日本サッカー人物史
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野津謙 [Yuzuru NOZU]
日本サッカー殿堂
第4代会長(在任期間:1955〜1976年)
1899年3月12日、広島県生まれ
東京帝国大学卒業
医師。1947年、野津診療所を開業。特に、公衆衛生学で業績を残す
県立広島第一中学校(現・県立広島国泰寺高等学校)、第一高等学校、東京帝国大学でプレー
東大在学中の1921年、第5回極東選手権大会(上海)に出場
理事、理事長を経て、1955年会長就任。1974年、協会の財団法人化を実現
また、日本サッカーの技術の向上にも力を注ぎ、1960年には、日本代表コーチとしてデットマール・クラマー氏を招聘。代表の強化、選手育成、指導者養成の礎を築く
AFC副会長、FIFA理事(日本人で2人目)を歴任。1969年、AFC傘下各国のトップクラスの指導者を対象としたFIFAコーチングスクールを日本で開催。また、アジアユース選手権大会の創設にも尽力する。FIFAでは、ワールドカップ組織委員会委員として、1974年の西ドイツ大会の成功に貢献
厚生省体育官、日本体育協会理事、同専務理事、日本オリンピック委員会委員、国立競技場理事等を歴任。日本体育協会では、スポーツ少年団創設の中核メンバーであり、スポーツ少年団本部長を務める
1964年 藍綬褒章、1969年 勲三等瑞宝章、1983年 銀杯一個
1983年没
2005年 第1回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
インターハイ、クラマー、スポーツ少年団 発展のもとを築いた“選手”会長
JFAの第2代の深尾隆太郎、第3代高橋龍太郎会長が、ともに1870年代の生まれ。自身にはサッカーの経験はないが、ともに子息が旧制高等学校でサッカーに打ち込んだのが縁となって会長に就任したのだが、その旧制高校のサッカー大会、全国高等学校蹴球大会(インターハイ)を大正12年(1923年)に創立したのが、東大の学生であった野津謙(のづ・ゆずる)さん。19世紀の末、明治32年の生まれで広島一中時代からボールを蹴っていたから、サッカー畑から生まれた最初のJFA会長だった。
インターハイ創設に見るとおり、アイデア豊かで実行力もあり、一高時代には野球部全盛のなかでグラウンドにゴールをたてサッカーをはじめたというエピソードもある。
その一高から東大でプレーし、第5回極東大会(1921年、大正10年)に出場して、2戦2敗。その無念を日本サッカー興隆に注ぎ込むことになった。
医師となり、アメリカで公衆衛生学を学び、この分野でわが国の第一人者として仕事をしながら、JFAにも深くかかわり第4代会長となる。 日本サッカーの起死回生の強化策として初の外国人プロフェッショナル・コーチを招くことを決め、デットマール・クラマーを自らの目で確かめて招くことにしたのは有名な話だが、“ドクター・ノヅ”の誠実な人柄はFIFA(国際サッカー連盟)のサー・スタンレー・ラウス会長、AFC(アジアサッカー連盟)のトンク・アブダル・ラーマン会長にも信頼され、FIFAコーチング・スクール、アジアユース大会の創設など、のちに日本に大きな力となるAFC、FIFAの公式行事を創設したこともまた、野津さんの先見性といえた。
公衆衛生で培った広い目配りはスポーツ少年団という草の根スポーツへの配慮となって、自ら体協のなかでスポーツ少年団本部長も務めた。代表チームの成績があがらず、サッカーは国内で浸透しはじめながら人気を得ることの少なかった頃から、東京オリンピックからメキシコ・オリンピックの銅メダル、そして再びの停滞期――まことに波乱万丈の会長在任21年間を経て、日本サッカーは大きく伸びる基礎を築いた。
プロフィール
- 1899年(明治32年)3月12日生まれ
- 1911年(明治44年) 広島中学(22年から広島一中、現・国泰寺高校)に入学。3年生のころからサッカー部に
- 1916年(大正5年) 第一高等学校(一高)に進学
一高にはまだサッカー部がなく、ボート部に入る。サッカーへの思いを忘れられず、同好の士とゴールポストを立て、ボールを蹴る - 1919年(大正8年) 東京帝国大(東大)に進み、黎明期の蹴球クラブを発展させる
- 1921年(大正10年)5月 上海での第5回極東大会に参加。日本代表(全関東)のHBとして、対フィリピン(1−3)対中華民国(0−4)に出場して実力の違いを体験した
- 1923年(大正12年)1月 全国高等学校(旧制)蹴球大会(インターハイ)を東大主催で開催。野津さんが提唱し、実現したこの高校大会は、大戦後の学制改革でなくなるまでスポーツ界のユニークな大会として注目され、官立(国立)大学のサッカーのレベルアップに貢献。また、この年、東大主唱で大学リーグを発足した(翌24年、第1回関東大学リーグ開始)
3月 東大医学部卒業
4月 医学部血清化教室(大学院)へ。 - 1927年(昭和2年) 東大医学部小児科教室へ(31年4月まで)
5月 JFA理事 - 1928年(昭和3年) 鈴木重義と共著『ア式蹴球』(アルス運動叢書)出版
アムステルダムのFIFA事務局を訪問して、加盟を申請 - 1929年(昭和4年)5月 日本体育協会理事(31年6月まで)。FIFA総会で日本の加盟が認められる
- 1931年(昭和6年)6月 体育協会専務理事
9月 米国へ留学(34年1月まで) - 1935年(昭和10年)4月 東京都中央保健所学校衛生部長(37年12月まで)
- 1938年(昭和13年)1月 厚生省体育官(41年まで)
- 1941年(昭和16年)1月 大政翼賛会国民生活指導部副部長(5月まで)、次いで同産業報告会厚生部長(45年12月まで)
- 1947年(昭和22年)10月 野津診療所を開設、所長に(82年3月まで)
- 1955年(昭和30年)4月 JFA第4代会長
- 1958年(昭和33年)5月 アジア・サッカー連盟副会長(70年まで)
- 1963年(昭和38年)4月 日本スポーツ少年団副本部長(66年、同本部長に。73年まで)
- 1964年(昭和39年) 藍綬褒章受章
- 1969年(昭和44年) 勲三等瑞宝章受章
- 1970年(昭和45年) 英国ナイト勲章受章
- 1976年(昭和51年) JFA名誉会長
- 1983年(昭和58年)8月27日 没
- 2005年(平成17年)5月27日 第1回日本サッカー殿堂入り
関連項目
- 昭和の大先達・竹腰重丸(上)
- 昭和の大先達・竹腰重丸(下)
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(上)
- 第16回 竹腰重丸(2)少年期は剣道 大連でサッカーに出会い山口高校でチョー・デインを知る
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(上)
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(下)
- W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(続)
- 殿堂入り歴代会長と第6代藤田静夫(上)
- 京都と日本のサッカーに捧げた90年 第6代藤田静夫(下)
- 50年前に活躍した日本人初のFIFA常任理事 市田左右一(下)
- 日本サッカーの創生期から発展期まで、歴史とともに生きて歴史を伝えた大先達 新田純興(上)
- チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)
- 伝統的な哲学を持ちつつ日本のサッカーとスポーツの国際化を図ったドクター 野津謙(下)
- 国際舞台での初勝利からベルリンの逆転劇まで代表チームのリーダー 鈴木重義(上)
- 1927年の1勝を1936年のベルリンへつないだ卓越したリーダー 鈴木重義(中)
- 厳しいコーチをバックアップし代表チームに栄冠を呼んだ監督 鈴木重義(下)
- 自らは優れたランナー。体協の筆頭理事で募金活動に腕を振るったJFA初代会長 今村次吉
- 華族で貴族院議員。ベルリン五輪へ代表を送り成果を挙げた、第2代JFA会長 深尾隆太郎
- 企業チームの部長としてチームをナンバーワンに。第7代JFA会長 島田秀夫
- 速さの杉山とともに成長したアジアユース1期生 宮本輝紀(上)
- 1959年アジアユース「日本のスポーツ史上、高校生チーム初の海外遠征」
- 日本サッカー界を改革した外国人伝道師デットマール・クラマーの来日
- 1986年メキシコW杯「86ワールドカップ日本開催論」
- 昭和初期のレベルアップ(1)
- ローマ、東京、メキシコ(2)
- メキシコの余韻の中で(2)
- 友人の遺志を継ぎ、停滞期の日本サッカーのなかで赤字体質を改革。第5代JFA会長 平井富三郎(上)
- 89年前の「天皇杯」第1回大会。優勝の東京蹴球団にFA銀盃
- 全国優勝大会の大正末期の技術進歩。ドイツ捕虜との交流で進化した広島
- 大正末期日本サッカーの技術進化に貢献したビルマ人留学生チョー・ディン
- スコットランド流のパスゲームを強調したチョー・ディンの指導
- 広島、神戸、名古屋、各地各様の伏流がやがて日本代表へJFA創設からの急速進化
- ベルリンの栄光を味わい戦後の日本サッカー復興期を支えた実力者 小野卓爾(上)
- 東京とメキシコの成功を将来に備えたFIFAコーチングスクールやJFAと中央大学の発展と基礎を築いた“実力者” 小野卓爾(下)
- チョウ・ディンの指導で神戸一中を開眼 51年第1回アジア大会に後輩10人を送り込む 時代の先頭を歩いたサッカー人 範多竜平(下)
- 岡野良定(上) 三菱重工サッカー部を強化、発展させ 今の浦和レッズへ導いた 広島一中OB
- 1964年東京オリンピック話?
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第1回アジア競技大会(1951年)日本対イラン、試合開始前の記念撮影(賀川太郎アルバムより)

