日本サッカー史
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1930(昭和5年)
前年のアメリカの株式大暴落は世界的な不況を招き、日本でもこの年は生糸や米の大暴落があり、輸出減少のため、各種生産工場の減産やそれによる工場労働者に対する減給、それに反対するストライキなども起こった。
そうした社会情勢ながら、スポーツ熱の高まりは止まることなく、各種スポーツの外国選手、外国チームとの国際試合への関心も強まった。
5月24日から31日まで東京で開催された第9回極東選手権競技大会は、日本・フィリピン・中華民国の東アジア3ヶ国の代表が陸上競技、野球、庭球(テニス)蹴球(サッカー)排球(バレーボール)籠球(バスケットボール)水上(水泳)の各競技の優勝を争うとともに、総合優勝国には大正天皇杯賜杯が授与されることになっていた。
すでに1917年(大正6年)の第3回大会を東京・芝浦で、第6回大会を大阪で、それぞれ開催していて、3度目の日本開催だが、今回はこれまで以上にメディアも取り上げた。ひとつには、アジア各国のなかで最も近代化が進みつつあるとの自負からスポーツでもアジアの盟主となろうと意気込み、さらには天皇賜杯保持という目標もあった。
野球や陸上、水泳、庭球などが東アジアで一歩抜きんでているのに、蹴球は2年前の第8回大会(上海)でフィリピンを破る(2−1)までにはなったが、中華民国には勝てなかった。東京の、しかも明治神宮外苑競技場というホームで両国に勝つことは、JFAの開催者たちにとっては使命といえた。それは1964年の東京オリンピックを控えて、当時の関係者が“開催国が1勝もできないという恥ずかしいことではいけない”と考えたのと同じ心境であろう。1929年のJFAの組織改革、役員改選も、ひとつには、この第9回極東大会に向かうJFAの姿勢でもあった。
予選大会の優勝チームを主力に代表チームを構成するというこれまでの方法を止めて、当時の最高レベルにあった関東大学リーグ、関西学生リーグのなかから選手を選抜した。合同練習を行なってチームを組むことにした。
結果的には当時の学生界最強の東大の選手が多く選ばれたが、鈴木重義監督、竹腰重丸コーチ兼主将の指導によって「日本選手の敏捷性、労を惜しまぬ勤勉さと技術力を生かすために、まず動きの量で相手に勝り、組織プレーで勝つ」という考えを、50日に及ぶ合宿合同練習でチームに浸透させた。
5月の本番では、フィリピンに勝ち中華民国には3−3で引き分けて勝つことはできなかったが、果敢な試合ぶりが多くの観客に感銘を与え、また、メディアにも大きく取り上げられた。JOC(日本オリンピック委員会)や体育協会のなかでもサッカーは強くなったと評価が高まり、オリンピック参加も語られるようになった。
世界のサッカー界でも、転向点ともいうべき歴史的なイベントがあった。
7月に第1回ワールドカップが南米ウルグアイで開催された。建国100周年記念に新しく巨大なスタジアムを建設して会場にし、参加チームの全費用を負担するという開催国の熱意と、ジュール・リメ会長、アンリ・ドロネー事務局長たちFIFA(国際サッカー連盟)役員たちの努力で「オリンピックのような選手資格を制限する大会でなく(当時はアマチュアだけが参加)誰もが参加して、真の世界一を決める大会」が実現した。
大西洋を渡る長期の旅というハンデもあって、ヨーロッパからの参加はリメ会長の母国フランスとルーマニア、ベルギー、ユーゴスラビアを合わせた4ヶ国だけだった。この欧州4ヶ国とアメリカ合衆国、メキシコ、そして南米のアルゼンチン、チリ、ボリビア、ブラジル、ペルー、パラグアイと開催国ウルグアイの合計13ヶ国が参加して、7月13日から30日まで18日間にわたり首都モンテビデオで開催された。4グループによる1次リーグののち、各組1位による準決勝でアルゼンチンがアメリカを、ウルグアイがユーゴスラビアをそれぞれ6−1で破って決勝に進み、ウルグアイが4−2で勝って初代チャンピオンとなり、黄金の女神像ジュール・リメ・トロフィーを手にした。
国内の試合では、旧インターハイが1923年の第1回大会以来回を重ねて、この年の極東大会の代表を生み出すようになったが、プレーヤーの個人能力だけでなく、この年の大会ではチームワーク、チーム戦術の面でもこれまでよりステップアップしはじめていた。
