日本サッカー人物史
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藤田静夫 [Shizuo FUJITA]
日本サッカー殿堂
第6代会長(在任期間:1987〜1992年)
1911年2月5日、京都府生まれ
京都府師範学校(現・京都教育大学)卒業
教職を経て、京都府衛生部、労働部勤務。その後、株式会社藤田ビルを設立し、代表取締役社長に就任
理事、副会長を経て、1987年会長就任。会長在任中、Jリーグ設立、FIFAワールドカップの招致決定、日本女子リーグ(現・Lリーグ)及び全日本ユース選手権の創設など、現在の日本サッカーの基盤づくりに尽力。また、日本代表選手団団長として数多くの国際試合に帯同するなど、強化現場を盛り立てた
関西蹴球協会副会長、京都府サッカー協会会長を務め、関西地区のサッカーの発展にも力を注ぐ
日本体育協会理事、京都市体育協会会長、京都府体育協会会長等を歴任。長年にわたり、国民体育大会の京都府代表団団長を務める
1975年 藍綬褒章、1982年 勲四等旭日小綬章、1992年 FIFA功労者表彰、1993年 銀杯一個
2002年没
2005年 第1回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
京都での成功をステップに日本サッカーの興隆に尽くしたJFA第6代会長
京都に生まれ、京都で育ち、京都で暮らし、長いあいだ京都のスポーツとサッカーの発展に尽くした藤田さんのJFA(日本サッカー協会)会長就任には、この人の視野の広さや国際的なつながりの広さがあったとしても、JFAだけでなく東京にある日本の中央組織のなかではとても珍しいことだ。これには、第5代平井会長の強い意向もあったという。
京都師範学校(京都教育大学)を卒業後、教職を経て京都府に勤め、退職後、藤田産業、藤田ビルを興して経済界で活動すると同時に、京都サッカー協会、京都体育協会の中心となって働き“京都に藤田あり”と知られるようになる。
そのきっかけは大戦直後の第1回国民体育大会の京都国体、昭和22年(1947年)。物資の乏しいときに、戦時中イモ畑となっていたグラウンドを仲間とともに整備し、全国から選手を迎えて大会を成功に導いた。藤田さんが36歳のときだった。当時すでに京都サッカーの会長。次の年に京都体協の副会長となり、以来50年、選手団の団長として国体の開会式の入場行進に参加しつづけた。
サッカーでは東京オリンピックの前年に京都サッカー友の会を創設してバックアップの組織をつくり、普及の先頭に立つ。山城高校時代の釜本邦茂の逸材ぶりを見て、彼の成長を支え、世界的プレーヤーへと伸びてゆくのに大きな力となったのはよく知られている。
英語も勉強し、若いうちから海外の知識も豊富、国際会議にも出席し、1957年の初の中国遠征副団長、1968年メキシコ・オリンピックサッカー選手団長をはじめ重要な試合の遠征チームの団長を務めた。
自ら海外に出かけるだけでなく、来日する外国要人との交流にも積極的で、歴史の町・京都での藤田さんの心のこもったもてなしは多くの外国サッカー人の心をとらえた。FIFA第6代会長スタンレー・ラウスさんも、その一人だった。
藤田さんの気配りはメディアにも及び、要人を招いたときには関西の記者を集めて会見を用意した。ニュースの需要の少ない当時にあっても、関西の記者たちにも海外への関心を持ってほしいとの考えからだった。
第4代平井会長のもとでJFA副会長として協会の将来を明るくし、会長となってからプロフェッショナルリーグ(Jリーグ)創設の準備、ワールドカップ招致の決定、さらには年齢別登録に則った年齢別選手権の開催の一歩として日本ユース選手権を創設するなど、次の大発展期へのステップを築いた。
プロフィール
- 1911年(明治44年)2月5日生まれ
- 1925年(大正14年) 京都師範学校に入学。2年生からサッカー部に入る
- 1928年(昭和3年)1月 第10回全国中等学校蹴球選手権大会(現・高校サッカー選手権大会)に出場、1回戦で敗れる
