日本サッカー人物史

日本サッカーアーカイブ ホーム > 日本サッカー人物史 > 平井富三郎

平井富三郎 [Tomisaburo HIRAI]

日本サッカー殿堂

2005年第1回掲額

第5代会長(在任期間:1976〜1987年)
1906年12月13日、東京都生まれ
東京帝国大学卒業
通商産業省事務次官、新日本製鐵株式会社代表取締役社長
日本銀行政策委員会委員他、各種経済団体の役員を歴任
新日鐵社長在任中、当時のJFA副会長であり、東大時代の友人である篠島秀雄氏からの強い要請を受け、会長に就任。財政面での改革を進め、慢性的な赤字体質からの脱却を図り、現在の財政的基盤をつくった
強化と普及にも傾注。1978年には、日本代表の強化を図るため、ジャパンカップ(キリンカップ)をスタートさせる。また、1981年には、中断されていたインターコンチネンタルカップを、トヨタカップとして日本で開催することを実現
1973年 藍綬褒章、1976年 Rio Branco勲章(ブラジル)1979年 勲一等瑞宝章
2003年没
2005年 第1回日本サッカー殿堂入り

イントロダクション

JFAの財政を建て直し、次の成長期に備えた

 新日鉄の社長、会長を務め経済界の重鎮であった平井さんが日本サッカー協会(JFA)の会長に就任したのは、50年来の友人であった篠島秀雄さん(1910−19875年)の願いに応えたもの。
 第4代野津会長のもとで東京、メキシコのオリンピックを足場に画期的な発展を遂げた日本サッカー界だったが、FIFAコーチングコースをはじめとする多くの事業の展開は必要で且つ将来への大きな布石ではあっても、財政的には重荷でJFAは慢性的な赤字体質になっていた。
 平井さんはこうしたJFAの財政の建て直しを図った。一般的には、アマチュア競技団体のトップに経済界の大物を置くときにその人の財力や集金力に頼ろうとする傾向の強い頃だったが、平井さんは、まず理事会の会議時間の厳守といった基礎的な事柄から手をつけて、組織力アップを図り長沼健専務理事を中心とする若い役員たちによる運営をリードして財政基礎を確立した。

 引き締めだけでなく代表強化のための国際試合(ジャパンカップ―キリンカップ)を創設し、世界のトップクラブの試合であるトヨタカップの日本開催を実現した。
 またコーチ育成のスピードは止まることなく全国各地に指導者が増え、少年層へのサッカーの浸透が関東・関西の都会では小学生間で50%をこえるようになった。
 1978年の協会の登録制度の改革は社会人、学生といった社会的な身分によるものでなく、登録区分を年齢別にする――という世界の常識ではあっても日本では非常識――まさに画期的だった。
 この制度は、協会の財政基盤を固めることにもなったが、のちにプロ化に踏み切った時に世間はこの制度の意味にヒザを叩くことになる。

 平井会長には、82年のワールドカップのときにマドリードの日本レストランでお目にかかったことがある。お供も連れず、現地アテンドの商社の人と静かに食事されている姿に、他の古い競技関係の会長さんの“殿様”外遊などを知る者には、財界のトップであるこの人のJFA建て直しにかける姿勢を見る思いがした。
 一握りの選手をしゃにむに強化して東京、メキシコオリンピックで成果を挙げたあと、代表チームの国際舞台での成績は振るわず、この10年はメディアからも停滞期などと言われたが、この時期に大会社経営の実績を持つ平井会長を得たことで、JFAは次の飛躍への着実な基礎固めに成功した。

プロフィール

フォトライブラリフォトライブラリ

写真をクリックすると拡大表示されます。

平井富三郎

平井富三郎JFA第5代会長。協会の財政基盤を確立した

平井富三郎

日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額された肖像プレート (C) J. LEAGUE PHOTOS

島田秀夫A竹腰重丸A山田午郎A田辺五兵衛A高橋龍太郎A深尾隆太郎A宮本征勝A野津謙A平井富三郎A藤田静夫A今村次吉A川本泰三A杉山隆一Aデットマール・クラマーA八重樫茂生A村形繁明A岡野俊一郎A平木隆三A長沼健A釜本邦茂A川淵三郎

日本サッカー殿堂第1回表彰式。前列左から釜本邦茂、八重樫茂生、長沼健、村形繁明、デットマール・クラマー、岡野俊一郎、平木隆三、杉山隆一の各受賞者。後列左端、川淵三郎JFAキャプテン

このページの先頭に戻る