日本サッカー人物史

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島田秀夫 [Hideo SHIMADA]

日本サッカー殿堂

2005年第1回掲額

第7代会長(在任期間:1992〜1994年)
1915年6月27日、岡山県生まれ
東北帝国大学卒業
三菱重工業株式会社取締役副社長
監事、副会長を経て、1992年会長就任。1993年、2002年FIFAワールドカップの開催地に立候補する
三菱重工サッカー部部長として、日本サッカーリーグ評議会議長を務めるなど、クラブチームの側からもサッカー界の発展に寄与
日本体育協会評議員、日本オリンピック委員会評議員を歴任
1995年 銀杯一個
2005年5月 第1回日本サッカー殿堂入り
2005年11月没

イントロダクション

インターハイへの情熱を持ち続け、企業チームの成功を足場に新時代を開いた

 第4代JFA会長の野津謙(のづ・ゆずる)さん(1899−1983)が東京帝国大学(現・東京大学)在学中に全国高等学校蹴球大会(インターハイ)を創設し、それが東大や京大などのサッカー強化、ひいては日本サッカーの躍進につながったことはよく知られている。
 第5代の平井富三郎会長は、自身はプレーヤーではなかったが、1930年第9回極東大会の日本代表であった篠島秀雄さんと東京高等学校、東大で同期であり親友であったところから、篠島さんの要請を受けての会長就任だった。

 第7代の島田秀夫(しまだ・ひでお)会長(1915−2005)は、その篠島さん(1910−1975)より少し若い世代だが、やはりインターハイで情熱を燃やした旧制高校のOBのひとり。
 小学校は東京高等師範(高師)付属、旧制中学も同じ高師付属という東京では最も早くからサッカーが盛んになった学校で、島田さんも当然のように少年期からボールに親しんでいた。
 ただし、付属中学では公式試合でレギュラーとしての出場記録は見当たらず、プレーヤーとして活躍するのは水戸高等学校(現・茨城大学)に進んでから。インターハイでの優勝はなかったが、みっちり練習し、3年間、水戸高校の守備的ミッドフィルダーあるいはセンターハーフとして活躍した。

 大学は東大でなく東北大学で、卒業すると三菱重工に就職。1941年に兵役、終戦(1945年)後にはシベリア抑留という苦労もあったが、47年に帰還して三菱重工の職場に戻ると会社のなかでのサッカーの育成に力を入れ、それまで神戸造船所にあったサッカー部を1958年に東京本社に移し、実業団選手権大会で上位を占めるようになる。
 東京オリンピックの翌年からスタートした日本サッカーリーグ(JSL)に参加、島田秀夫部長、岡野良定総監督(広島高等学校、京大)のペアでサッカー部の発展に尽くした。

 日本の大企業のなかでもスケールの大きい三菱グループは、三菱化成の社長・篠島秀雄さんの力もあって日本サッカーの発展を助けるが、そのグループの中核となる重工業のサッカー部を、杉山隆一、横山謙三、片山洋たち日本代表を加えてJSLのトップチームに仕上げた功績は大きい。また、三菱グループ20チームによる1部から3部までの三菱リーグを作ってバックアップ体制を作り、アマチュアながら観客動員数の大きいクラブにした。
 こうした企業内クラブの強化体制確立とともに、1976年からJFAの理事、86年から副会長を務め、いわゆる停滞期にあって第5代平井富三郎、第6代藤田静夫の両会長を助け、長沼健専務理事をバックアップした。
 その長く忍耐強い基礎固めの時期を過ぎて、やがて会長在任(1992−94)中にJリーグ開幕、2002年ワールドカップ開催地への立候補という新時代への幕を華々しく開いたのだった。

プロフィール

  • 1915年(大正4年) 6月27日、岡山県生まれ
  • 1928年(昭和3年) 東京高等師範付属小学校を卒業。同付属中学校に入学
  • 1933年(昭和8年) 同校を卒業。水戸高等学校(現・茨城大学)に入学
  • 1934年(昭和9年) 第11回全国高等学校蹴球大会(旧制インターハイ)にHB(守備的MF)で出場。1、2回戦、準々決勝に勝って、準決勝で第六高等学校(現・岡山大学)に1−6で敗れた
  • 1935年(昭和10年) 第12回全国高等学校蹴球大会2回戦で、またまた六高に敗れた
  • 1936年(昭和11年) 1月、第13回全国高等学校蹴球大会2回戦で、北大予科に敗れた
                 4月、水戸高校を卒業し、東北帝国大学(現・東北大学)へ
  • 1940年(昭和15年) 同大法科を卒業
                 4月、三菱重工業に就職
  • 1941年(昭和16年) 兵役
  • 1945年(昭和20年) 戦争終結、シベリア抑留
  • 1947年(昭和22年) シベリアから帰国
  • 1948年(昭和23年) 三菱重工に復職
  • 1965年(昭和40年) 日本サッカーリーグ(JSL)創設、三菱重工サッカー部が参加。部長・島田秀夫、監督・岡野良定
  • 1969年(昭和44年) 三菱重工総務部長に就任。団長として同サッカー部の東南アジア遠征に
  • 1975年(昭和50年) 同サッカー部部長を退く。この間、JSL優勝3回、天皇杯優勝3回
  • 1976年(昭和51年) 日本サッカー協会(JFA)の新体制に伴い、理事に就任
  • 1980年(昭和55年) JFA副会長
  • 1981年(昭和56年) 三菱重工副社長
  • 1992年(平成4年) 第7代JFA会長
  • 1993年(平成5年) 日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)がスタート
  • 1994年(平成6年) JFA名誉会長
  • 2005年(平成17年)5月27日 第1回日本サッカー殿堂入り
                11月3日没

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島田秀夫

島田秀夫さん

島田秀夫

島田秀夫氏ご親族。掲額プレートとともに (C) J. LEAGUE PHOTOS

島田秀夫A竹腰重丸A山田午郎A田辺五兵衛A高橋龍太郎A深尾隆太郎A宮本征勝A野津謙A平井富三郎A藤田静夫A今村次吉A川本泰三A杉山隆一Aデットマール・クラマーA八重樫茂生A村形繁明A岡野俊一郎A平木隆三A長沼健A釜本邦茂A川淵三郎

日本サッカー殿堂第1回表彰式。前列左から釜本邦茂、八重樫茂生、長沼健、村形繁明、デットマール・クラマー、岡野俊一郎、平木隆三、杉山隆一の各受賞者。後列左端、川淵三郎JFAキャプテン

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