日本サッカー人物史
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田辺五兵衛 [Gohei TANABE]
日本サッカー殿堂
1908年3月18日、大阪府生まれ
大阪商科大学(現・大阪市立大学)卒業
田辺製薬株式会社取締役社長
1945〜1946年、日本蹴球協会会長代行を経て、1946年、副会長に就任。戦後の混乱期に、サッカーの復興に心血を注ぐ
第11回オリンピック競技大会(1936/ベルリン)の派遣費用として多額の寄附を行なうなど、戦前から戦後にかけて財政的にも日本サッカー界を支える
また、戦前より関西蹴球協会設立に尽力し、初代会長を務めるなど、関西地区のサッカーの普及、発展にも寄与
1920年代に田辺製薬サッカー部を創設。実業団チームの先駆けであり、戦後は、社会人サッカーのリーダー的存在となった
内外のサッカー事情に詳しく、JFA機関誌等を通してサッカーの情報を広く提供してきた功績は大きい。特に、1962〜1971年まで機関誌『サッカー』に連載された「烏球亭雑話」が有名である。旧蔵の収集品と文献を「田辺文庫」に残し、その業績を広く後世に伝えている
1972年 勲三等瑞宝章
1972年没
2005年 第1回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
偉大な世話役で博覧強記
ノコさん(竹腰重丸)より2歳若く、日本サッカー史ではいわゆる昭和5年(第9回極東大会)の世代である。
江戸時代から続く大阪道修町の薬業界の名門・田辺商店の御曹司(おんぞうし)で、旧制桃山中学(現・桃山学院高校)でサッカーに夢中になり、中学生、大学生(大阪商科大=現・大阪市立大)の頃からすでに大阪協会、関西協会の仕事を手伝っていた。
1930年極東大会の対中華民国戦3−3のあと、疲れ切った竹腰重丸を神宮競技場(現・国立競技場)から宿舎の日本青年会館まで背負って帰った話。1936年ベルリン・オリンピックのあと、チューリヒでの親善試合で足を骨折した川本泰三をホテルまで背負ったというエピソードが示すとおり、自ら世話役を買って出ると共に、古今、内外のフットボールに通じ、日本への紹介を心がけた。
1930年代に本場のFA(フットボール・アソシエーション)の刊行物のほとんどをそろえた蔵書家でもあり、1938年(昭和13年)の阪神大水害で流失したのを残念がっていた。
戦後、田辺製薬の社長となってからも、JFA(日本サッカー協会)副会長として大戦で中断した日本サッカーの再興に力を注ぎ、また、田辺製薬チームに日本代表クラスの選手を集めて強い企業チームをつくり、それまで学生主力であったサッカー選手を社会人となってからも経験を積み、高いレベルに達することを望んだ。プロへの道の開けなかったその頃として、優れた先見性であったといえる。
その広い視野はトップチームだけでなく、関西協会の大きな仕事の一つであった全国中等学校選手権(現・高校選手権)を戦後のフットボール最高の柱の一つとして発展させた(大会はのちに首都圏に会場を移して規模を拡大)。また、1964年の東京オリンピックを足場に少年への普及や市民スポーツクラブの育成に目を向け、これまでの学校での活動とは別の新しいサッカームーブメントを提唱、日本初の法人格市民スポーツクラブである神戸フットボールクラブ(FC)創設をリードした。
若い頃、ノコさんの理論に対抗するために勉強したというのが口グセだったが、自らチームアタッシュとなってベルリン・オリンピックへ乗り込んだ熱意は戦後も変わらず、私たち後輩はいつもその博覧強記ぶりに圧倒され、また、サッカーの技術論だけでなく世界のそれぞれの国や地域の社会とサッカーの結びつきの面白さにも目を向けさせられた。
JFA機関誌に連載した「烏球亭(うきゅうてい)雑話」、その博識ぶりを伝える小話集、多くの蔵書、スーベニールのコレクションは、田辺文庫として今に残る日本サッカーの“お宝”である。
プロフィール
- 1908年(明治41年)3月18日 田辺屋(13代)五兵衛の長男として生まれ、治太郎と名乗る
- 1930年(昭和5年) 第9回極東大会日本代表役員
- 1933年(昭和8年) (株)田辺五兵衛商店取締役就任
- 1934年(昭和9年) 大阪商科大学(現・大阪市立大学)卒業。第10回極東大会(マニラ)選手団役員
- 1936年(昭和11年) ベルリン・オリンピック選手団随行員
- 1941年(昭和16年) 父・13代田辺五兵衛死去により、14代五兵衛を襲名。社長に就任
- 1943年(昭和18年) 会社名を田辺製薬(株)に
- 1946年(昭和21年) 日本蹴球協会副会長
- 1950年(昭和25年) 第3回全日本実業団選手権大会に田辺製薬初優勝。以後、昭和30年(1955年)まで6連続優勝
- 1959年(昭和34年) 田辺製薬会長に就任
- 1963年(昭和38年) 兵庫サッカー友の会副会長
- 1965年(昭和40年) 神戸少年サッカースクール副校長
- 1970年(昭和45年) 社団法人神戸フットボールクラブ副会長
- 1972年(昭和47年)10月16日 死去。64歳。法名、隆徳院真誉実聞教道居士
- 2005年(平成17年)5月27日 第1回日本サッカー殿堂入り