そのインターハイより少し年齢の低い全国中等学校蹴球選手権(現・高校選手権)では、のちのベルリン代表の世代が地域予選や本大会で活躍していた。
1936年ベルリン・オリンピックの対スウェーデン戦逆転劇(3−2)の1点目を決めた川本泰三(故人)、2点目を記録した右近徳太郎(故人)はこの年の本大会の準決勝で顔を合わせている。
ついでながら、1968年メキシコ・オリンピック銅メダルチームの監督、長沼健(故人)はこの年の生まれである。
日本のサッカー
- 1月 第7回全国高等学校大会で一高が初優勝
- 1月 第12回全国中等学校選手権大会(地域予選制をとって4回目)で神戸一中が2回目の優勝
大正7年の第1回日本フートボール大会以来の優勝チームは、御影師範が9回(予選制以前が7回)神戸一中が2回(同1回)平壌崇実が1回となった - 3月 第9回極東大会代表候補19選手の合宿練習はじまる(〜5月)
- 5月 第9回極東大会開幕(明治神宮外苑競技場)
日本代表はフィリピンを7−2で破り、中華民国と3−3で引き分け、1勝1分けで中華民国とともに1位となった(当時は得失点差で順位を決める規則ではなかった) - 10月 関東大学リーグで東大が5年連続優勝(〜12月)
- 10月 関西学生リーグで京大が初優勝(〜12月)
- 12月 東西学生1位対抗で、東大が2−1で京大を破って2連覇
世界のサッカー
- 7月 第1回FIFAワールドカップが南米ウルグアイの首都モンテビデオで行なわれ、ホスト国ウルグアイが決勝でアルゼンチンを4−2で破って初優勝、ジュール・リメ杯を獲得した(13ヶ国参加)
主な大会
-
第7回全国高等学校蹴球大会一高が優勝(1月1〜7日、23校参加、東大グラウンド ※元・インターハイ)
2回戦 3−0 五高
準々決勝 2−0 成城高
準決勝 2−0 水戸高
決勝(延長)5−3 広島高 -
第12回全国中等学校蹴球大会(現高校選手権)神戸一中(兵庫・山陰代表)が優勝(1月5〜7日、9校参加、甲子園南運動場)
1回戦 2−1 熊本第二師範(九州)
準々決勝 3−2 愛知第一師範(東海)
準決勝 1−0 市岡中(阪・和)
決勝 3−0 広島師範(中国) -
第8回関西学生リーグ京大が優勝(10月26日〜12月14日)
(1)京大 4勝1分け
(1)関学大 4勝1分け
(3)関大 2勝1分け2敗
(4)大商大 2勝3敗
(5)神商大 1勝1分け3敗
(6)大工大 5敗
優勝決定戦 京大 3−0 関学 -
第7回関東大学リーグ東大が優勝決定戦で早大を破り、5年連続優勝(10月19日〜12月14日)
(1)東大 3勝1敗
(1)早大 3勝1敗
(3)一高 2勝2敗
(3)慶大 2勝2敗
(5)文理大 4敗 ※現・筑波大
優勝決定戦 東大 1−0 早大 -
第2回東西大学1位対抗(大学王座決定戦)12月28日 東大 2−1 京大(南甲子園運動場)
≪東大≫
FW 鈴木、内藤、手島、篠島、三宅
HB 林、野沢、斎藤
FB 竹内、船岡
GK 阿部鵬二
≪京大≫
FW 松江、一藤敏男、水野、沢野、加茂下
HB 山本、西村清、有賀
FB 小幡、武村
GK 竹内至
日本代表
-
第9回極東大会
5月25日
日本 7(5−2、2−0)2 フィリピン
得点【日】若林(10、13、22)OG(16)手島(32)篠島(41)市橋(86)
【フ】パチェコ(6、8)
日本 8 FK 4 フィリピン
10 CK 8
9 GK 22
≪日本≫
FW 春山、若林(→市橋)、手島、篠島、高山
HB 本田(→井出)、竹腰、野沢
FB 竹内、後藤
GK 斉藤
≪フィリピン≫
FW モンフォルド、マルチネック、パチェコ、ウガルテ(兄)ウガルテ(弟)
HB モロ、メディナ、ヘレディア
FB ルイス、ペレツ
GK サントス
5月27日
中華民国 5(3−0、2−0)0 フィリピン
5月29日
日本 3(1−1、2−1)3 中華民国
得点【日】手島(23、56)篠島(73)
【中】戴(38、59、79)
日本 13 FK 4 中華民国
7 CK 3
16 GK 29
1 PK 0
≪日本≫
FW 春山、若林(→市橋)、手島、篠島、高山
HB 本田、竹腰、野沢
FB 竹内、後藤
GK 斉藤
≪中華民国≫
FW 陳(光)、孫、戴、陳(家)(→葉)、菅
HB 陳(鎧)黄、梁
FB 李(寧)(→馮)、李(天)
GK 周
主な出来事