- 1930年(昭和5年)1月 第12回同大会に出場、2回戦で敗退
3月 同校を卒業。京都府の教員を経て、京都府庁に勤務 - 1935年(昭和10年) 24歳で京都蹴球協会(現・京都サッカー協会)理事長
- 1947年(昭和22年) 同協会会長
- 1954年(昭和26年) 日本サッカー協会常任理事
- 1953年(昭和28年) 京都府を退職し、株式会社藤田ビルを設立
- 1956年(昭和31年) 京都市体育協会会長
- 1973年(昭和48年)4月 日本体育協会理事
- 1976年(昭和51年) 日本サッカー協会副会長
- 1981年(昭和56年) 京都サッカー協会名誉会長
- 1987年(昭和62年)4月 日本サッカー協会会長
- 1989年(平成元年) 京都体育協会会長
- 1992年(平成4年)5月 日本サッカー協会名誉会長
- 1994年(平成6年)4月 日本サッカー協会名誉顧問、京都市体育協会名誉会長
- 1998年(平成10年) 京都府体育協会名誉会長
- 2000年(平成12年)4月 日本サッカー協会最高顧問
- 2002年(平成14年)9月27日 死去
- 2005年(平成17年)5月27日 第1回日本サッカー殿堂入り
関連項目
- 昭和の大先達・竹腰重丸(下)
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(下)
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(中)
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(下)
- 殿堂入り歴代会長と第6代藤田静夫(上)
- 京都と日本のサッカーに捧げた90年 第6代藤田静夫(下)
- 60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(上)
- チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)
- 伝統的な哲学を持ちつつ日本のサッカーとスポーツの国際化を図ったドクター 野津謙(下)
- 企業チームの部長としてチームをナンバーワンに。第7代JFA会長 島田秀夫
- 新装の南運動場での中学選手権
- しつけの厳しさ〜シェパードと子供とクラーマー
- 森の国のシュタットバルトで〜DSJとスポーツ少年団
- 加藤正信先生のこと
- あるスポーツ記者の回想 〜クラマー、釜本邦茂、そして神戸一中のこと〜 By富樫 洋一
- 昭和初期のレベルアップ(5)
- 戦後の混乱と復興期に(2)
- ローマ、東京、メキシコ(3)
- フランス―ウルグアイ、難しく、感動的な試合
- ミュンヘン→ライト・イン・ビンクル:「ジーコは間違っていない」クラマーは説く
- エウゼビオ(7)0−3からの逆転劇を演じ66年大会の得点王となり釜本邦茂にも影響を与えた
- 釜本邦茂(3)17歳、高2でデットマール・クラマーと衝撃の出会い“北海道のクマのままじゃない”
- 釜本邦茂(25)ガンバ初代監督、国会議員、JFA副会長。夢はストライカー育成に
- サッカーチームの監督とは?
フォトライブラリ
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藤田静夫氏ご親族。掲額プレートとともに (C) J. LEAGUE PHOTOS
日本サッカー殿堂第1回表彰式。前列左から釜本邦茂、八重樫茂生、長沼健、村形繁明、デットマール・クラマー、岡野俊一郎、平木隆三、杉山隆一の各受賞者。後列左端、川淵三郎JFAキャプテン
藤田静夫JFA第6代会長
1957年 中国遠征チームに同行して。左から高森泰男選手、竹腰重丸団長、中国・周恩来首相、右端・藤田静夫副団長
74年ワールドカップのとき。西ドイツのスポーツ少年団本部で
74年ワールドカップのとき。西ドイツのスポーツ少年団本部の前で
藤田静夫さん。とあるパーティで
とあるパーティで。左から釜本邦茂夫人、藤田静夫夫人、長沼健夫人