日本サッカー史
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1931(昭和6年)
前年の第9回極東大会(東京)での成果に力づけられた蹴球人たちは、さらなるサッカー興隆に向かった。6月3日の理事会で、いまでいうシンボルマークを決定し、「サッカーの試合のときに蹴球旗を揚げること」と決議した。いま多くの人に親しまれている、三本足のカラスとボールを組み合わせた図柄は、中国の古典「淮南子(えなんじ)」と「芸文類聚」に記された、太陽の中に3本足の烏がいるという話から取ったものらしい。
東京高師の漢文の教授であり、サッカーの先輩でもある内野台嶺(第3回日本サッカー殿堂入り)さんたちの発案を高名な彫刻家・日奈子実三がまとめたもの。
またこれまで不定期だったJFAの機関誌を年に3回発行し、加盟団体とJFAとの絆を強くしようとすることも理事会で決めている。実際には人手不足で軌道に乗るまでには少し時間もかかったが、どしどし前向きに仕事をしてゆこうとしていた。
新春恒例のインターハイ、旧制高等学校による全国高校蹴球大会では岡山の六高が初優勝。インターハイがいまのほぼU−20、中学校選手権がU−17にあたるだろう。
もっとも、中学選手権には2歳年長の師範学校も参加していた。甲子園南運動場での第13回大会は御影師範が優勝。大橋眞平、空野章たち優れたFWを持つこのチームは、年齢が上というだけでなく、技術でもチームワークでも一段上だった。
トップクラスというべき大学では、関東大学リーグで東大が6連覇を遂げている。極東大会の代表を含む5人が卒業してメンバーも半分変わったが、慶応や早大の追い上げを阻んでの全勝優勝だった。当代随一のストライカー、手島志郎は3年目。“すり抜け”のステップワークは老練を加え、対慶大(4−1)の3ゴール、対早大(3−1)の2ゴールを含むリーグ5試合で10得点を決めていた。
関西では関西学院が、前年に失った学生リーグのタイトルを奪還した。この年の2月に行なわれた第10回全日本選手権(甲子園南運動場)でも慶大RBRを破って日本一となり、12月の東西大学1位対抗で東大と2−2で引き分けている。
東大に始まったパスワーク重視の流れに対して、あえてロングパスと長い疾走という力強さを掲げた関学が堺井秀雄をはじめとする個人力アップを基礎に自らの主張を通した年でもあった。
この年の記録では、第11回天皇杯が第6回明治神宮大会と兼ねて行なわれ、東大LB(東大のOBと学生の混合チーム)が優勝、その1回戦で関学が東大LBに1−2で敗れている。
全国優勝大会――いまの天皇杯と明治神宮大会との関係についての説明は別の機会に譲りたい。
日本サッカーが極東大会の次の目標としたロサンゼルス・オリンピック(1932年)は、ヨーロッパでのブロークン・タイム・ペイメント(休業補償)の問題が解決しないまま、この大会ではサッカーは開催競技から除外されることになってしまう。
東アジアでの優勝を足場に世界の舞台オリンピックへと精勤してきた選手たちには、つらいことだった。
前年の日本代表チームの主将でコーチ格、文字どおりのリーダーだった竹腰重丸(第1回日本サッカー殿堂入り)は、ロサンゼルスに出られないと知り初めて酒を口にするようになったと言っている。
日本の社会情勢は決して良いものではなかった。アメリカの大恐慌の余波は続いていた。東北地方では欠食児童が多くなったという文部省の報告もあった。
軍部の若い将校の中には、格差社会の是正のために武力を用いてでもといった空気も生まれ始めていた。人口の多い日本にとって、中国大陸、特に日露戦争によって得た満州(中国東北部)での権益を足場に現状を打開しようとするグループもあった。
9月に満州駐留の日本軍(関東軍といった)が南満州鉄道を自らの手で爆破して、これを権益を守るための口実に軍事行動を起こした。いわゆる柳条湖事件で、政府は不拡大方針を言明、中国政府からの訴えを受けた国際連盟もまた、日本に満州からの軍隊引き揚げを勧告することに決めたが、事態はすぐには収まらなかった。
多くの人たちには、海を渡った遠い中国大陸のことであり(中国の市民には迷惑な話だが)先行き不明ではあってもまだ逼迫感も無く、これがのちに中国との戦争、さらには太平洋戦争にまでつながってゆくとは想像もできなかった。
サッカー仲間はひたすら自分たちの向上と、この競技の普及を願っていた。
日本のサッカー
- 1月 第8回全国高等学校蹴球大会で六高が初優勝。六高はこのあと優勝を重ねて1948年に学制改革で大会がなくなるまで22回のうち7回優勝の記録を残す
- 1月 甲子園南運動場で2回目となった第13回全国中等学校選手権(現・高校選手権)で御影師範が優勝
- 2月 前年度の第10回全日本蹴球選手権大会(天皇杯)が甲子園南運動場で開催される。関西・関学クラブが2連覇