関連項目
- 昭和の大先達・竹腰重丸(中)
- 綿工場からサッカー
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(上)
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(中)
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(下)
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター加藤正信(上)
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(中)
- 第17回 竹腰重丸(3)ひたむきに極東の王座へ 上海でフィリピンに勝ち 東京で中華民国と3−3
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(続)
- 【番外編】ワールドカップ一周年 日本サッカーの質の変化
- W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(中)
- 第48回 手島志郎(1)敏捷性を生かし日本スタイルの原型を築いた75年前の代表チームCF
- 第49回 手島志郎(2)小兵を利して“すり抜けの名人”と言われた初代日本代表
- 最初のショートパス経験者 昭和5年の日本代表 校長でサッカー・コーチ 高山忠雄
- 【番外編】サッカー界の歴史指向とS誌選定、日本代表ベスト50 釜本邦茂の1位に思う
- 東北初の高校チャンピオンを育てた剣道の達人 内山真(下)
- 75年前の日本代表初代ストライカー。すり抜ける名手 手島 志郎
- 殿堂入り歴代会長と第6代藤田静夫(上)
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- クラマーと日本とドイツのサッカー
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- 【番外編】走るサッカーを説く―― オシム監督
- 121年前、日本にサッカーを初めて紹介し東京高師−筑波大に根付かせた大功労者 坪井玄道
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- 1927年の1勝を1936年のベルリンへつないだ卓越したリーダー 鈴木重義(中)
- 極東大会で活躍した名プレーヤー。JFAを支え、導いた 篠島秀雄(上)
- 日本のビール王、戦後のサッカー再興の力に。第3代JFA会長 高橋龍太郎
- 1936年ベルリン五輪 スウェーデン戦逆転劇のキャプテン 竹内悌三
- 1930年極東大会「完全に体を使い果たすまで...」
- 1936年ベルリン・オリンピック「奇跡の逆転を生んだ近代戦術」
- 天皇杯のきっかけとなった天覧試合
- アーセナルとの激闘と釜本のシュートに沸いた1968年5月
- 日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった
- メルボルン五輪大会で印象に残ったソ連・ブルガリア
- キーパーの判断力とタイミング
- デザインの町ミラノとダビンチと白黒ボール
- ナシオナルのレセプションでサー・スタンレーは日本でのトヨタ・カップの意義を語った
- 故・田辺氏が紹介した「国境の村」で旅の面白さを発見
- 束の間の散策で訪れた人類学博物館で古代のボールゲームからの流れを思う
- vol.7 韓国
- 加藤正信先生のこと
- vol.22 スウェーデン
- 神戸フットボールクラブ 20年のあゆみ
- 昭和初期のレベルアップ(3)
- 昭和初期のレベルアップ(4)
- 戦後の混乱と復興期に(2)
- 戦後の混乱と復興期に(5)
- スポーツ記者になって(3)
- メキシコの余韻の中で(1)
- 世界の“常識”を求めて(3)
- 準決勝を前に――熱っぽく語った兄・太郎への追憶
- 世界の“常識”を求めて(8)
- 関西人の先見性
- 神戸サッカー物語 vol.3
- ニュルンベルク→シュツットガルト:新機軸のボールでのベッカムのFKに思う。この世界で戦うために日本は
- ドルトムント:長身3人を加えたイタリア。伝統の駆け引きの巧さによる延長2ゴールでドイツを破る
- 田辺五兵衛とともに桃山中学をトップに、ゴットンとともに関学を関西ナンバーワンに。昭和初期の日本一のGK 斎藤才三(中)
- 関学を日本一に、極東大会で日本をアジア一に、大会主催社の記者として珠玉の批評を残した 斎藤才三(下)
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- 1930年の日本代表で初のハットトリック 夭折した“天才”FW 若林竹雄(上)
フォトライブラリ
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新田純興さんが中心になりつくったJFA50周年記念の「日本サッカーのあゆみ」。その他、田辺五兵衛、鈴木重義、多和健雄、大谷四郎、中条一雄の5氏が編集委員を務めた

