日本サッカー人物史

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デットマール・クラマー [Dettmar CRAMER]

日本サッカー殿堂

2005年第1回掲額

1925年4月4日、西ドイツ・ドルトムント生まれ
1960年、第18回オリンピック競技大会(1964/東京)に向けた強化・指導にあたるため日本代表コーチとして来日。以後、わが国の強化、指導者養成、ユース育成等の礎を築き、日本サッカーの父と称される。第19回オリンピック競技大会(1968/メキシコシティ)ではアドバイザー的役割を果たし、日本の3位入賞・銅メダルに多大な貢献をする
1969年、千葉で開催された第1回FIFAコーチングスクールでは、スクールマスターを務める。その後もFIFA専任コーチとして世界70ヶ国を巡回指導
1988年、茨城で開催されたFIFAコカ・コーラワールドユースアカデミーでの講師を務め、1989年、JFAの招聘により9回目の来日。2年間にわたり特別コーチを務める
本国では、西ドイツ協会コーチ、バイエルン・ミュンヘンバイヤー・レバークーゼン等のビッグクラブの監督を歴任。バイエルン・ミュンヘンの監督として、ヨーロッパチャンピオンズカップ(現・UEFAチャンピオンズリーグ)2連覇を果たす
また、アメリカナショナルチーム監督、サウジアラビア代表監督、韓国オリンピック代表コーチ、サウジアラビアギリシャのトップクラブの監督を務める
1971年 勲三等瑞宝章、1996年 日本サッカー協会75周年記念功労賞
2005年 第1回日本サッカー殿堂入り

イントロダクション

20世紀半ばに日本サッカーの大変革の基礎を作った

 日本サッカーの長い歴史のなかで、デットマール・クラマー(Dettmar Cramer)ほど、大きな影響を与えた人はいないと私は思う。

 1960年、東京オリンピックの開催を4年後に控えた日本蹴球協会(現・日本サッカー協会:JFA)が代表強化のために打ち出したのが外国人プロコーチを招く案だった。その推進者であった、野津謙(のづ・ゆずる)第4代JFA会長が、西ドイツサッカー協会(当時、ドイツは東と西に分かれていた)の協力を得て、白羽の矢を立てたのが、クラマーだった。彼の指導と選手の努力で、日本代表は東京オリンピックでアルゼンチンを破って、開催国としての面目を保つとともに、発展期のステップを築いた。彼は単に代表の強化に止まらず、発展の施策を示し、彼の弟子たちを中心に実行に踏み切らせた。初の全国リーグ、コーチの育成、代表強化---それらが4年後のメキシコ・オリンピック銅メダル獲得につながる。彼の能力を高く買ったFIFA(国際サッカー連盟)が67年から74年までコーチ契約を結び、世界中を巡回させたが、彼はそれだけでなく第1回FIFAコーチングコースを1969年に日本で開き、コーチ育成の仕組みを日本に根づかせもした。

 1975年からバイエルン・ミュンヘンの監督となり、欧州チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)を2連覇して、プロフェッショナルのトップチームの監督としても力量を発揮。サウジアラビアギリシャなどのクラブでも監督をつとめたあと、75歳まで再び世界を巡回指導した。82歳の今も講演に出かけ、指導者の研修会に顔を出している。

 47年間、彼の仕事ぶりに接してきた私は、彼の指導を受けてワールドクラスのストライカー釜本邦茂が生まれ、また長沼健(JFA会長第7代会長)、岡野俊一郎(第8代)、川淵三郎・現JFAキャプテンなど、優れたリーダーが育ったのを思うたびに、彼の偉大さ---選手やチームに「そのとき」をつかんで与えるアドバイスの適切さと、将来への「布石」の確かさに驚嘆する他はない。(2007.5.8)

