日本サッカー人物史

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深尾隆太郎 [Ryutaro FUKAO]

日本サッカー殿堂

2005年第1回掲額

第2代会長(在任期間:1935〜1943年)
1877年、大阪府生まれ
男爵
東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業
貴族院議員
大阪商船株式会社取締役副社長、日清汽船株式会社取締役社長、南洋拓殖株式会社社長、南洋アルミニウム鉱業株式会社取締役会長
令息が第五高等学校(現・熊本大学)時代のサッカー選手であったことから、サッカーに目を注ぐ
第11回オリンピック競技大会(1936/ベルリン)にむけて、意気旺盛な若者を導き、指導者の重要性を説きつつ、協会に新しい気風を盛り立てた
大日本体育協会理事等を歴任
1928年 金杯一個、1937年 勲三等瑞宝章、1940年 勲三等旭日中綬章
1948年没
2005年 第1回日本サッカー殿堂入り

イントロダクション

サッカー人の力を結集してベルリンで成果を挙げた“男爵”会長

 大阪商船副社長、南洋拓殖株式会社社長。一橋を出て経済界で活躍し、海外事情にも明るく、また華族(男爵)で貴族院議員として政界でも知られていた深尾隆太郎(ふかお・りゅうたろう)さんのもとでJFAは、目標をアジアから世界、オリンピックへ――と高く掲げ、1936年のベルリン大会に初参加しただけでなく、強豪スウェーデンに逆転勝ちするといった大きな成果を挙げた。
 選手選考、派遣費用の募金などをはじめ当時の協会にとっての数々の大仕事を着実にやり遂げたのは、協会発足後の10年の躍進に勢いを得たサッカー人の努力によるが、関東、関西をはじめとする全国各地域の力を結集させたところに会長の力があったといえる。

 ベルリン以降は、軍部の中国大陸侵略にはじまる大戦への傾斜という難しい社会情勢のなかではあったが、JFAがサッカーを続け、次の世代につなぐ努力を重ねたのは見事だったといえる。
 深尾さん自身はボールを蹴った経験はないが、2人の子息が第五高等学校(現・熊本大学)でサッカー選手としてインターハイに打ち込んだ縁があり、同じ華族(男爵)仲間であった野村正二郎JFA理事(当時)の要請で会長となり、栄光と苦難の10年の努めを果たした。

プロフィール

  • 1877年(明治10年) 1月19日生まれ
  • 1899年(明治32年) 6月、東京高等商業(現・一橋大)卒業
                 8月、大阪商船(現・商船三井)に入社
  • 1912年(明治45年) 3月、朝鮮郵船取締役に
  • 1917年(大正6年) 12月、海外興業取締役に
  • 1920年(大正9年) 1月、大阪商船専務取締役に
  • 1923年(大正12年) 11月、大阪商船副社長に
  • 1925年(大正14年) 2月、襲爵(男爵)
  • 1928年(昭和3年) 6月、貴族院議員に
  • 1929年(昭和4年) 1月、大阪商船副社長を辞任
                 11月、日清汽船社長に
  • 1930年(昭和5年) 4月、正五位に叙せられる
  • 1934年(昭和9年) 4月、勲四等旭日小綬章
  • 1935年(昭和10年) 4月1日、大日本蹴球協会(JFA)第2代会長に(45年8月まで)。貴族院議員として、議員制度調査会委員に
  • 1936年(昭和11年) 11月、南洋拓殖社長に
  • 1937年(昭和12年) 南洋アルミニウム鉱業会長に
  • 1939年(昭和14年) 南洋アルミニウム鉱業を辞任
  • 1941年(昭和16年) 南洋拓殖社長を辞任
  • 1945年(昭和20年) 8月、JFA会長を退任
  • 1948年(昭和23年) 4月17日、没
  • 2005年(平成17年) 第1回日本サッカー殿堂入り

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深尾隆太郎

深尾隆太郎氏ご親族。掲額プレートとともに (C) J. LEAGUE PHOTOS

島田秀夫A竹腰重丸A山田午郎A田辺五兵衛A高橋龍太郎A深尾隆太郎A宮本征勝A野津謙A平井富三郎A藤田静夫A今村次吉A川本泰三A杉山隆一Aデットマール・クラマーA八重樫茂生A村形繁明A岡野俊一郎A平木隆三A長沼健A釜本邦茂A川淵三郎

日本サッカー殿堂第1回表彰式。前列左から釜本邦茂、八重樫茂生、長沼健、村形繁明、デットマール・クラマー、岡野俊一郎、平木隆三、杉山隆一の各受賞者。後列左端、川淵三郎JFAキャプテン

深尾隆太郎

ベルリン・オリンピックでの成果を足場に、戦前のサッカー発展期をリードしたJFA第2代会長 深尾隆太郎

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