日本サッカー史
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1932(昭和7年)
アメリカ西海岸で開催された第10回オリンピック・ロサンゼルス大会(7月30日−8月14日)で日本選手団は陸上三段跳びで南部忠平選手が優勝して前回のアムステルダムの織部幹雄に続いての日本の連覇とした。男子水泳では競泳6種目中5種目の金メダルを獲得して世界を驚かせ、大会最終日の馬術大障害で西竹一陸軍騎兵中尉(太平洋戦争で戦死)が優勝して彩りを添えた。
日本サッカーにとってはこの大会でサッカーが競技種目から除外されたのは残念なことだったが、休業補償(ブロークンタイム・ペイメント)という、試合で仕事を休んで受取れなかった収入分を協会やクラブが補償するという考え方をめぐってヨーロッパの多くの国と英国4協会との意見が異なり、FIFA内でアマチュア資格についての統一見解を出せなかったためである(オリンピック参加はアマチュアに限られていた)。
自分たちとは別のところで発生していた問題のためオリンピックに参加できなかった選手たちには失望も大きかったが、JFA(日本サッカー協会)は新しい目標を第10回極東大会(1934年)におき、極東での優勝を確実にするためのレベルアップに力を入れた。2月に全関東対全関西という――東と西のオールスター対抗ともいうべき――新しいビッグゲームを創設したのもその表れだった。
秋の関東大学リーグで東大が6年続いた王座から降り、慶應が優勝した。手島志郎という傑出したストライカーや大物DF竹内悌三たちが卒業したこともあるが、慶應・早稲田という新しい力の台頭もあった。インターハイという優秀選手の供給源を持つ東大ではあったが、卒業年限が3ヶ年。これに対して慶大や早大は予科を含めて6年間同じ学校のクラブでプレーするという利点があったハズ。
前年の1931年に市岡中学を卒業した川本泰三は早高(早稲田高等学院)1年でその年から、また、神戸一中から慶大予科へ進んだ右近徳太郎も予科1年から、それぞれ関東大学リーグに出場しレギュラーとして活躍していた。U−18の年齢層の彼らがU−23チームに入ることで進歩を早め、短い年月でチームの軸となっていったこと、この2人と同年代に人材を得たことが(その後もインターハイからいい選手を輩出したにもかかわらず)早大と慶大がトップを争った原因の一つ――と私は考えている。
関西学生リーグは前年京大に奪われたタイトルを関学が奪還した。
大谷一二というズバ抜けたプレーヤーを得た神戸高商が強くなり、関西の学生リーグもまた新しい刺激でレベルアップに向かった。同時に、強チームの揃っている関東に対して単独チームで勝てなくなっても、全関西、関西OB選抜といった選抜チームで関東に勝とうとする意欲が高まった。いわば古くからの関東に対する関西という地方意識がサッカーという競技の中で強まってきた。日本全体のレベルアップはさまざまな形で動き始めていた。
社会情勢は、満州国の建国をめぐって日本の孤立化が進み始めていた。ドイツではナチスが選挙で躍進した。大恐慌のあとの社会不安に乗じたものだが、日本のなかにはこのナチスの思想に注目し、見習おうとするグループも出てきた。ただし表面的にはまだ平穏に見え、多くの人はロサンゼルス・オリンピックで見た日本人の能力に元気づけられ、前途はまだ明るいと見ていた。
日本のサッカー
- 1月 第9回全国高等学校蹴球大会で水戸高校が2度目の優勝
- 1月 第14回全国中等学校蹴球大会で御影師範(兵庫)が通算11度目の優勝
- 11月 6日の全国代議員会で協会旗を日名子氏案(機関誌扉参照)に定む――と記されている
- 11月 関西学生リーグで京大が優勝
- 12月 関東大学リーグで慶大が優勝
- 12月 東西学生1位対抗で慶大が京大を2−1で破って大学王座に
世界のサッカー
- 6月 ドイツ選手権でバイエルン・ミュンヘンが初優勝
主な大会
-
第9回全国高等学校蹴球大会水戸高が優勝(1月1〜6日、東大グラウンド、22校参加)
1回戦 7−0 山形
2回戦 3−1 早高
準々決勝 4−1 五高
準決勝 1−0 一高
決勝 4−0 東大 -
第14回全国中等学校蹴球大会(現・高校選手権)御影師範が優勝(1月2〜6日、甲子園南運動場、12地区代表12チーム参加/通算11回目・予選制以来4度目の優勝)
準々決勝 8−0 長崎師範(九州)
準決勝 2−1 京都師範(京滋奈)
決勝 6−1 愛知第一師範(中四国) -
第10回関西学生リーグ京大が優勝(10月23日〜11月27日)
(1)京大 4勝1分け
(2)関学大 3勝1分け1敗
(3)関西大 3勝2敗
(4)神商大 2勝3敗
(5)大商大 1勝4敗
(6)大工大 5敗 -
第9回関東大学リーグ慶大が優勝、東大の連覇が6でストップ(10月1日〜12月5日)
(1)慶大 4勝1分け
(1)早大 4勝1分け
(3)東大 3勝2敗
(4)文理大 1勝1分け3敗
(5)農大 1勝4敗
(6)一高 1分け4敗
優勝決定戦(12月5日、明治神宮競技場)慶大 5−2 早大 -
第4回東西大学1位対抗(大学王座決定戦)12月11日 慶大 2−1 関学大(甲子園南運動場)
日本代表
主な出来事
日本の出来事
- 1月 上海で日本海軍が中国軍と交戦(第1次上海事変)
- 2月 第3回冬季オリンピック(オスロ)にスキー10、スケート6選手を含む22人の選手団を派遣(スキージャンプの安達五郎の8位が最高成績)