プロフィール

  • 生年月日:1925年4月4日
  • 出身/出生地:西ドイツ・ドルトムント生まれ
  • 主なサッカー関連履歴
    勲三等瑞宝章(1971)
    日本サッカー協会75周年記念功労賞(1996)
    日本サッカー殿堂(2005)
  • サッカー競技歴
    ゲルマニア・ウイスバーデン、ヴィクトリア・ドルトムント、トイトニア・リップンシュタット、VfLゲーセケ、FCパデルボルン
  • 主な代表歴
  • 主な記録
    日本代表指導 68年メキシコ・オリンピック銅メダル
    バイエルン・ミュンヘン監督 欧州チャンピオンズカップ(現・チャンピオンズリーグ)2連覇(75・76年)
  • サッカー指導・審判など
    DFB(ドイツ協会)西部地区主任コーチ(1949〜63)
    DFBコーチ(1964〜67)
    日本代表コーチ(1960〜64)
    FIFA公認コーチ(1967〜74)
    ※この間、アジアで3回、FIFAコーチングコース開催
    バイエルン・ミュンヘン監督(1975〜77)
    このあと、フランクフルト(西ドイツ)アルイテハド(サウジアラビアサウジアラビア代表、アリス・サロニカ(ギリシャバイヤー・レバークーゼンドイツ)などの監督を歴任。
    韓国オリンピックチーム、中国足球学校のコーチを務めた。

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デットマール・クラマーA竹腰重丸A鎌田光夫A渡辺正A小城得達A横山謙三A山口芳忠A宮本輝紀A川淵三郎A宮本征勝A片山洋A釜本邦茂A八重樫茂生A岡野俊一郎A杉山隆一A長沼健A鈴木良三

1963年夏、デュイスブルクで。後列左から竹腰重丸団長、宮本征勝、小沢通宏、一人おいて横山謙三、デットマール・クラマー、鎌田光夫、長沼健、保坂司、鈴木良三、外国人選手をはさんで川淵三郎、釜本邦茂、片山洋、小城得達。前列左から岡野俊一郎コーチ、一人おいて上久雄、山口芳忠、宮本輝紀、杉山隆一、富沢清司、継谷昌三、八重樫茂生、渡辺正

上田亮三郎A竹腰重丸A野津謙A中村義喜A大橋謙三A西垣成美A清水泰生A加茂周A平木隆三A八重樫茂生A岡野俊一郎A長沼健Aデットマール・クラマーA松田輝幸

1969年7月15日から10月18日までの3ヶ月間、検見川の東大研修センターで行なわれた「第1回FIFAコーチング・スクール」 写真提供:上田亮三郎氏

デットマール・クラマーA上田亮三郎

2002日韓W杯のため来日したデットマール・クラマー氏(左)と上田亮三郎 大商大総監督 写真提供:上田亮三郎氏

デットマール・クラマー

殿堂掲額プレートとともに (C)J.LEAGUE PHOTOS

島田秀夫A竹腰重丸A山田午郎A田辺五兵衛A高橋龍太郎A深尾隆太郎A宮本征勝A野津謙A平井富三郎A藤田静夫A今村次吉A川本泰三A杉山隆一Aデットマール・クラマーA八重樫茂生A村形繁明A岡野俊一郎A平木隆三A長沼健A釜本邦茂A川淵三郎

日本サッカー殿堂第1回表彰式。前列左から釜本邦茂、八重樫茂生、長沼健、村形繁明、デットマール・クラマー、岡野俊一郎、平木隆三、杉山隆一の各受賞者。後列左端、川淵三郎JFAキャプテン

賀川太郎Aデットマール・クラマーA賀川浩

2010年9月、第7回殿堂入りした賀川浩。兄・太郎と親友デットマール・クラマーのプレートの前で

デットマール・クラマーA平木隆三A長沼健A賀川浩

2011年9月12日、JFA創立90周年パーティで。左からクラマー夫人、長沼有光子さん(故・長沼健氏夫人)平木ハナ子さん(故・平木隆三氏夫人)デットマール・クラマー氏、賀川浩

八重樫茂夫Aデットマール・クラマーA片山洋A鎌田光夫

日本代表の練習。左手前・片山、その右・鎌田、中央・八重樫(白)

デットマール・クラマー

1960年10月 クラマー(中央)は代表選手にも、まず基礎技術を徹底的に指導。ヘディングもペンデルを使って、初歩から正しいフォームを教えた

小城得達A横山謙三A山口芳忠A宮本輝紀Aデットマール・クラマーA片山洋A宮本征勝A川淵三郎A釜本邦茂A鎌田光夫A森孝慈A八重樫茂生A長沼健A杉山隆一A平木隆三

1963年、東京オリンピック選手村でボードを前に戦術指導。左端・長沼監督、その右・クラマー

野津謙Aデットマール・クラマー

クラマー・コーチの右足首を良導絡(りょうどうらく)で治療するドクター野津謙(第4代JFA会長)