- 10月 28日、昭和6年度JFA全国代議員会(日本青年館)。ロサンゼルス・オリンピックの蹴球中止の件が報告される
- 11月 関西学生リーグで関学が優勝
- 11月 第11回全日本蹴球選手権大会兼第6回明治神宮体育大会で東大LB(学生とOBの混合)が初優勝、関学は3連覇ならず
- 12月 関東大学リーグで東大が6年連続優勝
- 12月 第3回東西大学1位対抗で東大と関学が引き分ける(2−2)
世界のサッカー
- 5月 イングランド1部リーグ(現・プレミアリーグ)1930−31年シーズンでアーセナルが初優勝。1886年創設のこのロンドンのクラブは、前年のFAカップ獲得に続くリーグ優勝をステップに30年代イングランドを代表するトップクラブとなる。
- 6月 ドイツ選手権でヘルタ・ベルリンが前年に続いて連続優勝
- 9月 スコットランドのグラスゴー・ダービー、レンジャーズ対セルティック戦でセルティックのGKジョン・トンプソンが相手FWの足下に飛び込んだ際に頭を骨折、5年後に死亡した
主な大会
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第8回全国高等学校蹴球大会六高が優勝(1月1〜6日、京都岡崎公園、19校参加)
1回戦 2−1 成城高
2回戦 8−0 八高
準々決勝 2−0 水戸高
準決勝 3−1 東大
決勝 1−0 一高 -
第13回全国中等学校蹴球大会(現高校選手権)御影師範が優勝(1月2〜6日、甲子園南運動場、9地区代表9チーム参加/通算10回目・予選制以来3度目)
準々決勝 3−1 愛知第一師範(東海)
準決勝 2−0 青山師範(関東)
決勝 3−1 広島一中(中四国) -
1930年度 第10回全日本蹴球選手権(現天皇杯)関学クラブが連続優勝(2月8〜11日、甲子園南運動場、10地区予選を行なうも参加は4チーム)
準決勝 8−5 両洋クラブ(関西)
決勝 3−0 慶応BRB(関東)
-
第9回関西学生リーグ関西学院大が優勝(9月24〜11月29日)
(1)関学大 5勝
(2)京大 4勝1敗
(3)関西大 3勝2敗
(4)大商大 2勝3敗
(5)神商大 1勝4敗
(6)大工大 5敗 -
第8回関東大学リーグ東大が6年連続制覇(9月27〜12月5日)
(1)東大 5勝
(2)慶大 4勝1敗
(3)早大 2勝1分け2敗
(4)一高 2勝1分け2敗
(5)農大 1勝4敗
(6)明大 5敗
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1931年度 第11回全日本蹴球選手権 兼 第6回明治神宮体育大会(現天皇杯)東大LBが優勝(10月28〜31日、明治神宮競技場、7地区代表7チーム参加)
1回戦 2−1 関学大(関西)
準決勝 2−0 二高クラブ(東北)
決勝 5−1 興文中(中国)
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第3回東西大学1位対抗(大学王座決定戦)12月13日 東大 2−2 関学大(明治神宮競技場)
日本代表
主な出来事
日本の出来事
- 1月 文部省が中学校(現・高校)令施行規則を改正、経済を公民科とし、柔道・剣道は必修科目とした
- 1月 田河水泡の漫画「のらくろ二等卒」が雑誌『少年倶楽部』で連載始まる
- 3月 櫻会の一部将校・大川周明ら軍部クーデターによる宇垣内閣樹立を企て発覚、未遂に終わる(3月事件)
- 4月 濱口雄幸首相の症状悪化のため内閣総辞職、第2次若槻禮次郎内閣成立
- 8月 リンドバーグ夫妻が北太平洋横断飛行に成功、日本にも立ち寄る
- 8月 26日、濱口雄幸死去
- 9月 清水トンネル開通(全長9,702m)世界最長
- 9月 関東軍(満州駐留の日本陸軍)が柳条湖の満鉄(南満州鉄道)爆破事件を口実に軍事行動を始める(満州事変)
- 10月 国際連盟理事会で満州からの撤兵勧告案を可決
- 12月 若槻内閣総辞職、犬養毅・政友会内閣の成立
世界の出来事
- 4月 スペインの地方議会で共和派が大勝し、国王の退位を要求。アルフォンソ13世は国外に亡命、サモラ首班の臨時政府が成立
- 5月 米・ニューヨークにエンパイア・ステート・ビル完成(高さ381m/屋上、最上階102階)
- 5月 オーストリアの中央銀行が世界恐慌の余波を受けて破産
- 6月 ドイツが第1次大戦の賠償支払いの困難を声明
- 6月 フーバー米大統領が賠償・戦債支払いの1年間延期を各国に提案(フーバー・モラトリアム)
- 9月 英国・マクドナルド挙国一致内閣の緊縮財政案(失業手当削減を含む)成立。ロンドンやリバプールで労働者の暴動が起こる
- 9月 中華民国政府が柳条湖事件を国際連盟に提訴、理事会から両国に解決要求の決議