- 2月 関東軍が満州・ハルピンを占領
- 3月 前年8月に製造されたダット自動車製の新小型四輪車を「ダットサン」と名付けた
- 4月 競馬の第1回日本ダービー開催(東京・目黒競馬場)
- 5月 上海で日中停戦協定調印
- 5月 チャーリー・チャップリン来日
- 5月 陸海軍将校らが首相官邸などを襲撃し、犬飼毅首相を射殺(5.51事件)
- 5月 齋藤實内閣成立
- 7月 第10回オリンピック・ロサンゼルス大会開催(〜8月)。かつてない豪華な施設で開催国アメリカが圧倒的な強さを見せた
日本は水泳の男子競技で6種目中5種目に優勝、開催国アメリカを凌いだ。陸上三段跳びの南部忠平、馬術大障害の西竹一中尉の金メダルは米国人にも強く印象づけた - 9月 日本政府が満州国を承認
- 10月 東京市が隣接町村と合併、世界第2の大都市に
- 10月 熱海での共産党会議、一斉検挙
- 11月 大阪城の天守閣が再建される
世界の出来事
- 1月 米国のスチムソン国務長官が満州の新事態を承認せずと日中両国に通告(スチムソン・ドクトリン)
- 1月 ドイツが賠償支払い不能を声明
- 2月 米国が恐慌対策のため復興財団を設立
- 2月 第3回冬季オリンピック大会がアメリカのレークプラシッドで開催。女子フィギュアでソニア・ヘニー(ノルウェー)が2連覇
- 3月 満州国の建国を宣言。首都・新京、年号は大同。清国皇帝・宣統帝溥儀(愛新覚羅溥儀)が執政として国家元首に就任
- 7月 ドイツの総選挙でナチスが第一党となる
- 8月 米大統領選挙で民主党のフランクリン・ルーズベルトが当選
- 10月 国際連盟日華紛争調査委員会報告(リットン報告書)が公表
関連項目
- カタール・サッカーの歴史は30年
- 昭和の大先達・竹腰重丸(下)
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(中)
- ポルトガルのデータ
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(中)
- どのポジションもこなした“天才”右近徳太郎
- 視野の広さと国際感覚
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(上)
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(下)
- ゴールを奪うMFで優しい指導者 歴史を掘り起こした記者 岩谷俊夫
- 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(中)
- 第49回 手島志郎(2)小兵を利して“すり抜けの名人”と言われた初代日本代表
- “走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰
- 第53回 高橋英辰(1)70年代に“走る日立”を登場させ日本サッカーに世界を見せたロクさん
- 東北初の高校チャンピオンを育てた剣道の達人 内山真(下)
- 75年前の日本代表初代ストライカー。すり抜ける名手 手島 志郎
- ドイツ語の指導書をテキストに慶応ソッカー部の基礎を築いた初代キャプテン 濱田諭吉
- 50年前に活躍した日本人初のFIFA常任理事 市田左右一(上)
- 大日本蹴球協会(JFA)設立、全日本選手権開催。大正年間に組織作りを成功させた漢学者・内野台嶺
- 自らプレーヤーで指導者でもありサッカーに生涯を捧げた記者 山田午郎
- 厳しいコーチをバックアップし代表チームに栄冠を呼んだ監督 鈴木重義(下)
- 大戦前の4年間、光彩を放った慶應義塾のソッカーを築いた 松丸貞一(上)
- JFA創立から20年間の急成長を彩った稀有のチームリーダー 松丸貞一(下)
- 自らは優れたランナー。体協の筆頭理事で募金活動に腕を振るったJFA初代会長 今村次吉
- 1936年ベルリン五輪 スウェーデン戦逆転劇のキャプテン 竹内悌三
- 戦前一番のビッグゲーム「東西対抗」
- vol.6 オランダ(下)
- vol.31 フランス(下)
- オリンピックのコロシアムで 7月14日
- 小さな開催都市ランス スタジアムは66年、クラブは92年の歴史
- 大会に暗い影ネオ・ナチのランスでの暴動
- 野球からサッカーへ
- 大正末期のショートパス(1)
- 昭和初期のレベルアップ(3)
- ベルリン・オリンピック そのあとさき(2)
- 番外編 キリンカップとコンサドーレ札幌の練習場
- メキシコの余韻さめて
- 世界の“常識”を求めて(22)
- 兵庫サッカーとわたし 〜村田忠男会長に聞く〜
- マルコ・ファンバステン(6)歴史に残るボレーの中で、最も輝くファンバステンのゴール
- ベルリンの栄光を味わい戦後の日本サッカー復興期を支えた実力者 小野卓爾(上)
- 死力を尽くして東アジア1位獲得 昭和5年代表に悲運のロス五輪
- 極東1位を足場に充実をはかるJFA
- さあベルリンを目指そう 早大に新しいストライカー、川本
- 昭和天皇の「予想外」のお言葉に感激 天皇杯につながる47年4月3日
- 当用漢字制定で蹴球がサッカーに ロンドン五輪不参加も、明日に備え合同合宿
- 新元号・令和を迎えて?
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河本春男先生。昭和7年4月、神戸一中へ 写真提供:(財)ユーハイム体育・スポーツ振興会