日本サッカー人物史
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高橋龍太郎 [Ryutaro TAKAHASHI]
日本サッカー殿堂
第3代会長(在任期間:1947〜1954年)
1875年7月15日、愛媛県生まれ
第三高等学校(現・京都大学)卒業
大日本麦酒株式会社社長、日本商工会議所会頭、全国遺族会会長、日独協会会長
貴族院勅撰議員、参議院議員、通商産業大臣を歴任
戦死した令息が旧制松山高等学校から京都帝国大学時代にサッカーに心酔。サッカーにより培われた人格で、周囲から尊敬され、立派な最後を遂げたことから、サッカーのためならと、会長を引き受けた
戦後の非常に困難な時代の会長をつとめ、再建に尽力。また、全日本選手権大会の“天皇杯”を1948年に拝受。これは、戦後各競技団体に下賜された天皇杯のなかで最初のものである
また、1898〜1904年ドイツ留学、戦後は日独協会会長を務めるなど、ドイツとの関係も深かった
プロ野球チーム高橋ユニオンズのオーナーも務める
1958年 ドイツ連邦共和国勲功章、1963年 藍綬褒章、1964年 勲二等旭日重光章、1967年 銀杯一組
1967年没
2005年 第1回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
三男彦也を育ててくれたサッカーのために――
JFAの第2代会長の深尾隆太郎さんは1877年生まれ(1948年没)だが、第3代会長の高橋龍太郎(たかはし・りゅうたろう)さんもほぼ同世代の明治8年(1875年)生まれ(1967年没)、深尾さんと同じ四国出身。深尾家は土佐藩の筆頭家老の家柄。高橋家は愛媛県で代々酒造業を営む旧家で、宇和島藩の財政を支えて郷土に遇されたお金持ちでもあった。
龍太郎は松山尋常中学校(現・松山東高校)を経て東京高等商業学校(現・一橋大学)に進んだが、病のため休学して京都の第三高等学校(現・京都大学)で学び、卒業して大阪麦酒(のちの日本麦酒)に入り、ミュンヘンに6年間留学してビール醸造を勉強、帰国して大日本麦酒株式会社の吹田工場長を務め国産麦酒醸造の第一人者となり、1937年に社長に就任する。
JFA会長に就任したのは太平洋戦争終結の2年後だった。
戦前のプロ野球イーグルス、戦後の高橋ユニオンズのオーナーでもあり、趣味が広くスポーツ愛好家でもあったが、蹴球協会(当時はそう呼んでいた)会長を引き受けたのは、戦死した三男・彦也さんのためでもあった。
彦也さんは旧制松山高等学校(現・愛媛大学)、京都大学のサッカー選手であり、FBとしてのしっかりしたプレーと練習熱心、そして仲間や後輩の面倒見の良い人柄で、友人や先輩、後輩から親しまれ、尊敬されていた。
大戦中に海軍予備士官となり、海防艦の勤務に励み、戦争が終わってからのサイパン島海域での機雷除去の掃海作業中に乗艦が機雷に触れて爆発し、戦死した。
人の嫌がる危険な作業に(戦争が終わっているのに)進んで参加したところがヒコさんらしいとサッカー仲間は思っている。
そういうヒコさんを育ててくれたサッカーのために何か力になればというのが、会長就任の動機だった。
財界の大物で、スポーツ界の名士でもあった高橋さんの会長としての最初の仕事は、1947年4月3日の東西対抗に昭和天皇と皇太子殿下をお迎えする天覧試合だった。この天覧試合がのちに天皇杯のご下賜となり、今の天皇杯となる。
主要都市が空襲で焼け野原となっていたこの時期でのスポーツ復興は多くの苦労を伴ったが、高橋会長の下での7年間で日本サッカーは国際舞台への復帰を果たし、スウェーデンや西ドイツなどからチームを招いては技術を学び、また、ドルトムントの国際学生週間に選手団を送るなど、次代への足場を固めた。
プロフィール
- 1875年(明治8年) 7月15日、愛媛県喜多郡内子村(現・内子町)で高橋吉衡の長男として生まれる
- 1893年(明治26年) 愛媛県尋常中学校(現・松山東高校)卒業。東京高等商業学校(現・一橋大)に進んだが、病のため休学
- 1894年(明治27年) 第三高等学校(現・京都大学)に入学
- 1898年(明治31年) 同校機械工学科卒業
7月、大阪麦酒に入社
11月、ドイツ留学、ビール醸造を学ぶ - 1904年(明治37年) 3月、ドイツから帰国し、発足した大日本麦酒吹田工場長に就任
- 1917年(大正6年) 同大阪支店長
- 1924年(大正13年) 同常務取締役
- 1933年(昭和8年) 同専務取締役
- 1937年(昭和12年) 同社長
- 1946年(昭和21年) 1月、貴族院勅撰議員に
12月、東京商工会議所会頭 - 1947年(昭和22年) 1月、日本商工会議所会頭
4月、大日本蹴球協会会長。参議院議員全国区当選(6年、緑風会) - 1949年(昭和24年) 大日本麦酒社長を辞任
- 1951年(昭和26年) 7月、第3次吉田内閣、通商産業(現・経済産業省)大臣に就任
- 1952年(昭和27年) 10月、同大臣を離任
- 1954年(昭和29年) 大日本蹴球協会会長を辞任
- 1957年(昭和32年) ドイツ連邦共和国より勲功章を受ける
- 1964年(昭和39年) 勲二等旭日重光章を受章
- 1967年(昭和42年) 12月22日、永眠(92歳)
- 2005年(平成17年) 第1回日本サッカー殿堂入り
フォトライブラリ
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昭和16年3月、京都大学蹴球部の送別会。後列左から2人目が高橋龍太郎・第3代会長のご子息・彦也氏
第1回アジア競技大会(1951年)日本対イラン、試合開始前の記念撮影(賀川太郎アルバムより)
第1回アジア大会雑景:ガンジーの墓を詣でる日本代表選手(岩谷俊夫アルバムより)
第1回アジア競技大会(1951年)出国前の結団式。三笠宮より秩父宮賜旗を受ける浅野団長(2月21日、体協)(岩谷俊夫アルバムより)
高橋龍太郎氏ご親族。掲額プレートとともに (C) J. LEAGUE PHOTOS
日本サッカー殿堂第1回表彰式。前列左から釜本邦茂、八重樫茂生、長沼健、村形繁明、デットマール・クラマー、岡野俊一郎、平木隆三、杉山隆一の各受賞者。後列左端、川淵三郎JFAキャプテン
高橋龍太郎さん
1947年、明治神宮競技場(現・国立)での東西対抗は天覧試合。昭和天皇(左)と皇太子(今上天皇)のご説明役を務める田辺五兵衛さん(左端)。立っているのが高橋龍太郎会長、皇太子の右は乗富丈夫関東協会理事長
1947年4月3日、天覧試合として行なわれた東西対抗。試合後、両軍選手を激励される昭和天皇と皇太子殿下。昭和天皇の右が高橋龍太郎JFA会長
明治神宮競技場で開催された昭和21年度東西対抗のパンフレット(左・表紙、右・裏表紙)
1951年、第1回アジア競技大会の日本代表選手。前列左端から竹腰重丸JFA理事、田辺五兵衛副会長、高橋龍太郎会長、範多竜平団長、野津謙理事、一人おいて小野卓爾理事。選手、左から則武謙、岡田吉夫、岩谷俊夫、堀口英雄、松永碩、有馬洪、賀川太郎、加藤信幸、加納孝、二宮洋一(監督・主将)鴇田正憲、宮田孝治、田村恵、杉本茂雄、津田幸男