日本の出来事
- 1月 金輸出解禁の実施
- 4月 鐘紡淀川工場で減給反対ストライキ、各工場へ波及
- 4月 ロンドンの海軍軍縮会議で軍縮条約に調印
- 5月 第9回極東選手権競技大会が東京で開催され、日本は陸上(個人・総合)野球・テニス・水泳の5種目優勝と蹴球の中華民国と同率1位によって、中華民国、フィリピンをおさえて総合優勝。大正天皇賜杯を保持した
- 8月 東京・大阪間で写真電送はじまる
- 9月 米価暴落
- 10月 枢密院でロンドン条約を承認
- 10月 東京・神戸間で特急「燕」の運転はじまる
- 11月 濱口雄幸首相が東京で狙撃されて重傷(31年8月26日没)、首相代理に幣原喜重郎外相
世界の出来事
- 2月 中華民国と各国との間で上海共同租界改組について協定が成立、治外法権撤廃に一歩前進
- 4月 日本・アメリカ・イギリス・フランス・イタリアの5ヶ国がロンドンで海軍軍縮条約に調印
- 9月 ドイツ国会選挙で社会民主党が第1党(143人)ナチス(107)共産党(77)が大躍進
- 10月 中国東北部(満州)の実力者・張学良が中央軍副司令となり国民党による挙国一致を提唱
関連項目
- 外国組と国内組のミックス
- 昭和の大先達・竹腰重丸(上)
- 昭和の大先達・竹腰重丸(中)
- カタール・サッカーの歴史は30年
- 昭和の大先達・竹腰重丸(下)
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(上)
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(中)
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(下)
- プロリーグとコパ・アメリカ開催
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(上)
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(中)
- 第9回 セルジオ越後(1)ボールテクニックの指導に新機軸
- どのポジションもこなした“天才”右近徳太郎
- 第12回 ヨハン・クライフ(1)スリムで、鋼のように強く、チームを意のままに動かし、観客をしびれさせた
- 第15回 竹腰重丸(1)サッカーひと筋74年 技術、戦術の大先達“ノコさん”
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター加藤正信(上)
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(中)
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(上)
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(下)
- 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(上)
- 世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー杉山隆一(上)
- 早稲田の“主” 工藤孝一(上)
- 第29回 テレ・サンターナ(2)アルゼンチンを苦しめ欧州王者・西ドイツを圧倒。新しい魅力の80−81ブラジ
- 第32回 戦野に倒れたフットボーラー 松永行さんをガダルカナルで、竹内悌三さんをシベリアで失う
- 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(上)
- 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(中)
- 第41回 二宮洋一(1)戦前のサッカー人気の中心として輝いたストライカー
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(上)
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(中)
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(下)