チリ・ワールドカップ アジア予選A小沢通宏A古川好男A浜崎昌弘A渡辺正A川淵三郎A片山洋A宮本征勝A宮本輝紀Aデットマール・クラマーA鎌田光夫A岡野俊一郎A八重樫茂生A松本育夫A平木隆三A竹腰重丸

1962年ワールドカップ(チリ大会)のアジア予選、対韓国戦の試合前。中央左、竹腰重丸監督。その右はデットマール・クラマー コーチ

デットマール・クラマー

ボールリフティングでも見事なバランスを見せるクラマー

加藤正信Aデットマール・クラマーA岩谷俊夫

1965年の神戸少年サッカースクールで、デットマール・クラマー コーチ(中央)とともに。右は加藤正信ドクター、左は岩谷俊夫コーチ

宮田孝治Aデットマール・クラマーA岡野俊一郎A賀川太郎

京都で少年たちの指導。大谷大学グラウンドで。右から岡野俊一郎コーチ、クラマー、宮田孝治、賀川太郎

デットマール・クラマー

東京五輪を目指しての練習とともに指導者の研修にも力を入れた

岡野俊一郎Aデットマール・クラマー

京都で少年を相手に指導。クラマー、1965年来日のとき。東京五輪での1勝で日本全体が明るくなっていた。右は岡野俊一郎

デットマール・クラマーA岡野俊一郎

クラマー、1969年の来日。京都の嵐亭(らんてい)で。手前は岡野コーチ

デットマール・クラマーA賀川浩

インタビューに応じるクラマー(右)2000年中国泰皇島市の中国足球学校で

デットマール・クラマー

クラマーが75歳の誕生祝いにドイツ協会から贈られた代表ユニフォーム

デットマール・クラマーA賀川浩

2000年7月 中国・秦皇島市で。75歳の誕生祝いにドイツ協会から贈られた代表ユニフォームを手にしているデットマール・クラマー

石井義信A保坂司A横山謙三A長沼健A鎌田光夫A鈴木良三A岡野俊一郎Aデットマール・クラマー

クラマーの来日に集まったメキシコ五輪代表。左から横山謙三、石井義信、岡野俊一郎、長沼健、クラマー、保坂司、鎌田光夫、鈴木良三

デットマール・クラマー

日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額されたクラマーの肖像

デットマール・クラマー

日独サッカー交流展のシンポジウムで

デットマール・クラマー

2005年11月14日「日本におけるドイツ年」基調講演で指導哲学を語るクラマー

天明屋尚Aデットマール・クラマー

2006年W杯公式ポスターを日本人デザイナー・天明屋尚氏から贈られて喜ぶクラマー。2005年11月

デットマール・クラマーA賀川浩

オーストリアとの国境に近いクラマーの自宅の前で。左は賀川浩

河本武A岩谷淑子A砂田純二A岩谷俊夫Aデットマール・クラマーA賀川浩

2005年11月14日、「日本におけるドイツ年」にて。左から岩谷俊夫の次男・砂田氏、岩谷夫人、クラマー、河本武ユーハイム社長、賀川浩

佐々木康治Aデットマール・クラマーA釜本邦茂

2005年11月14日、「日本におけるドイツ年」神戸シンポジウムの控え室。釜本邦茂(左)佐々木康治とクラマー(中央)。

岩谷夫人Aデットマール・クラマーA賀川浩

2005年11月、「日本におけるドイツ年」講演前の控え室にて、デットマール・クラマー、故・岩谷俊夫 夫人と

黒田和夫Aデットマール・クラマーA賀川浩

クラマー氏講演前の控え室にて。左は滝川二高監督(当時)の黒田和生さん

河本武Aデットマール・クラマー

講演前の控え室で、河本武ユーハイム社長と談笑するクラマー

デットマール・クラマーA賀川浩

首からレイを下げるクラマー。右は賀川浩。“北九州ダービー”を盛り上げる催しのひとつとして、クラマー氏の講演会が開かれ来日した

川淵三郎Aデットマール・クラマー

第1回サッカー殿堂入り。掲額のミニチュアを川淵三郎キャプテンから受けるクラマー

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