日本サッカー史

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1930(昭和5年)

 前年のアメリカの株式大暴落は世界的な不況を招き、日本でもこの年は生糸や米の大暴落があり、輸出減少のため、各種生産工場の減産やそれによる工場労働者に対する減給、それに反対するストライキなども起こった。
 そうした社会情勢ながら、スポーツ熱の高まりは止まることなく、各種スポーツの外国選手、外国チームとの国際試合への関心も強まった。

 5月24日から31日まで東京で開催された第9回極東選手権競技大会は、日本・フィリピン・中華民国の東アジア3ヶ国の代表が陸上競技、野球、庭球(テニス)蹴球(サッカー)排球(バレーボール)籠球(バスケットボール)水上(水泳)の各競技の優勝を争うとともに、総合優勝国には大正天皇杯賜杯が授与されることになっていた。
 すでに1917年(大正6年)の第3回大会を東京・芝浦で、第6回大会を大阪で、それぞれ開催していて、3度目の日本開催だが、今回はこれまで以上にメディアも取り上げた。ひとつには、アジア各国のなかで最も近代化が進みつつあるとの自負からスポーツでもアジアの盟主となろうと意気込み、さらには天皇賜杯保持という目標もあった。

 野球や陸上、水泳、庭球などが東アジアで一歩抜きんでているのに、蹴球は2年前の第8回大会(上海)でフィリピンを破る(2−1)までにはなったが、中華民国には勝てなかった。東京の、しかも明治神宮外苑競技場というホームで両国に勝つことは、JFAの開催者たちにとっては使命といえた。それは1964年の東京オリンピックを控えて、当時の関係者が“開催国が1勝もできないという恥ずかしいことではいけない”と考えたのと同じ心境であろう。1929年のJFAの組織改革、役員改選も、ひとつには、この第9回極東大会に向かうJFAの姿勢でもあった。

 予選大会の優勝チームを主力に代表チームを構成するというこれまでの方法を止めて、当時の最高レベルにあった関東大学リーグ、関西学生リーグのなかから選手を選抜した。合同練習を行なってチームを組むことにした。
 結果的には当時の学生界最強の東大の選手が多く選ばれたが、鈴木重義監督、竹腰重丸コーチ兼主将の指導によって「日本選手の敏捷性、労を惜しまぬ勤勉さと技術力を生かすために、まず動きの量で相手に勝り、組織プレーで勝つ」という考えを、50日に及ぶ合宿合同練習でチームに浸透させた。

 5月の本番では、フィリピンに勝ち中華民国には3−3で引き分けて勝つことはできなかったが、果敢な試合ぶりが多くの観客に感銘を与え、また、メディアにも大きく取り上げられた。JOC(日本オリンピック委員会)や体育協会のなかでもサッカーは強くなったと評価が高まり、オリンピック参加も語られるようになった。

 世界のサッカー界でも、転向点ともいうべき歴史的なイベントがあった。
 7月に第1回ワールドカップが南米ウルグアイで開催された。建国100周年記念に新しく巨大なスタジアムを建設して会場にし、参加チームの全費用を負担するという開催国の熱意と、ジュール・リメ会長、アンリ・ドロネー事務局長たちFIFA(国際サッカー連盟)役員たちの努力で「オリンピックのような選手資格を制限する大会でなく(当時はアマチュアだけが参加)誰もが参加して、真の世界一を決める大会」が実現した。
 大西洋を渡る長期の旅というハンデもあって、ヨーロッパからの参加はリメ会長の母国フランスルーマニアベルギー、ユーゴスラビアを合わせた4ヶ国だけだった。この欧州4ヶ国とアメリカ合衆国メキシコ、そして南米のアルゼンチンチリボリビアブラジルペルーパラグアイと開催国ウルグアイの合計13ヶ国が参加して、7月13日から30日まで18日間にわたり首都モンテビデオで開催された。4グループによる1次リーグののち、各組1位による準決勝でアルゼンチンがアメリカを、ウルグアイがユーゴスラビアをそれぞれ6−1で破って決勝に進み、ウルグアイが4−2で勝って初代チャンピオンとなり、黄金の女神像ジュール・リメ・トロフィーを手にした。

