日本サッカー史

日本サッカーアーカイブ ホーム > 日本サッカー史 > 1923(大正12年)

1923(大正12年)

 この年の日本では9月に関東大震災があり東京は壊滅的な打撃を受け、秋以降は東京を中心としたスポーツ行事はほとんど中止されている。
 幸いなことに第6回極東選手権競技大会の日本開催は大阪と決まっていて、当時、経済力のあった大阪市は独力で初の総合競技場を建設し、会場とした。

 サッカーは代表選考会を行ない、優勝した大阪サッカー倶楽部が出場。大阪で古い伝統を持つ明星商業(サッカー部創立・1912年)のOBたちのチームは、2戦2敗。フィリピンとはこれまでよりも点差を縮めたが、中華民国には、相変わらず歯が立たなかった。

 この年の初頭、1月に東京帝大(現・東大)主催の第1回全国高校蹴球大会が行なわれた。
 東大の学生であった野津謙(第4代JFA会長)が、高等学校のサッカーを盛んにすることで東大のサッカーをも強くしようと考えたものだが、本来は官公立の高等学校の大会であるところへ早稲田高等学院(略称・早高)が、是非にと参加した。
 すでにJFAの仕事を手伝い、野津とも面識のあった早高の鈴木重義の申入れに、東大側は断りきれなかったという。

 その早高のコーチをしたビルマ(現・ミャンマー)人留学生チョー・ディンの評判が高まり、東京高等工業の留学生だった彼も、好きなスポーツの指導に出かけ、関東大震災で学校が倒壊して授業ができなくなったこともあり、西日本にまで足を伸ばして巡回指導をした。
 自ら書き上げたテキストを配布し、プレーの模範を示して基礎技術から戦術まで教える彼によって、全国各地で急速なレベルアップがはじまる。

 ブラジルではこの年、州選抜チームによる全国選手権がスタート(〜1963年)。バスコ・ダ・ガマがリオの1部リーグで優勝。多人種混合チームの優勝と評判になった。

日本のサッカー
  • 1月 第1回全国高等学校蹴球大会(旧制インターハイ)で早稲田高等学院が優勝
  • 5月 第6回極東大会(大阪)開催。サッカーの部で日本は2戦2敗
  • 9月 関東大震災の影響により第3回全国優勝大会(現・天皇杯)中止。1924年2月に開催
  • 11月 関東大学リーグ(1部6校、2部6校)の規約が成立。実施は1924年11月から
世界のサッカー
  • 4月 イングランドのFAカップ、初のウェンブリーでの決勝に収容力を越す大観衆が詰めかけ、キックオフが40分遅れる
  • 5月 1922−23年度のリーグはリバプールが2年連続優勝。20世紀に入って4度目のタイトル

主な大会

  • 第1回全国高等学校大会
    早高が優勝(東京高師グラウンド、8チーム参加、ノックアウト制)
     決勝 早稲田高等学院 2−0 山口高

日本代表

  • 第6回極東大会
    (大阪)
    5月23日 日本 1−2 フィリピン
    5月24日 日本 1−5 中華民国

主な出来事

日本の出来事
  • 1月 菊池寛が「文藝春秋」創刊
  • 9月 9月1日 関東大震災
     午前11時58分44秒、マグニチュード7.9、震度6。
     震源地は伊豆大島北端。被災家屋57万6000戸、死者9万9,331人、不明4万3,476人。
世界の出来事
  • 4月 ニューヨークのヤンキースタジアム開場。ベーブルースがホームラン
  • 8月 ドイツマルク大暴落

フォトライブラリ

写真をクリックすると拡大表示されます。

FAカップ

超満員のウェンブリー・スタジアム/新スタジアムでのFAカップ決勝の人気で、収容力をはるかに超える12万余の観衆が入り、グラウンドにもあふれた。ジョージ五世の来場で場内から国家が沸き上がり、秩序を保った。

第1回全国高校蹴球大会、チョー・ディン、鈴木重義

1923年 第1回全国高校蹴球大会に優勝した早稲田高等学院チームとチョー・ディン・コーチ(中央)。前列右から2人目は鈴木重義主将。「How to Play Association Football」より

このページの先頭に戻る