日本サッカー史

日本サッカーアーカイブ ホーム > 日本サッカー史 > 1929(昭和4年)

1929(昭和4年)

 中国では蒋介石の国民政府軍が朱徳・毛沢東の中国共産党軍を次第に圧迫、日本ドイツイタリアとともに国民政府を正式に承認した。
 国内では4月に共産党に対する大検挙があり、思想弾圧が強まっていた。
 この年の10月24日(木)ニューヨークの株式市場が大暴落して“暗黒の木曜日”と呼ばれ、世界恐慌のはじまりとなった。
 こうした社会の大きなうねりの中で、日本のスポーツ界は前年1928年アムステルダム・オリンピックでの金メダル獲得(織田幹雄/三段跳び、鶴田義行/200m平泳ぎ)で大いに盛り上がり、32年のロサンゼルス・オリンピックに向かって歩み始めた。

 サッカー界では、今村次吉(いまむら・じきち)会長の下でJFA内で改革があった。
 1921年の創立以来、パイオニアであった東京高等師範(高師)の出身者が運営の中心になっていたが、国際舞台への参加や各大学のレベルアップ、勢力増大などから役員改選の声が高まり、28年6月の理事改選では理事9人のうち高師関係者は2人だけ。他の大学出身者が7人と、これまでと大きく異なる顔触れとなった。
 このときのJFA(正式には大日本蹴球協会)は全国に北海道・東北・関東・東海・北陸・京阪・兵庫・中(四国)・九州・朝鮮の10支部を持ち、加盟チームは総数302で、創設時(65チーム)の約5倍になっていた。

 すでに1924年には東京に明治神宮外苑競技場が建設され、サッカーもビッグゲームの会場としていた。関西でも同年に(株)阪神電鉄が甲子園野球場をつくり、外野のフィールドを広くとって、サッカーやラグビーの試合会場にあてていたが、新たに甲子園南運動場を建設、1周500mのトラックとサッカー・ラグビー用の芝生のフィールドを持ち、鉄筋コンクリートのスタンドを備えた競技場が5月22日に竣工した。甲子園は野球場、プール、テニスコートなどを備えた大スポーツセンターを形成することになる。また同じ年、近畿日本鉄道(近鉄)は花園にラグビー専用グラウンドをつくった。

 世界のサッカー界では大きな決定があった。
 前年の1928年9月8日、チューリヒでの会議でFIFA(国際サッカー連盟)は「1930年を第1回として、4年ごとにワールドカップと称する大会を開催する」ことを決めていた。その開催地を決める会議が5月17、18日にバルセロナで開かれ、第1回大会の開催地がウルグアイに決まった。

日本のサッカー
  • 1月 第6回全国高等学校大会で早稲田高等学院(早高)が3度目の優勝
  • 1月 8地域代表による3回目の全国中等学校選手権大会(日本フートボール大会から数えて第11回)は、御影師範(兵庫・山陰)が優勝。決勝の対平壌高普(朝鮮代表)は延長の激闘、6−5だった
  • 5月 甲子園南運動場竣工
  • 6月 大日本蹴球協会(JFA)役員改選
       会長   今村次吉
       常務理事 鈴木重義(早大出)
       理事   吉川準治郎(豊島師範出)野津譲(東大出)山田午郎(青山師範出)千野正人(慶大出)井染道夫(明大出)中島道夫(東大出)峰岸春雄(農大出)竹腰重丸(東大出)
  • 10月 第7回関西学生リーグで関学大が4年連続優勝。第9回全日本選手権(現・天皇杯)兼明治神宮大会にも優勝
  • 11月 第6回関東大学リーグは東大が4年連続優勝。5戦全勝、得点30、失点6
  • 12月 この年から始まった第1回東西大学1位対抗で、東大と関学大が対戦。3−2で東大が勝った
世界のサッカー
  • 5月 イングランド代表がスペインに遠征し、15日、マドリードでスペイン代表に3−4で敗れた
    イングランド代表の1週間にわたる欧州遠征で、彼らはまずフランスに勝ち(4−1)ベルギーを破り(5−1)マドリードへ乗り込んだのだが、スペイン勢の巧みなドリブルに初の敗戦を記録した
  • 5月 FIFA(国際サッカー連盟)はバルセロナで開かれた総会(17、18日)で、1930年に開催する第1回ワールドカップの開催地をウルグアイに決定した