第1回アジア大会雑景:ガンジーの墓を詣でる日本代表選手(岩谷俊夫アルバムより)

第1回アジア競技大会(1951年)出国前の結団式。三笠宮より秩父宮賜旗を受ける浅野団長(2月21日、体協)(岩谷俊夫アルバムより)

1969年7月15日から10月18日までの3ヶ月間、検見川の東大研修センターで行なわれた「第1回FIFAコーチング・スクール」 写真提供:上田亮三郎氏

日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額された肖像プレート (C) J. LEAGUE PHOTOS

日本サッカー殿堂第1回表彰式。前列左から釜本邦茂、八重樫茂生、長沼健、村形繁明、デットマール・クラマー、岡野俊一郎、平木隆三、杉山隆一の各受賞者。後列左端、川淵三郎JFAキャプテン

クラマー・コーチの右足首を良導絡(りょうどうらく)で治療するドクター野津謙(第4代JFA会長)

JFAの野津会長(左)から功労賞を贈られる竹腰重丸氏(右)

野津さんの自著。扉にはクラマーの座右の銘がドイツ語で記されている

1951年、第1回アジア競技大会の日本代表選手。前列左端から竹腰重丸JFA理事、田辺五兵衛副会長、高橋龍太郎会長、範多竜平団長、野津謙理事、一人おいて小野卓爾理事。選手、左から則武謙、岡田吉夫、岩谷俊夫、堀口英雄、松永碩、有馬洪、賀川太郎、加藤信幸、加納孝、二宮洋一(監督・主将)鴇田正憲、宮田孝治、田村恵、杉本茂雄、津田幸男