日本サッカー史
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1928(昭和3年)
1912年のストックホルムの第5回大会で競技大会の形が今日に近いものに整いはじめたオリンピックは、第一次大戦の中断を経て、アントワープ(1920)パリ(1924)と回を重ね、1928年にはオランダのアムステルダムで第8回大会を迎えることになった。
1912年に初参加した日本スポーツ界も、陸上競技、水泳などでのレベルアップがあり、この年7月28日から8月12日までの本大会の陸上競技三段跳びで織田幹雄、水泳200メートル平泳ぎで鶴田義行がそれぞれ初の金メダル。日本国内のスポーツへの関心を一気に高めることになった。
前回のパリ大会のときから冬季オリンピックがはじまったが、この年2月にスイスのサン・モリッツで第2回冬季大会が開催され、人気種目の女子フィギアではノルウェーのソニア・ヘニーが優勝。
前回のパリ・オリンピックのサッカーでウルグアイが初参加で初優勝し、ヨーロッパを驚かせたが、今度もまたウルグアイが優勝した。
決勝の相手がラプラタ河をはさんでのライバル・アルゼンチンで、両国代表の高いレベルでの2試合(再試合をした)は改めて、サッカーというスポーツの世界での広がりを示したものだった。
その広いサッカーの世界に日本も加わりたいと、このアムステルダム大会の日本選手団役員であった野津謙(のづ・ゆずる)JFA理事が、同市にあるFIFA(国際サッカー連盟)事務局を訪れ、加盟申請をした。
国内では大学での活動が高まるとともに、サッカーのレベルアップが顕著になっていた。
イスラエル・サッカー協会創立。
バミューダ・サッカー協会創立。
日本のサッカー
- 1月 全国高等学校大会で広島高校が初優勝。小柄なゴールゲッター・手島志郎の活躍などでノックアウト・システムの4試合全てに3点以上の差をつけて優勝した
- 1月 地域の予選を勝ち抜いた8チームによる全国中等学校選手権大会はこの年2回目(日本フートボール大会時代から10回目)を迎え、朝鮮地方代表の平壌崇実が圧倒的な強さで優勝
兵庫県以外のチームが優勝旗を手にしたのは初。兵庫代表の御影師範は1回戦で関東・東北代表の東京高師附属中学校に敗れた - 8月 アムステルダムで開催されたFIFA総会で日本の加盟が承認される
- 10月 第8回全日本選手権(現・天皇杯)で早大WMWが優勝。名称はWMWだが実質は学生のチーム。大学チームの日本選手権優勝は初めてのこと
- 10月 関東大学リーグは東大が3連覇
関西学生リーグでも関学大が3年連続優勝
(〜12月) - 11月 東大が上海に遠征し2試合を行なう。第1戦の相手は上海リーグ選抜(3−5)第2戦は英国駐屯軍選抜(0−5)でいずれも敗れたが、関東大学リーグ2連覇中の東大は、この遠征で新たに体格の優れた相手との試合を学び、組織サッカーの上達を図ることになる
世界のサッカー
- 5月 イングランドの1部リーグ(現・プレミアリーグ)で、エバートンのCF(センターフォワード)ディキシー・ディーンが1927−28年シーズンに60ゴールの得点記録を樹立
5月5日のリーグ最終戦、すでにリーグ優勝を確立していたエバートンのホームゲーム、グディソン・パークに集まった4万3,000人のサポーターの前で強敵アーセナルから3ゴールを奪い、記録を60に伸ばした - 6月 第9回オリンピック・アムステルダム大会のサッカー競技で、ウルグアイ代表が前回のパリ大会に続いて連続優勝。参加は17ヶ国(欧州10、南米3、中・北米2、アフリカ1、アジア1)
ウルグアイは1回戦2−0オランダ、準々決勝4−1ドイツ、準決勝3−2イタリアと勝ち上がり、決勝の相手は同じ南米のアルゼンチン(アメリカ、ベルギー、エジプトに勝利)
6月10日の決勝(アムステルダム・スタジアム)は1−1の同点。2日後の6月13日に再試合を行ない、ウルグアイが2−1で勝った。得点はウルグアイがフィゲロア(17分)スカローネ(65分)。アルゼンチンがモンティ(29分)
この両チームは2年後のワールドカップの決勝でも対戦する
主な大会
-
第5回全国高等学校蹴球大会広島高校が優勝(1月1〜5日、19校参加 ※元・インターハイ)
1回戦 8−6 六高
準々決勝 6−1 一高
準決勝 3−0 浦和
決勝 8−1 松山
-
第10回全国中等学校蹴球大会平壌崇実(満州・朝鮮地区代表)が優勝(1月5〜7日、甲子園球場 ※元・日本フートボール大会)
1回戦 11−0 京都師範
準決勝 6−0 東京高師附属中学
決勝 6−1 広島一中
※地域予選制施行以来2回目 -
第6回関西学生ア式蹴球連盟戦(現・関西学生リーグ)関学大が優勝(9月30日〜12月2日)
(1)関学大 4勝
(2)神戸高商 3勝1敗
(3)京大 1勝1分け2敗
(4)関大 1勝1分け2敗
(5)大阪外大 4敗 -
第8回全日本蹴球選手権(現・天皇杯)早大WMWが優勝(10月27〜28日、東京・明治神宮競技場 ※元・全国優勝大会)
1回戦 2−0 名古屋高工
準決勝 5−1 慶大BRB
決勝 6−1 京大 -