- W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(続)
- 日本の隅々まで足を伸ばし サッカーを教えたブラジル人 セルジオ越後(下)
- 【番外編】サッカー界の歴史指向とS誌選定、日本代表ベスト50 釜本邦茂の1位に思う
- 東北初の高校チャンピオンを育てた剣道の達人 内山真(下)
- 75年前の日本代表初代ストライカー。すり抜ける名手 手島 志郎
- 殿堂入り歴代会長と第6代藤田静夫(上)
- 京都と日本のサッカーに捧げた90年 第6代藤田静夫(下)
- 50年前に活躍した日本人初のFIFA常任理事 市田左右一(上)
- 60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(中)
- 【番外編】ドーハを思い起こす魔の2分間。その不思議の解明――
- 大日本蹴球協会(JFA)設立、全日本選手権開催。大正年間に組織作りを成功させた漢学者・内野台嶺
- 自らプレーヤーで指導者でもありサッカーに生涯を捧げた記者 山田午郎
- 日本サッカーの創生期から発展期まで、歴史とともに生きて歴史を伝えた大先達 新田純興(上)
- 旧制神戸一中の生徒たちを半日の指導で変身させたビルマ人留学生、大正期のクラマー チョー・ディン
- チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)
- 国際舞台での初勝利からベルリンの逆転劇まで代表チームのリーダー 鈴木重義(上)
- 1927年の1勝を1936年のベルリンへつないだ卓越したリーダー 鈴木重義(中)
- 大戦前の4年間、光彩を放った慶應義塾のソッカーを築いた 松丸貞一(上)
- JFA創立から20年間の急成長を彩った稀有のチームリーダー 松丸貞一(下)
- オシムに代わる代表監督――火事場に強い男 岡田武史
- 自らは優れたランナー。体協の筆頭理事で募金活動に腕を振るったJFA初代会長 今村次吉
- 極東大会で活躍した名プレーヤー。JFAを支え、導いた 篠島秀雄(上)
- 第9回極東大会で中華民国と3−3を演じた最年少FW 篠島秀雄(下)
- 華族で貴族院議員。ベルリン五輪へ代表を送り成果を挙げた、第2代JFA会長 深尾隆太郎
- 1936年ベルリン五輪 スウェーデン戦逆転劇のキャプテン 竹内悌三
- 世界の舞台では…
- 新装の南運動場での中学選手権
- 1930年ウルグアイW杯「サッカーのおもしろさを世界に伝えた」
- 1930年極東大会「初の選抜ナショナルチーム」
- 1930年ウルグアイW杯「W杯開催とセンテナリオ競技場」
- 1930年極東大会「猛練習と担当による精神統一」
- 1930年極東大会「完全に体を使い果たすまで...」
- 1936年ベルリン・オリンピック「奇跡の逆転を生んだ近代戦術」
- 1938年フランスW杯「ブラジルの評価高まる」
- 1958年スウェーデンW杯「歴史に残るスーパーゴール」
- 個人の名声は代表チームの不振となって
- メキシコ五輪出場に向けての海外遠征
- 五輪アイスホッケーに学ぶ サッカーのフィルターを通して見た共通点
- 日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった
- ラプラタに憶う
- 1978年アルゼンチンW杯「街に人があふれ、老若ともに喜び合う」
- ルーハン大聖堂とブラジル戦前夜
- 歴史を証明するかオーストリア
- ムッソリーニとG・メアッツァ
- ホテルを借り切り、ディスコを閉鎖したメノッティの入念さにアルゼンチンの意気込みを見る
- カルチョ・ストリコ・フィオレンチーノ
- 迫力の決勝戦。勝ったのは、やはり最も周到な準備をしたチーム、地元ウルグアイだった…
- 1982年スペインW杯「原型はモンテビデオ」
- ビルバオで見付けた大会14都市のポスター。その描き出すものは
- インテリジェンスとセンスに満ちたフランスの華麗なプレーに酔う
- 40年前の夏の思い出から始まったサッカーの旅
- アステカ最後の王の名がつく競技場で宿敵を撃破した充実のマラドーナ
- 8万人収容のエスタジオ・センテナリオ
- vol.1 イタリア(上)
- vol.6 オランダ(下)
- vol.21 ルーマニア
- vol.22 スウェーデン
- 第1回大会からW杯を全て取材先輩記者ルセロ氏