- 12月 米・首都ワシントンで失業者が飢餓行進
関連項目
- 昭和の大先達・竹腰重丸(上)
- 昭和の大先達・竹腰重丸(下)
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(上)
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(中)
- どのポジションもこなした“天才”右近徳太郎
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター加藤正信(上)
- 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(上)
- 世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー杉山隆一(上)
- 早稲田の“主” 工藤孝一(上)
- 第28回 テレ・サンターナ(1)80年代に“ブラジル”を復活させ選手ジーコをフルに生かしたセレソン監督
- 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(下)
- W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(上)
- 75年前の日本代表初代ストライカー。すり抜ける名手 手島 志郎
- どん底の時代から栄光の銅メダルまで、日本代表を押し上げたピッチ上の主 平木隆三(上)
- 50年前に活躍した日本人初のFIFA常任理事 市田左右一(上)
- 大日本蹴球協会(JFA)設立、全日本選手権開催。大正年間に組織作りを成功させた漢学者・内野台嶺
- 伝統的な哲学を持ちつつ日本のサッカーとスポーツの国際化を図ったドクター 野津謙(下)
- 1927年の1勝を1936年のベルリンへつないだ卓越したリーダー 鈴木重義(中)
- 第3回アジア大会決勝で主審を務め、日本レフェリーの国際舞台への第一歩を記した 村形繁明
- 大戦前の4年間、光彩を放った慶應義塾のソッカーを築いた 松丸貞一(上)
- JFA創立から20年間の急成長を彩った稀有のチームリーダー 松丸貞一(下)
- 極東大会で活躍した名プレーヤー。JFAを支え、導いた 篠島秀雄(上)
- 1936年ベルリン五輪 スウェーデン戦逆転劇のキャプテン 竹内悌三
- ムッソリーニとG・メアッツァ
- 決勝を前に、改めてサッカーの世界もまんざらではないと思った…
- ケビン・キーガン 「ヘディング練習はよく壁を使ってやりました」
- ラプラタ勢との力の差
- 列車のコンパートメントで大記者グランビルと語り、プラティニ監督の悩みを思う
- テレ・サンターナ「チャンピオンへの長い旅」
- ボルドーとジレス、ティガナ、ジダン、リザラズ、そして木村和司
- 野球からサッカーへ
- 昭和初期のレベルアップ(2)
- ベルリン・オリンピック そのあとさき(2)
- スポーツ記者になって(4)
- 【番外編】日本のストライカー 日本は、わずかな競技人口の時代にも良いストライカーを生み出してきた
- 広島、神戸、名古屋、各地各様の伏流がやがて日本代表へJFA創設からの急速進化
- 「極東」で勝ち、オリンピックに向かうため JFAの改革と代表の体力キャンプ
- 極東1位を足場に充実をはかるJFA
- さあベルリンを目指そう 早大に新しいストライカー、川本
- 五輪代表の進化を「東京」への始動 早慶の充実でサッカー人気が向上
- 瓦礫の中からサッカー復興 大きなステップとなった天覧東西対抗
- 当用漢字制定で蹴球がサッカーに ロンドン五輪不参加も、明日に備え合同合宿
- 84年前に中華民国から1ゴール。兵庫、関西の協会長、神戸FC会長として少年育成に尽くした明治生まれのリーダー 玉井操
- 自らもオリンピック、ワールドカップで働き日本の審判のレベルアップに尽くした 丸山義行(上)
- 国際試合60試合で審判を務め、中央大学のコーチ、監督を半世紀。傘寿のいまも試合に足を運ぶ 丸山義行(下)
- 東京オリンピック5、6位決定 大阪トーナメントをバックアップした 第6代FIFA会長 サー・スタンレー・ラウス(中)
- ベルリンの奇跡の日本代表 闘志あふれるDFで理論派監督 堀江忠男(上)
- サッカーメディアあれこれ(上)
フォトライブラリ
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内野先生の発想を生かしたJFAのエンブレム、三本足のカラス

河本春男(右端)。昭和6年1月、東京高師3年のとき

『蹴球論評 第2号』の表紙(1931年12月30日 蹴球同好会発行)日本サッカー第1期上昇時代の先輩たちの心意気を示す貴重な資料となっている