 国内の試合では、旧インターハイが1923年の第1回大会以来回を重ねて、この年の極東大会の代表を生み出すようになったが、プレーヤーの個人能力だけでなく、この年の大会ではチームワーク、チーム戦術の面でもこれまでよりステップアップしはじめていた。
 そのインターハイより少し年齢の低い全国中等学校蹴球選手権(現・高校選手権)では、のちのベルリン代表の世代が地域予選や本大会で活躍していた。
 1936年ベルリン・オリンピックの対スウェーデン戦逆転劇(3−2)の1点目を決めた川本泰三(故人)、2点目を記録した右近徳太郎(故人)はこの年の本大会の準決勝で顔を合わせている。
 ついでながら、1968年メキシコ・オリンピック銅メダルチームの監督、長沼健(故人)はこの年の生まれである。

日本のサッカー
  • 1月 第7回全国高等学校大会で一高が初優勝
  • 1月 第12回全国中等学校選手権大会(地域予選制をとって4回目)で神戸一中が2回目の優勝
       大正7年の第1回日本フートボール大会以来の優勝チームは、御影師範が9回(予選制以前が7回)神戸一中が2回(同1回)平壌崇実が1回となった
  • 3月 第9回極東大会代表候補19選手の合宿練習はじまる(〜5月)
  • 5月 第9回極東大会開幕(明治神宮外苑競技場)
       日本代表はフィリピンを7−2で破り、中華民国と3−3で引き分け、1勝1分けで中華民国とともに1位となった(当時は得失点差で順位を決める規則ではなかった)
  • 10月 関東大学リーグで東大が5年連続優勝(〜12月)
  • 10月 関西学生リーグで京大が初優勝(〜12月)
  • 12月 東西学生1位対抗で、東大が2−1で京大を破って2連覇
世界のサッカー
  • 7月 第1回FIFAワールドカップが南米ウルグアイの首都モンテビデオで行なわれ、ホスト国ウルグアイが決勝でアルゼンチンを4−2で破って初優勝、ジュール・リメ杯を獲得した(13ヶ国参加)

主な大会

  • 第7回全国高等学校蹴球大会
    一高が優勝(1月1〜7日、23校参加、東大グラウンド ※元・インターハイ)
     2回戦  3−0 五高
     準々決勝 2−0 成城高
     準決勝  2−0 水戸高
     決勝(延長)5−3 広島高

  • 第12回全国中等学校蹴球大会(現高校選手権)
    神戸一中(兵庫・山陰代表)が優勝(1月5〜7日、9校参加、甲子園南運動場)
     1回戦  2−1 熊本第二師範(九州)
     準々決勝 3−2 愛知第一師範(東海)
     準決勝  1−0 市岡中(阪・和)
     決勝   3−0 広島師範(中国)

  • 第8回関西学生リーグ
    京大が優勝(10月26日〜12月14日)
    (1)京大  4勝1分け
    (1)関学大 4勝1分け
    (3)関大  2勝1分け2敗
    (4)大商大 2勝3敗
    (5)神商大 1勝1分け3敗
    (6)大工大 5敗
    優勝決定戦 京大 3−0 関学

  • 第7回関東大学リーグ
    東大が優勝決定戦で早大を破り、5年連続優勝(10月19日〜12月14日)
    (1)東大  3勝1敗
    (1)早大  3勝1敗
    (3)一高  2勝2敗
    (3)慶大  2勝2敗
    (5)文理大 4敗 ※現・筑波大
    優勝決定戦 東大 1−0 早大

  • 第2回東西大学1位対抗(大学王座決定戦)
    12月28日 東大 2−1 京大(南甲子園運動場)
     ≪東大≫
     FW 鈴木、内藤、手島、篠島、三宅
     HB 林、野沢、斎藤
     FB 竹内、船岡
     GK 阿部鵬二
     ≪京大≫
     FW 松江、一藤敏男、水野、沢野、加茂下
     HB 山本、西村清、有賀
     FB 小幡、武村
     GK 竹内至

日本代表

  • 第9回極東大会
    5月25日
    日本 7(5−2、2−0)2 フィリピン
      得点【日】若林(10、13、22)OG(16)手島(32)篠島(41)市橋(86)
         【フ】パチェコ(6、8)