- vol.26 ドイツ(上)
- オリンピックのコロシアムで 7月14日
- サッカー 故里の旅 第5回 チェコの変動の歴史とダニュービアン・スタイル
- 伝統ドイツの退化に暗黙ランスでの対ユーゴ戦
- 大会に暗い影ネオ・ナチのランスでの暴動
- 1952年のジャマイカ旋風とジョン・バーンズの思い出
- いよいよ準々決勝フランスとイタリア60年の対戦の跡を思う
- 野球からサッカーへ
- ショートパス開花と天性のストライカー 特別編
- 大正末期のショートパス(3)
- 昭和初期のレベルアップ(1)
- 昭和初期のレベルアップ(3)
- 昭和初期のレベルアップ(4)
- 昭和初期のレベルアップ(5)
- ベルリン・オリンピック そのあとさき(1)
- 神戸のサッカー 【日本語版】
- 番外編 鹿島の優勝に創設J参入の決断を思う
- スポーツ記者になって(1)
- ローマ、東京、メキシコ(9)
- メキシコの余韻の中で(1)
- メキシコの余韻の中で(2)
- 長沼健さんの叙勲を祝う会で――。第1回W杯の年に生まれ、サッカーー筋74年
- 世界の“常識”を求めて(12)
- ニューイヤーズ・ドリームに思う 〜夢を追いかけ続けた兵庫サッカーの先人たち〜
- 神戸サッカー物語 vol.2
- 【番外編】キリンチャレンジカップ、新代表の2−0の勝利から。古くて新しいテーマ、走ることと個人能力
- 【番外編】アジアカップ2007より せっかくの“走る”を生かすためには…
- 【番外編】岡田武史監督 彼自身と日本サッカーの10年の証を見たい
- 79年前に初のアジア王者となった日本代表ゴールキーパー 斎藤才三(上)
- 【番外編】日本代表欧州遠征、第2戦ガーナ戦から
- 田辺五兵衛とともに桃山中学をトップに、ゴットンとともに関学を関西ナンバーワンに。昭和初期の日本一のGK 斎藤才三(中)
- 友人の遺志を継ぎ、停滞期の日本サッカーのなかで赤字体質を改革。第5代JFA会長 平井富三郎(上)
- 「坂の上の雲」の時代を身近に感じる85歳と語り合う歴史物語
- 対カメルーン、労を惜しまぬ動きと36年、30年代表に見る日本サッカーの原点
- ヨハン・クライフ流を受け継ぎ、頂点に立ったスペインのショートパス
- 昭和初期の日本サッカー技術力アップのリーダーとなったチョー・ディンの弟子たち
- 1930年第9回極東大会のために初の選抜代表チームを編成したJFA
- 「極東」で勝ち、オリンピックに向かうため JFAの改革と代表の体力キャンプ
- 小兵のストライカー、手島をはじめFWは東大の5人が並ぶ
- 爆発事故の死線を越えて。J2サガン鳥栖でも明るく闊達な指導 松本育夫(下)
- 「快走、好走、好連絡」でフィリピンを大破 初のハットトリックも
- 手島と篠島の働き、死力を尽くした竹腰 劇的な対中華民国3-3ドロー
- 死力を尽くして東アジア1位獲得 昭和5年代表に悲運のロス五輪
- 極東1位を足場に充実をはかるJFA
- 政治問題が代表の一体化に影を落とし、上昇日本に「蘭印」の強パンチ
- さあベルリンを目指そう 早大に新しいストライカー、川本
- 東伏見で一人ボールを転がしつつ 猛練習にも耐え、力をつけた川本泰三
- 日本的組織プレーとストライカー 30年と36年の成功の理由
- 40年「東京」を目指す日本代表の腕試し 38年、対イズリントン・コリンシャンズ
- 松丸 慶應は無敵の王者 情勢悪化の中で進化は続く
- 戦前のU-17全国中等学校選手権 1935年「夏」への移行
- 昭和天皇の「予想外」のお言葉に感激 天皇杯につながる47年4月3日
- 長い歴史とトヨタの先見をバックに花開いたピクシーと仲間たち。次は世界のビッグクラブへ
- 84年前に中華民国から1ゴール。兵庫、関西の協会長、神戸FC会長として少年育成に尽くした明治生まれのリーダー 玉井操
- ベルリンの奇跡の日本代表 闘志あふれるDFで理論派監督 堀江忠男(上)
- サッカーメディアあれこれ(上)
- 「ACL」から見えるアジアの未来(後編)
フォトライブラリ
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ワールドカップ初代得点王のギジェルモ・スタービレ(中央)。右はキャプテンのマヌエル・フェレイラ、左はフランシスコ・バラリョ

