラグビーの始祖ともいうべき慶應を関西に招いて試合をしたいという狙いがあって「日本」という名をつけた。
ただし新聞社側はラグビーだけではチーム数が少ないため、サッカーも加えて、フートボール(フットボール)大会とした。そしてそれぞれ、『ラ式蹴球』『ア式蹴球』と新聞紙上で表記していた。
第1回大会では神戸高等商業といった年齢の高い専門学校も試合しているが、やがて中等学校の部と分けるようになり、大正15年(1926年)の第9回から毎日新聞が予選制をとって、中学校の全国大会へ移行した。これが現在の全国高校選手権につながることになる。
全国での中学校世代への浸透はやがて、大学や旧制高校、専門学校へ及ぶことになり、大学リーグやインターハイの誕生につながる。
そうした時期にビルマ(現・ミャンマー)から東京の高等工業学校へ留学に来ていたチョー・ディンというサッカーに詳しい学生が、指導に乗り出し、日本の技術水準の大幅なレベルアップに貢献した。
日本のサッカー
- 1月 東京で、東京高師・東大・東京商大・早稲田高等学院の4校で「大学専門学校リーグ」が発足。東京高師が優勝
- 11月 第2回全国優勝蹴球競技大会(現・天皇杯)開催。名古屋蹴球団が優勝
- 11月 神戸高商主催の関西中学大会で広島一中が優勝
世界のサッカー
- 4月 スコットランドが対イングランド2連勝。1926年まで5勝1分けと優位に立つ
- 9月 第5回コパ・アメリカでブラジルが2回目の優勝(〜10月)
主な大会
-
大学・専門学校リーグ東京高師が全勝優勝
(1)東京高師 3勝
(2)東大 2勝1敗
(3)早高 1勝2敗
(4)東商大 3敗
※これがきっかけで、1924年に関東大学リーグがスタートする -
第2回全国優勝大会(現・天皇杯)名古屋蹴球団が優勝(東京)
決勝 名古屋蹴球団 1−0 広島蹴球団
日本代表
主な出来事
日本の出来事
- 2月 ワシントンで海軍軍縮条約
- 2月 諏訪湖の下諏訪リンクでフィギア・スケートの第1回公式競技開催
- 10月 朝日新聞社が第1回関東小学校蹴球大会を開く
- 11月 第1回全日本女子陸上競技大会が東京の陸軍戸山学校で開催
世界の出来事
- 7月 全米オープンゴルフで20歳のジーン・サラゼンが優勝。天才ゴルファーと評判に
- 8月 ロンドン―マルセイユ間定期旅客飛行がスタート
- 10月 イタリアでムッソリーニ内閣が成立
- 11月 エジプトの「王家の谷」でツタンカーメンの墓を発見
- 12月 ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)成立
関連項目
- 昭和の大先達・竹腰重丸(上)
- 南米で2番目に古いFA
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(中)
- 64年東京オリンピック 日本人にサッカーの魅力を伝えた
- 第16回 竹腰重丸(2)少年期は剣道 大連でサッカーに出会い山口高校でチョー・デインを知る
- ドイツ語の指導書をテキストに慶応ソッカー部の基礎を築いた初代キャプテン 濱田諭吉
- 60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(上)
- 121年前、日本にサッカーを初めて紹介し東京高師−筑波大に根付かせた大功労者 坪井玄道
- 大日本蹴球協会(JFA)設立、全日本選手権開催。大正年間に組織作りを成功させた漢学者・内野台嶺
- 自らプレーヤーで指導者でもありサッカーに生涯を捧げた記者 山田午郎
- 日本サッカーの創生期から発展期まで、歴史とともに生きて歴史を伝えた大先達 新田純興(上)
- 国際舞台での初勝利からベルリンの逆転劇まで代表チームのリーダー 鈴木重義(上)
- 極東大会で活躍した名プレーヤー。JFAを支え、導いた 篠島秀雄(上)
- 大正末期、ビルマ人の指導で全国制覇
- マンチェスターサポーターのふる里「オールド・トラフォード」
- vol.1 イタリア(上)
- vol.21 ルーマニア
- 大正末期のショートパス(2)
- ベルリン→ニュルンベルク:カカーの右足シュートの確かさと負けても粘るクロアチアの執着心
- 始まりは明治初期の英国海軍。極東大会敗戦が熱中期へのきっかけ
- JFA初代会長、今村次吉は不忍池周回競争の裸足のランナー
- 広島、神戸、名古屋、各地各様の伏流がやがて日本代表へJFA創設からの急速進化
- 五輪代表の進化を「東京」への始動 早慶の充実でサッカー人気が向上
- オットー・ネルツのフスバルをバイブルに 東大、早大を追う慶應の初代主将濱田諭吉
- 84年前に中華民国から1ゴール。兵庫、関西の協会長、神戸FC会長として少年育成に尽くした明治生まれのリーダー 玉井操
- 1950年代に全国実業団6連勝94戦無敗の田辺製薬の守りの柱 宮田孝治(上)
- インドネシアに初戦で完敗 新興国の向上の早さに後れをとる
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日本の初期のサッカーの技術アップに貢献したチョー・ディン。右は彼に習った早高の鈴木重義。