主な大会

  • 第6回全国高等学校蹴球大会
    早稲田学院が第1、2回につづいて3度目の優勝(1月1〜6日、19校参加 ※元・インターハイ)
     1回戦  4−0 五高
     2回戦  1−0 山口高
     準々決勝 2−1 浦和高
     準決勝  1−0 成城高
     決勝   3−2(延長) 六高

  • 第11回全国中等学校蹴球大会(現・高校選手権)
    御影師範が優勝(1月5〜7日、甲子園球場 ※元・日本フートボール大会)
     1回戦 11−0 滋賀師範
     準決勝 4−2 青山師範
     決勝  6−5 平壌高普
    ※通算9回目、うち予選制2回。予選制をしいて3回目

  • 第7回関西学生ア式蹴球連盟戦(現・関西学生リーグ)
    関学大が優勝(10月2日〜11月24日)
    (1)関学大  5勝
    (2)京大   4勝1敗
    (3)関大   2勝3敗
    (4)神商大  2勝3敗
    (5)大工大  2勝3敗
    (6)大外語大 5敗

  • 第9回全日本蹴球選手権 兼 第5回明治神宮大会(現天皇杯)
    関学クラブが優勝(10月28日〜11月1日、東京・明治神宮競技場)
     1回戦 6−0 富山師範
     準決勝 5−0 蜂章
     決勝  3−0 法政大

  • 第6回関東大学リーグ
    東大が優勝(10月17日〜12月25日)
    (1)東大  5勝
    (2)明大  3勝2敗
    (3)早大  2勝1分け2敗
    (4)慶大  2勝3敗
    (5)文理大 1勝1分け3敗
    (6)農大  1勝4敗

  • 第1回東西大学1位対抗(大学王座決定戦)
    12月25日 東大 3−2 関学大

日本代表

主な出来事

日本の出来事
  • 3月 前年6月に施行された緊急勅令の「治安維持法改正」を衆議院が事後承諾
  • 3月 元労農党代表・山本宣治(やまもと・せんじ、41歳)が右翼に暗殺された。京都生まれの生物学者で社会運動家。治安維持法の改正に反対していた
  • 4月 大阪梅田に阪急デパートが開店。初の本格的ターミナルデパート
  • 4月 日本共産党員の大検挙(4・16事件)
  • 5月 前年の済南事件の協定を締結し、日本軍が撤兵
  • 6月 中国国民政府を日本政府が正式承認
  • 7月 田中内閣総辞職――前年に中国東北部(満州)で張作霖を爆殺した関東軍の陰謀が明らかになったが、その首謀者・河本大作大佐への処分が手ぬるいことで、天皇の不興を買い、田中義一首相(政友会総裁)が総辞職を表明。民政党の浜口雄幸(はまぐち・おさち)を首相とする内閣が成立
  • 8月 ドイツの飛行船・ツェッペリン号が来日
  • 10月 大蔵省が金解禁の省令
世界の出来事
  • 1月 ソ連の革命推進者の一人、トロツキーが国外に追放される(1917年のロシア革命の功労者だが、22年に共産党書記長となったスターリンと意見が対立していた)
  • 3月 第31代アメリカ合衆国大統領にハーバート・フーヴァー(共和党)が就任
  • 4月 中華民国国民政府が各国に治外法権の撤廃を要請
  • 8月 ドイツの飛行船・ツェッペリン号、世界一周に成功
  • 8月 エルサレムで「嘆きの壁」事件。アラブ人、ユダヤ人の衝突
  • 10月 ニューヨーク・ウォール街の株が大暴落(暗黒の木曜日)。世界恐慌始まる

フォトライブラリ

写真をクリックすると拡大表示されます。

このページの先頭に戻る