第1回ワールドカップ・ウルグアイ大会の開会式(エスタディオ・センテナリオ)

ワールドカップ初代チャンピオンに輝いたウルグアイ代表チーム

1930年 第9回極東大会の日本代表チーム。後列左から2人目から鈴木重義監督、一人おいて井出多米夫、杉村正三郎、高山忠雄、阿部鵬二、野沢正雄、竹腰重丸(主将兼コーチ)若林竹雄、春山泰雄、市橋時蔵、西村清。前列、本田長康、篠島秀雄、竹内悌三、後藤靭雄、手島志郎、斉藤才三

勝利の女神が八角の酒入れを捧げ持つ黄金のトロフィー。フランス人の彫刻家アベル・ラフロー(Abel Lafleur)作。大会の提案者、第3代FIFA会長の名を冠して、「ジュール・リメ杯」と呼ばれた

日本代表、極東大会に向けた石神井での合宿練習(アサヒスポーツ「極東大会予想号」1930年5月15日号)※禁無断転載

石神井合宿より(アサヒスポーツ1930年5月15日号)※禁無断転載

第9回極東大会の日本代表チーム、石神井合宿。後列左端が鈴木重義監督、前列右から3人目は竹腰重丸主将(アサヒスポーツ1930年5月15日号)※禁無断転載

第3回極東大会(東京芝浦運動場)の開会式。中央壇上は大会名誉会長の大隈重信侯爵(アサヒスポーツ 1930年4月15日号)

1930年 第9回極東大会の開会式(明治神宮競技場)

1930年 第9回極東大会の開会式(明治神宮競技場)

昭和5年、河本春男(前列左から2人目)東京高師2年のとき 写真提供:(財)ユーハイム体育・スポーツ振興会

1930年5月15日発行アサヒスポーツ「極東大会予想号」の表紙 ※禁無断転載

第9回極東大会 蹴球の日本対フィリピン戦 ※禁無断転載

1930年 第9回極東大会のフィリピン代表チーム

第9回極東大会蹴球、日本対中華民国戦。日本の左サイドからの攻撃シーン。明治神宮競技場のバックスタンド(土盛り芝生席)はギッシリ

1930年 第9回極東大会の中華民国代表チーム

1930年6月10日発行アサヒスポーツ臨時増刊「第9回極東大会特別号」の表紙。競技の1つであった野球の投手が描かれている ※禁無断転載

アサヒスポーツ「第9回極東大会特別号」の1ページ目。大会日程とその行事・成績の記事。中央の写真は総合優勝国(日本)が受けた大正天皇賜盃(アサヒスポーツ1930年6月10日号)※禁無断転載

ワールドカップ、第1回大会のポスター。ウルグアイの公用語のスペイン語で表記されている

ウルグアイの優勝を讃え、ラウル・フーデ・ウルグアイサッカー協会会長に黄金の女神像トロフィーを贈るジュール・リメFIFA会長

決勝を前に握手をかわすナサッシ(ウルグアイ)、フエレイラ(アルゼンチン)の両キャプテン。中央はランゲヌス・レフェリー(ベルギー)