日本サッカー史
日本サッカーアーカイブ ホーム > 日本サッカー史 > 1925(大正14年)
1925(大正14年)
この年2月に甲子園(野球場)で行なわれた第8回フートボール大会で、7連勝の御影師範を破って神戸一中が優勝した。年齢が師範より2歳低いことと体格面のハンデを、俊敏性を生かすことで克服した。
その技術アップには、チョーディン・の半日指導が役立った。スコットランド人に習ったチョー・ディンはショートパスでつなぐ攻撃を教え、それが開花した。
関東では第8回関東大会で青山師範が優勝し、ここまで青山師範が4回、豊島師範も4回と優勝を師範が独占。中学生はまだタイトルには縁がなかった。
極東大会の出場チームを決める予選会は、関東代表の早大、関西代表の大阪サッカークラブとブラック・キャット(黒猫)クラブの3チームのKO(ノックアウト)システムで争われた。
ブラック・キャットはJFAが後押しして鯉城蹴球団(第4回全国優勝大会勝者・中国地方代表)を中心に、関東関西の大学や高校から選手を選抜して結成したチームだったが、1回戦で早大を延長で破った大阪クラブがブラック・キャットにも勝って代表権を獲得した。
6月のインターナショナルボード(国際評議会)で、オフサイドのルールが、これまでの3人から2人に変わった。
日本では翌年の1月30日から適用されたが、このルール変更はサッカーの戦術やシステムの大変革につながった。
日本のサッカー
- 1月 第8回日本フートボール大会で神戸一中が初優勝
- 1月 第3回全国高等学校大会で松山高校が初優勝
- 5月 第7回極東大会に大阪クラブが日本代表で出場、2戦2敗
- 9月 関西大学が、学生チームとして初の上海遠征
- 10月 第5回全国優勝大会(現・天皇杯)兼 第2回明治神宮大会で鯉城蹴球団が優勝
- 11月 関東大学リーグで東京高師が優勝(〜26年1月)
- 11月 関西学生リーグで関西大学が優勝(〜26年1月)
世界のサッカー
- 6月 インターナショナルボード(国際評議会)がオフサイドルールを改正。3人から2人に変更
主な大会
-
第3回全国高等学校大会松山高校が優勝(13校参加)
決勝 松山高校 3−2 山口高校 -
第2回早関定期戦早大 2−2 関学大
-
第7回極東大会代表決定大会大阪サッカークラブが代表権獲得(東京高師グラウンド)
1回戦 大阪サッカークラブ(関西) 2−1 早大(関東)
決 勝 大阪サッカークラブ(関西) 1−0 ブラック・キャット(中国) -
第2回関東大学リーグ1部6校 東京高師が優勝(〜1926年1月)
(1)東京高師
(2)東大
(3)早大
(4)法大
(5)一高
(6)慶大 -
第3回関西学生ア式蹴球連盟戦(現・関西学生リーグ)関大が優勝(〜1926年1月、5校)
(1)関大
(2)関学大
(3)神戸高商
(4)大阪外大
(5)和歌山高商
日本代表
-
第7回極東大会
日本、中華民国、フィリピンの3ヶ国リーグ(マニラ)
5月17日 日本 0−4 フィリピン
5月20日 日本 0−2 中華民国
主な出来事
日本の出来事
- 2月 全日本スキー連盟発足
- 4月 全日本陸上競技連盟発足
- 5月 兵庫県北部の但馬地方で大地震。マグニチュード7.0、全壊・焼失家屋2556、死者428人
- 9月 東京六大学野球リーグはじまる
- 10月 第1回簡易国勢調査
総人口 8345万6929人
内 地 5973万6822人
世界の出来事
- 1月 広州で中国共産党全国大会開催
- 2月 中国各地の日本資本企業でストライキが発生(〜5月)
- 3月 孫文が北京で病死
- 4月 ドイツの大統領選挙でヒンデンブルグが当選
- 10月 中国・故宮博物館開設
- 12月 ソ連で第14回共産党大会。スターリンの一国社会主義理論を採択し、党名を全ソ連邦共産党と改める
関連項目