      日本 8 FK 4 フィリピン
         10 CK 8
          9 GK 22

     ≪日本≫
     FW 春山、若林(→市橋)、手島、篠島、高山
     HB 本田(→井出)、竹腰、野沢
     FB 竹内、後藤
     GK 斉藤
     ≪フィリピン≫
     FW モンフォルド、マルチネック、パチェコ、ウガルテ(兄)ウガルテ(弟)
     HB モロ、メディナ、ヘレディア
     FB ルイス、ペレツ
     GK サントス

    5月27日
     中華民国 5(3−0、2−0)0 フィリピン

    5月29日
     日本 3(1−1、2−1)3 中華民国
      得点【日】手島(23、56)篠島(73)
         【中】戴(38、59、79)

      日本 13 FK 4 中華民国
          7 CK 3
          16 GK 29
          1 PK 0

     ≪日本≫
     FW 春山、若林(→市橋)、手島、篠島、高山
     HB 本田、竹腰、野沢
     FB 竹内、後藤
     GK 斉藤
     ≪中華民国≫
     FW 陳(光)、孫、戴、陳(家)(→葉)、菅
     HB 陳(鎧)黄、梁
     FB 李(寧)(→馮)、李(天)
     GK 周

主な出来事

日本の出来事
  • 1月 金輸出解禁の実施
  • 4月 鐘紡淀川工場で減給反対ストライキ、各工場へ波及
  • 4月 ロンドンの海軍軍縮会議で軍縮条約に調印
  • 5月 第9回極東選手権競技大会が東京で開催され、日本は陸上(個人・総合)野球・テニス・水泳の5種目優勝と蹴球の中華民国と同率1位によって、中華民国、フィリピンをおさえて総合優勝。大正天皇賜杯を保持した
  • 8月 東京・大阪間で写真電送はじまる
  • 9月 米価暴落
  • 10月 枢密院でロンドン条約を承認
  • 10月 東京・神戸間で特急「燕」の運転はじまる
  • 11月 濱口雄幸首相が東京で狙撃されて重傷(31年8月26日没)、首相代理に幣原喜重郎外相
世界の出来事
  • 2月 中華民国と各国との間で上海共同租界改組について協定が成立、治外法権撤廃に一歩前進
  • 4月 日本・アメリカ・イギリス・フランス・イタリアの5ヶ国がロンドンで海軍軍縮条約に調印
  • 9月 ドイツ国会選挙で社会民主党が第1党(143人)ナチス(107)共産党(77)が大躍進
  • 10月 中国東北部(満州)の実力者・張学良が中央軍副司令となり国民党による挙国一致を提唱

フォトライブラリ

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1930 FIFAワールドカップ ウルグアイ大会、ギジェルモ・スタービレ、フランシスコ・バラリョ、マヌエル・フェレイラ

ワールドカップ初代得点王のギジェルモ・スタービレ(中央)。右はキャプテンのマヌエル・フェレイラ、左はフランシスコ・バラリョ

1930 FIFAワールドカップ ウルグアイ大会

第1回ワールドカップ・ウルグアイ大会の開会式(エスタディオ・センテナリオ)

1930 FIFAワールドカップ ウルグアイ大会、アルバロ・ヘスティド、ビクトリアーノ・イリアルテ、ペドロ・セア、フアン・アンセルモ、エクトル・スカロネ、パブロ・ドラド、ロレンソ・フェルナンデス、エルネスト・マスチェロニ、エンリケ・バレストレロ、ホセ・ナサッシ、ホセ・アンドラーデ

ワールドカップ初代チャンピオンに輝いたウルグアイ代表チーム

第9回極東大会、本田長康、野沢正雄、阿部鵬二、高山忠雄、春山泰雄、市橋時蔵、斉藤才三、後藤靭雄、若林竹雄、西村清、杉村正三郎、井出多米夫、篠島秀雄、竹腰重丸、竹内悌三、手島志郎、鈴木重義

1930年 第9回極東大会の日本代表チーム。後列左から2人目から鈴木重義監督、一人おいて井出多米夫、杉村正三郎、高山忠雄、阿部鵬二、野沢正雄、竹腰重丸(主将兼コーチ)若林竹雄、春山泰雄、市橋時蔵、西村清。前列、本田長康、篠島秀雄、竹内悌三、後藤靭雄、手島志郎、斉藤才三