第1回アジア競技大会(1951年)日本対イラン、試合開始前の記念撮影(賀川太郎アルバムより)

第1回アジア大会雑景:ガンジーの墓を詣でる日本代表選手(岩谷俊夫アルバムより)

『蹴球論評 第2号』の表紙(1931年12月30日 蹴球同好会発行)日本サッカー第1期上昇時代の先輩たちの心意気を示す貴重な資料となっている

第1回アジア競技大会(1951年)出国前の結団式。三笠宮より秩父宮賜旗を受ける浅野団長(2月21日、体協)(岩谷俊夫アルバムより)

田辺五兵衛氏ご親族。掲額プレートとともに (C) J. LEAGUE PHOTOS

日本サッカー殿堂第1回表彰式。前列左から釜本邦茂、八重樫茂生、長沼健、村形繁明、デットマール・クラマー、岡野俊一郎、平木隆三、杉山隆一の各受賞者。後列左端、川淵三郎JFAキャプテン

映画スターの市川右太衛門に似ているといわれ、晩年もハイカラでお洒落、明るい色彩の服装が似合っていた(神戸市御影の自宅で)

旧制桃山中学サッカー部。前列左から3人目が田辺さん

若い頃は東西対抗の西軍メンバーで出場した。後列左から3人目、田辺さん。左端は大谷一二さん

明治神宮競技場で開催された昭和21年度東西対抗のパンフレット(左・表紙、右・裏表紙)

1947年、明治神宮競技場(現・国立)での東西対抗は天覧試合。昭和天皇(左)と皇太子(今上天皇)のご説明役を務める田辺五兵衛さん(左端)。立っているのが高橋龍太郎会長、皇太子の右は乗富丈夫関東協会理事長

1951年、第1回アジア競技大会の日本代表選手。前列左端から竹腰重丸JFA理事、田辺五兵衛副会長、高橋龍太郎会長、範多竜平団長、野津謙理事、一人おいて小野卓爾理事。選手、左から則武謙、岡田吉夫、岩谷俊夫、堀口英雄、松永碩、有馬洪、賀川太郎、加藤信幸、加納孝、二宮洋一(監督・主将)鴇田正憲、宮田孝治、田村恵、杉本茂雄、津田幸男

昭和27年、第7回国民体育大会(宮城県)。田辺製薬チームが大阪府代表として出場し、優勝(前列左から藤本、岡村、津田、木下、恒藤、手島、和田。後列左から近藤、加藤、田辺五兵衛、宮田、西村、種田、鴇田、賀川、垂水、内田)