- 昭和の大先達・竹腰重丸(上)
- 昭和の大先達・竹腰重丸(中)
- サッカーは移民のスポーツ
- 独立と王室のバックアップ
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(上)
- プロリーグとコパ・アメリカ開催
- どのポジションもこなした“天才”右近徳太郎
- ゴールへの位置取り
- デットマール・クラマー(上)
- 第17回 竹腰重丸(3)ひたむきに極東の王座へ 上海でフィリピンに勝ち 東京で中華民国と3−3
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(上)
- 後進地・岩手から銅メダル・チームのキャプテンを生み出した 工藤孝一(下)
- ゴールを奪うMFで優しい指導者 歴史を掘り起こした記者 岩谷俊夫
- 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(上)
- 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(下)
- 第46回 デットマール・クラマー(2)“鉄人”と呼ばれた気配りの達人
- 第48回 手島志郎(1)敏捷性を生かし日本スタイルの原型を築いた75年前の代表チームCF
- 戦後10年、ウイングプレー一筋 センタリングの神様 鴇田正憲(上)
- 75年前の日本代表初代ストライカー。すり抜ける名手 手島 志郎
- 京都と日本のサッカーに捧げた90年 第6代藤田静夫(下)
- 自らプレーヤーで指導者でもありサッカーに生涯を捧げた記者 山田午郎
- 旧制神戸一中の生徒たちを半日の指導で変身させたビルマ人留学生、大正期のクラマー チョー・ディン
- 国際舞台での初勝利からベルリンの逆転劇まで代表チームのリーダー 鈴木重義(上)
- 1927年の1勝を1936年のベルリンへつないだ卓越したリーダー 鈴木重義(中)
- JFA創立から20年間の急成長を彩った稀有のチームリーダー 松丸貞一(下)
- 自らは優れたランナー。体協の筆頭理事で募金活動に腕を振るったJFA初代会長 今村次吉
- 極東大会で活躍した名プレーヤー。JFAを支え、導いた 篠島秀雄(上)
- 華族で貴族院議員。ベルリン五輪へ代表を送り成果を挙げた、第2代JFA会長 深尾隆太郎
- 1936年ベルリン五輪 スウェーデン戦逆転劇のキャプテン 竹内悌三
- 神戸一中のサイドキックとショートパス
- 新装の南運動場での中学選手権
- 1938年フランスW杯「ブラジルの評価高まる」
- 日本サッカー界を改革した外国人伝道師デットマール・クラマーの来日
- フランス・サッカー100年史展に秘められた合理性
- 第1回大会からW杯を全て取材先輩記者ルセロ氏
- 大正末期のショートパス(3)
- 昭和初期のレベルアップ(1)
- 昭和初期のレベルアップ(4)
- 韓国に一度も負けなかった 最後の古典的ウイング、鴇田正憲
- 東上の車中に思う デアバルの不運とトルコの好運
- デットマール・クラマー「『日本サッカーの父』に聞く」
- 釜本邦茂(3)17歳、高2でデットマール・クラマーと衝撃の出会い“北海道のクマのままじゃない”
- 田辺五兵衛とともに桃山中学をトップに、ゴットンとともに関学を関西ナンバーワンに。昭和初期の日本一のGK 斎藤才三(中)
- ベルリンの栄光を味わい戦後の日本サッカー復興期を支えた実力者 小野卓爾(上)
- オットー・ネルツのフスバルをバイブルに 東大、早大を追う慶應の初代主将濱田諭吉
- 濱田・ネルツ理論を受け継ぎ、新しいサッカーを目指した松丸・慶応
フォトライブラリ
写真をクリックすると拡大表示されます。

少年向けに山田さんが書いた指導書(扉)

大正14年(1925年)の発行日と定価五拾銭(50銭)に注目