日本サッカー人物史
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釜本邦茂 [Kunishige KAMAMOTO]
日本サッカー殿堂
1944年4月15日、京都府生まれ
府立山城高校、早稲田大学を経て、ヤンマー入り
早稲田大学時代は、4年連続関東大学リーグの得点王。JSL(ヤンマー)では、251試合出場、202得点を記録。1968年敢闘賞受賞。得点王7回、アシスト王3回、年間優秀11人賞14回、年間最優秀選手賞7回受賞。様々な前人未到の成績を残す
日本ユース代表として、第4回、第5回アジアユース選手権大会に出場
日本代表として、第18回オリンピック競技大会(1964/東京)、同第19回大会(1968/メキシコシティ/3位)に出場し、メキシコ大会では7得点を挙げ、得点王に輝く。また、第5回アジア競技大会(1966/バンコク/3位)同第6回大会(1970/バンコク/4位)、同第7回大会(1974/テヘラン)にも出場。Aマッチ出場76試合、75得点
1978年、ヤンマーの監督就任。1984年の現役引退まで選手兼監督を続ける。その間、JSL1部リーグ優勝1回、JSLカップ優勝2回を成し遂げる
1991年、Jリーグ入りする松下電器(ガンバ大阪)の監督に就任し、1995年退任
1998年、日本サッカー協会副会長就任
2002年FIFAワールドカップ日本組織委員会理事、2002年強化推進本部長を務め、大会の成功と日本代表の強化に尽力する
1995年、参議院議員選挙初当選。2000年、第二次森内閣において労働総括政務次官を務める
2005年 第1回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
20世紀の生んだ最高傑作
20世紀の日本サッカーの生んだ最高のストライカーで、世界的に最も名を知られたプレーヤー。1968年メキシコ・オリンピックの日本代表FWとして7ゴール(6試合)して、大会の得点王となるとともに日本チームの3位、銅メダル獲得に貢献した。
1964年から1977年まで14年間の日本代表キャリアで記録したAマッチ75ゴール(76試合)は、いまなお歴代1位。国内試合では日本サッカーリーグ(JSL)17シーズン(1967−83)でヤンマーディーゼルの選手として202得点(251試合)また天皇杯でも64〜84年(早大、ヤンマー)の間に通算60得点(59試合)などの記録を残し、日本リーグ優勝4回、天皇杯優勝7回の栄冠を手にした。
アマチュアではあったが、パルメイラス(ブラジル)アーセナル(イングランド)ボルシア・メンヘングラッドバッハ(西ドイツ/当時)ベンフィカ・リスボン(ポルトガル)といったトップクラスのプロとの試合でもゴールを奪い、また、交流試合を通じてペレ、フランツ・ベッケンバウアー、ヨハン・クライフ、ヴォルフガング・オベラーツといったスーパースターたちからも高い評価を受けた。
プレーヤーとして晩年の36歳のとき、80年ユニセフ・チャリティマッチ(バルセロナFC創立80周年記念)の世界選抜チームに招かれて出場したこと、また、84年8月に東京で行なわれた釜本邦茂の引退試合にペレとオベラーツの2人の大スターが参加して花を添えたことは、海外で彼が認められていた証(あかし)といえる。
“メキシコ”の翌年に肝炎で病床につく期間があり、このためオリンピック銅メダルチームをワールドカップの舞台へ送り込もうというJFAとデットマール・クラマーの望みは絶たれた。回復した彼は、70年から代表チームに復帰したが、一握りの“メキシコ世代”の勢いが陰りを見せ、次代の育成の遅れた日本サッカーは停滞の時期に入った。
その70年代にあっても、釜本のゴールへの意欲や負けず嫌いは衰えることなく、ゴールを奪う技術はなお磨きがかかり、釜本ゴールは日本中のファンの楽しみだった。
1977年、私は『ストライカーの技術と戦術・釜本邦茂』を講談社から出版した。ちょうど日本代表を引退した年だったが、JSLではまだ現役プレーヤーとして活躍中だった。
まだビデオの普及していなかった頃で、私は彼のプレーのフォームを残したいと考え、1秒間25コマのモータードライブカメラによる連続写真を数多く使用し、彼の一人称の技術解説を掲載した。
このとき私は、2人のカメラマンが1年間の全試合を撮影した連続写真のネガを検討しながら、この選手のシュートのボールへのアプローチ、踏み込み、インパクトそしてフォロースルーがいつも変わらぬ形であること、また、ヘディングの、まずクロスパスの出し手のキックの瞬間を見る構えや、ボール落下点を見極め、踏み切り、ジャンプして空中でボールをとらえる――その手順や姿勢が常に安定していて、しかも美しいことに改めて感嘆したものだ。
日本人には珍しい立派な体で、シュートやヘディングに自らのしっかりした型を身につけ、それをチームの中で生かすことを知っていた釜本だが、自分で一番自信を持っていたのはシュートすること、蹴ることだった。バルセロナでの世界選抜チームで、ヨハン・クライフやミッシェル・プラティニ、ベルント・シュスターなどとともにプレーしたが、「彼らを見て、やはり世界のトップクラスの選手たちはうまいなぁと思った。しかし、彼らと比べても、自分のキックやシュートは引けをとらないぞと思っていた」という。
