日本サッカー史
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1927(昭和2年)
8月に上海で行なわれた第8回極東大会で、早大WMWを中心とする日本代表は中華民国には敗れたが、フィリピンを2−1で破り、国際舞台で初の1勝を挙げた。極東大会初参加の1917年から10年、JFA創立から6年後のことである。
中心となった早大WMWのメンバーに、この大会2回目の竹腰重丸や東京高師附属中学出身の選手を補強したのも効果があった。チームの鈴木重義主将と同じチョー・ディンの門下生であり、パスをつなぐという基本的な考えを共有していたメンバーだった。
インターハイ効果で東大へ優秀なプレーヤーが集まり、関東大学サッカーが黄金期の東大を中心に動きはじめたとき、早大がまたOBと学生の混合チームWMWを結成して早稲田の結束を固める基盤を作ったのも新しい考えだった。
チョー・ディンの教えを受けて独特のショートパス攻撃を作った中学校クラブの出身者。個人技術の進歩とともに、高い組織力を望む傾向が現れてきていた。
“陸の王者”慶應にも、新しい動きがあった。
慶應ソッカー部が大学のなかで正式の運動部として認められることになった。1921年から「慶應アソシエーションフットボール倶楽部」と名乗ってJFAにも登録していたが、ラグビーフットボール部との兼ね合いから大学内の公式の部とはなっていなかったのを、「フットボール」を使わずに「ソッカー(サッカー)」という用語にすることでその立場を確立した。
この正式発足に力を得た濱田諭吉が、ドイツのオットー・ネルツの著書『フスバル(フットボール)』の全訳に挑み、これを完成して自分たちソッカー部のテキストとした。
ドイツ式の彼らのサッカーが東大や早大を追いかけ、昭和前期のサッカーの盛り上がりがはじまる。
オフサイドルール改定の影響によるイングランドでの得点増はつづき、2部のミドルスブラのG.カムセルは59得点。チームも122得点を記録した。
日本のサッカー
- 1月 第10回全国中等学校蹴球選手権は中止。翌年開催
- 6月 極東大会予選で早大WMWが優勝
- 8月 上海での極東大会でフィリピンを破る
- 10月 大学リーグは、関東は東大が連続優勝。関西では京大が関学と1位を分ける
- 10月 全国優勝大会(現・天皇杯)で神中クラブが優勝。一連の動きのなかにチョウ・ディン指導の効果が見てとれる
世界のサッカー
主な大会
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第8回極東大会 日本代表関東予選早大WMWが優勝(6月18〜26日・戸山学校)
1回戦 3−2 水戸高
2回戦 1−0 法大
準決勝 2−1 東大
決 勝 6−2 東京高師 -
第8回極東大会 日本代表全国予選早大WMWが優勝、代表権獲得(7月29〜31日・明治神宮)
1回戦 2−1 神戸一中(兵庫)
決 勝 2−1 広島蹴球団(中国) -
第5回関西学生ア式蹴球連盟戦(現関西学生リーグ)1部5校(1・2部制)京大、関学大がともに1位。
(1)京大 3勝1分け
(1)関学大 3勝1分け
(3)神戸高商 2勝2敗
(4)大阪外大 1勝3敗
(5)関大 4敗
※2部は4校 -
第7回全国優勝大会 兼 第4回明治神宮大会(現・天皇杯)神中クラブ(神戸一中OBクラブ)が優勝(各地域代表8チーム参加)
1回戦 2−0 芳野クラブ(名古屋)
準決勝 1−0 早稲田高等学院(関東)
決 勝 2−0 鯉城クラブ(中国) -
第4回関東大学リーグ1部6校 東大が優勝(11月5日〜)
(1)東大 5勝(得点13、失点3)
(2)慶大 2勝2分け1敗
(3)早大 2勝1分け2敗
(4)一高 2勝1分け2敗
(5)東京高師 2勝3敗
(6)法大 5敗
日本代表
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第8回極東大会
日本、中華民国、フィリピンによる3ヶ国リーグ(上海)
8月27日 日本 1−5 中華民国
8月29日 日本 2−1 フィリピン
主な出来事
日本の出来事
- 1月 日本大相撲協会発足
- 3月 丹後大地震。死者3000人、倒壊家屋1万2584戸
- 8月 第13回全国中等学校野球大会をNHKが甲子園からラジオの実況中継。スポーツ実況放送のはじまり
- 9月 宝塚少女歌劇でレビュー「モン・パリ」初演大ヒット