第5回関東大学リーグ(10月21日〜12月18日)
(1)東大 5勝
(2)慶大 3勝1分け1敗
(3)早大 3勝2敗
(4)明大 2勝1分け2敗
(5)東京高師 1分け4敗
(6)一高 1分け4敗
日本代表
主な出来事
日本の出来事
- 2月 日本共産党機関紙「赤旗」創刊
- 5月 日本軍が中国・済南で国民革命軍と衝突
- 8月 アムステルダム・オリンピックで三段跳びの織田幹雄と200メートル平泳ぎの鶴田義行がそれぞれ初の金メダルを獲得
世界の出来事
- 2月 スイスのサン・モリッツで第2回冬季オリンピック開催(日本スキー選手初参加)
- 2月 蒋介石が中央政治会議主席に就任
- 6月 中国東北部(満州)で勢力を持つ張作霖が死亡。日本軍の謀略による列車爆破によるものとされた
- 7月 蒋介石が孫文の霊前に北伐の成功を報告
- 8月 蒋介石が国民政府主席に就任
- 11月 アメリカ、イギリス、フランスが中華民国国民政府を正式承認
- 11月 イタリアでファシスト大評議会が正式の国家機関に(12月、国会でファシスト独裁法を承認)
関連項目
- “熱情的サッカー国”チリ
- 19世紀末からサッカー
- 昭和の大先達・竹腰重丸(中)
- ブリテン島への選手の流出
- 南米で2番目に古いFA
- 視野の広さと国際感覚
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(上)
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(下)
- 日本代表を応援し続けて40年 サポーターの元祖 鈴木良韶さん(上)
- 東北初の高校チャンピオンを育てた剣道の達人 内山真(上)
- 東北初の高校チャンピオンを育てた剣道の達人 内山真(下)
- 75年前の日本代表初代ストライカー。すり抜ける名手 手島 志郎
- 京都と日本のサッカーに捧げた90年 第6代藤田静夫(下)
- 日本代表を世界基準に向けさせた初の外国人監督 ハンス・オフト(上)
- 50年前に活躍した日本人初のFIFA常任理事 市田左右一(上)
- チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)
- 伝統的な哲学を持ちつつ日本のサッカーとスポーツの国際化を図ったドクター 野津謙(下)
- 1927年の1勝を1936年のベルリンへつないだ卓越したリーダー 鈴木重義(中)
- 厳しいコーチをバックアップし代表チームに栄冠を呼んだ監督 鈴木重義(下)
- JFA創立から20年間の急成長を彩った稀有のチームリーダー 松丸貞一(下)
- 極東大会で活躍した名プレーヤー。JFAを支え、導いた 篠島秀雄(上)
- 第9回極東大会で中華民国と3−3を演じた最年少FW 篠島秀雄(下)
- 華族で貴族院議員。ベルリン五輪へ代表を送り成果を挙げた、第2代JFA会長 深尾隆太郎
- 企業チームの部長としてチームをナンバーワンに。第7代JFA会長 島田秀夫
- 1936年ベルリン五輪 スウェーデン戦逆転劇のキャプテン 竹内悌三
- 30年極東大会、36年五輪。2つのビッグイベントを勝ち抜いた名FB 竹内悌三(続)
- 1928年アムステルダム・オリンピック「ウルグアイとの決戦」
- フットボールとトラチトリ
- 世界の舞台では…
- 1930年ウルグアイW杯「W杯開催とセンテナリオ競技場」
- ラプラタに憶う
- 8万人収容のエスタジオ・センテナリオ
- vol.1 イタリア(上)
- vol.6 オランダ(下)
- 第1回大会からW杯を全て取材先輩記者ルセロ氏
- vol.31 フランス(下)
- ウレッビは世界に開くスポーツセンター
- オリンピックのコロシアムで 7月14日
- 昭和初期のレベルアップ(4)
- スポーツ記者になって(1)
- 決勝翌日、帰宅の列車で天国の仲間の意見を思う
- 手島と篠島の働き、死力を尽くした竹腰 劇的な対中華民国3-3ドロー
- 84年前に中華民国から1ゴール。兵庫、関西の協会長、神戸FC会長として少年育成に尽くした明治生まれのリーダー 玉井操
フォトライブラリ
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![クリックすると拡大表示されます 全国高校蹴球大会(インターハイ)、手島志郎](/user/images/photo/136.s.jpg)
1928年1月、全国高校蹴球大会に優勝した広島高等学校。前列右から2人目の長髪が手島志郎選手(アサヒスポーツ1928年1月15日号)※禁無断転載
![クリックすると拡大表示されます](/user/images/photo/137.s.jpg)
東大の上海遠征で、英国軍選抜チームとの記念撮影。白ユニフォームが東大(アサヒスポーツ1928年12月1日号)※禁無断転載
![クリックすると拡大表示されます 河本春男](/user/images/photo/462.s.jpg)
河本春男18歳。1928年東京高等師範学校入学のとき 写真提供:(財)ユーハイム体育・スポーツ振興会