1930 FIFAワールドカップ ウルグアイ大会、アベル・ラフロー、ジュール・リメ

勝利の女神が八角の酒入れを捧げ持つ黄金のトロフィー。フランス人の彫刻家アベル・ラフロー(Abel Lafleur)作。大会の提案者、第3代FIFA会長の名を冠して、「ジュール・リメ杯」と呼ばれた

 

日本代表、極東大会に向けた石神井での合宿練習(アサヒスポーツ「極東大会予想号」1930年5月15日号)※禁無断転載

篠島秀雄

石神井合宿より(アサヒスポーツ1930年5月15日号)※禁無断転載

第9回極東大会、斉藤才三、後藤靭雄、竹内悌三、竹腰重丸、篠島秀雄、手島志郎、鈴木重義

第9回極東大会の日本代表チーム、石神井合宿。後列左端が鈴木重義監督、前列右から3人目は竹腰重丸主将(アサヒスポーツ1930年5月15日号)※禁無断転載

第3回極東大会、大隈重信

第3回極東大会(東京芝浦運動場)の開会式。中央壇上は大会名誉会長の大隈重信侯爵(アサヒスポーツ 1930年4月15日号)

第9回極東大会、竹腰重丸、野沢正雄、阿部鵬二、高山忠雄、春山泰雄、市橋時蔵、斉藤才三、手島志郎、後藤靭雄、竹内悌三、若林竹雄、西村清、杉村正三郎、井出多米夫、篠島秀雄、鈴木重義、本田長康

1930年 第9回極東大会の開会式(明治神宮競技場)

第9回極東大会、竹腰重丸、野沢正雄、阿部鵬二、高山忠雄、春山泰雄、市橋時蔵、斉藤才三、手島志郎、後藤靭雄、竹内悌三、若林竹雄、西村清、杉村正三郎、井出多米夫、篠島秀雄、鈴木重義、本田長康

1930年 第9回極東大会の開会式(明治神宮競技場)

河本春男

昭和5年、河本春男(前列左から2人目)東京高師2年のとき 写真提供:(財)ユーハイム体育・スポーツ振興会

第9回極東大会

1930年5月15日発行アサヒスポーツ「極東大会予想号」の表紙 ※禁無断転載

第9回極東大会、春山泰雄、後藤靭雄、斉藤才三、竹内悌三、鈴木重義、篠島秀雄、竹腰重丸、手島志郎

第9回極東大会 蹴球の日本対フィリピン戦 ※禁無断転載

第9回極東大会

1930年 第9回極東大会のフィリピン代表チーム

第9回極東大会、篠島秀雄、竹腰重丸、手島志郎

第9回極東大会蹴球、日本対中華民国戦。日本の左サイドからの攻撃シーン。明治神宮競技場のバックスタンド(土盛り芝生席)はギッシリ

第9回極東大会

1930年 第9回極東大会の中華民国代表チーム

第9回極東大会、斉藤才三、後藤靭雄、篠島秀雄、竹腰重丸、手島志郎、竹内悌三

1930年6月10日発行アサヒスポーツ臨時増刊「第9回極東大会特別号」の表紙。競技の1つであった野球の投手が描かれている ※禁無断転載

第9回極東大会、後藤靭雄、斉藤才三、鈴木重義、篠島秀雄、竹腰重丸、手島志郎、竹内悌三

アサヒスポーツ「第9回極東大会特別号」の1ページ目。大会日程とその行事・成績の記事。中央の写真は総合優勝国(日本)が受けた大正天皇賜盃(アサヒスポーツ1930年6月10日号)※禁無断転載

1930 FIFAワールドカップ ウルグアイ大会

ワールドカップ、第1回大会のポスター。ウルグアイの公用語のスペイン語で表記されている

1930 FIFAワールドカップ ウルグアイ大会、ラウル・フーデ、ジュール・リメ

ウルグアイの優勝を讃え、ラウル・フーデ・ウルグアイサッカー協会会長に黄金の女神像トロフィーを贈るジュール・リメFIFA会長

1930 FIFAワールドカップ ウルグアイ大会、ホセ・ナサッシ、ジョン・ランゲヌス、フエレイラ

決勝を前に握手をかわすナサッシ(ウルグアイ)、フエレイラ(アルゼンチン)の両キャプテン。中央はランゲヌス・レフェリー(ベルギー)

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