- 11月 初の明治節(明治天皇誕生記念日)。明治神宮に昼夜あわせて80万人が参拝
世界の出来事
- 4月 蒋介石が反共クーデター。南京政府を樹立
- 5月 リンドバーグが大西洋横断飛行(33時間29分30秒)に成功
- 10月 毛沢東が江西省井岡山に革命拠点をおく
関連項目
- 19世紀末からサッカー
- 昭和の大先達・竹腰重丸(中)
- 南米で2番目に古いFA
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(下)
- スワレスとクバラ
- どのポジションもこなした“天才”右近徳太郎
- 第17回 竹腰重丸(3)ひたむきに極東の王座へ 上海でフィリピンに勝ち 東京で中華民国と3−3
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(上)
- 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(続)
- 早稲田の“主” 工藤孝一(上)
- 第32回 戦野に倒れたフットボーラー 松永行さんをガダルカナルで、竹内悌三さんをシベリアで失う
- 75年前の日本代表初代ストライカー。すり抜ける名手 手島 志郎
- ドイツ語の指導書をテキストに慶応ソッカー部の基礎を築いた初代キャプテン 濱田諭吉
- クラマーと日本とドイツのサッカー
- 50年前に活躍した日本人初のFIFA常任理事 市田左右一(上)
- メキシコ・オリンピックの8ヶ月前に釜本邦茂の劇的開花を助けた西独の名コーチ ユップ・デアバル
- チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)
- 国際舞台での初勝利からベルリンの逆転劇まで代表チームのリーダー 鈴木重義(上)
- 1927年の1勝を1936年のベルリンへつないだ卓越したリーダー 鈴木重義(中)
- 厳しいコーチをバックアップし代表チームに栄冠を呼んだ監督 鈴木重義(下)
- 大戦前の4年間、光彩を放った慶應義塾のソッカーを築いた 松丸貞一(上)
- JFA創立から20年間の急成長を彩った稀有のチームリーダー 松丸貞一(下)
- 極東大会で活躍した名プレーヤー。JFAを支え、導いた 篠島秀雄(上)
- 1936年ベルリン五輪 スウェーデン戦逆転劇のキャプテン 竹内悌三
- フフイ、ボゴダ、マイアミ
- 昭和初期のレベルアップ(1)
- 昭和初期のレベルアップ(2)
- 昭和初期のレベルアップ(4)
- 大戦争前の光彩(7)
- 東上の車中に思う デアバルの不運とトルコの好運
- フェレンツ・プスカシュ(1)30歳を超えてなお増した輝き
- フェレンツ・プスカシュ(2)疾走、左利き、小さな大砲
- ユルゲン・クリンスマン(7)90年W杯、対オランダ戦で会心のボレーシュート
- 関学を日本一に、極東大会で日本をアジア一に、大会主催社の記者として珠玉の批評を残した 斎藤才三(下)
- 1927年第8回極東大会、チョー・ディンの弟子たちが初勝利
- 昭和初期の日本サッカー技術力アップのリーダーとなったチョー・ディンの弟子たち
- 1930年第9回極東大会のために初の選抜代表チームを編成したJFA
- ベルリンの栄光を味わい戦後の日本サッカー復興期を支えた実力者 小野卓爾(上)
- 東京とメキシコの成功を将来に備えたFIFAコーチングスクールやJFAと中央大学の発展と基礎を築いた“実力者” 小野卓爾(下)
- 五輪代表の進化を「東京」への始動 早慶の充実でサッカー人気が向上
- 青山師、修道、普成、神戸一中 4強が争った開戦直前の明治神宮大会
- 84年前に中華民国から1ゴール。兵庫、関西の協会長、神戸FC会長として少年育成に尽くした明治生まれのリーダー 玉井操
フォトライブラリ
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第7回全国優勝大会(天皇杯)に優勝した神中クラブ(神戸一中OB)。後列左から角谷、山口、田中、若林*、高山*、一藤、北川 前列左から西村(赤川)*、小畠、沢野、永野 *印は1930年日本代表

オットー・ネルツの著書『フスバル(フットボール)』を翻訳して慶應のテキストとした濱田諭吉キャプテン。

アサヒスポーツ「第8回極東選手権競技大会特別号」の表紙(1927年9月25日号) ※禁無断転載

アサヒスポーツ「第4回明治神宮体育大会記念号」の表紙(1927年11月20日号) ※禁無断転載