釜本邦茂以降、日本には彼をこえる長身ストライカーはまだ出ていない。そのことから、彼を日本サッカー界の突然変異のように思う人もいるが、日本サッカーの技術史を探り、1930年の極東大会代表の小柄なCF手島志郎から1936年ベルリン・オリンピック逆転劇のヒーローの一人、川本泰三(CF)、1951年第1回アジア大会のCF二宮洋一と続くストライカーの系譜を見れば、釜本邦茂は疑いもなく、その歴史の流れの中で日本サッカーの総力結集によって育ったプレーヤーだったといえる。
プロフィール
- 1944年4月15日、京都市に生まれる
- 1951年4月、京都・太秦小学校入学、4年生からサッカーに親しむ
- 1957年4月、京都・蜂ヶ岡中学入学
- 1960年4月、京都・山城高校入学。10月、熊本国体で山城高校が優勝
- 1962年1月、高校選手権準優勝。4月、ユース代表で初の海外遠征
- 1963年4月、早稲田大学商学部入学。4月、ユース代表で2度目の海外遠征
11月、関東大学リーグで早大が優勝、釜本は得点王(11点)。以来4年連続得点王 - 1964年1月、第43回天皇杯で早大が優勝。3月、日本代表チームの東南アジア遠征に参加
10月、東京オリンピックに出場、アルゼンチンを破りベスト8に - 1966年12月、第5回アジア大会(バンコク)に出場、3位
- 1967年3月、66年度最優秀選手に選ばれる
4月、ヤンマーディーゼルに入社、日本リーグに初登場
9月、メキシコ・オリンピックのアジア予選に出場、日本が代表に - 1968年1月、西ドイツに留学
10月、メキシコ・オリンピックで日本は銅メダル、釜本は7得点で得点王に輝く - 1969年1月、天皇杯でヤンマーが初優勝
3月、2度目の年間最優秀選手に
6月、ウィルス性肝炎で入院。ワールドカップ予選を欠場、日本リーグには途中から復帰 - 1970年11月、日本リーグで68年に次いで2度目の得点王
12月、第6回アジア大会では日本は4位(釜本は3得点) - 1971年9月、ミュンヘン・オリンピック予選で日本は敗退
11月、日本サッカーリーグでヤンマーが初優勝 - 1972年3月、71年度最優秀選手に(3度目)
7月、マレーシアでのムルデカ大会で得点王(15得点)。 - 1973年西ドイツ・ワールドカップ予選で敗退
- 1974年6月、欧州遠征、ワールドカップ見学
9月、第7回アジア大会1次リーグで敗退
12月、日本リーグでヤンマーが優勝(2度目)、釜本は4度目の得点王 - 1975年1月、天皇杯でヤンマー優勝(3度目)
3月、4度目の年間最優秀選手
12月、日本リーグで3度目の優勝、釜本は5度目の得点王 - 1976年3月、モントリオール・オリンピック予選で日本敗退
3月、5度目の年間最優秀選手
6月、タイのクイーンズ・カップでヤンマーが優勝 - 1977年3月、ワールドカップ予選で日本敗退
6月、日韓定期戦で日本代表を引退
9月、ペレの引退試合で釜本も引退セレモニー - 1978年2月、ヤンマーのプレーイング・マネジャーとなる
- 1979年9月、日本リーグで200試合出場
- 1980年10月、監督就任3年目、自らプレーもして優勝
12月、ユニセフ・チャリティー・マッチに出場(バルセロナ) - 1981年3月、6度目の年間最優秀選手に
11月、対本田戦でリーグ通算200ゴール達成 - 1982年5月、対日立戦で202ゴールを達成
5月、対マツダ(東洋工業)でアキレス腱を切断 - 1983年11月3日、1年6ヶ月ぶりで日本サッカーリーグ出場
- 1984年1月、天皇杯決勝で現役最後のプレー
2月13日、現役引退を発表
8月25日、国立競技場で引退試合。ペレ、オベラーツも友情出場 - 1985年2月、ヤンマー監督を辞任
- 1991年7月、Jリーグ入りする松下電器(ガンバ大阪)の監督に就任
- 1995年1月、ガンバ大阪監督を辞任
7月、参議院議員当選 - 1998年7月、日本サッカー協会副会長に就任
- 1999年7月、2002年強化推進本部長に就任
- 2000年7月、労働総括政務次官に就任(12月6日、退任)
- 2005年5月27日 第1回日本サッカー殿堂入り
釜本のチームタイトル ●ヤンマー 日本リーグ優勝 4回(1971、74、75、80年) 天皇杯優勝 3回(68、70、74年度) 同準優勝 5回(71、72、76、77、83年度) タイ・クイーンズカップ 優勝(76年) 日韓リーグ1位対抗優勝 2回(76、81年) ●早大 関東大学リーグ優勝 3回(63、65、66年) 大学王座優勝 2回(63、65年) 大学選手権優勝 1回(66年) 天皇杯優勝 2回(64、67年) ●日本代表 64年東京オリンピック・ベスト8 68年メキシコ・オリンピック3位 アジア大会 66年バンコク大会3位 70年バンコク大会4位 ムルデカ大会 2位1回(76年) 3位1回(72年) 4位1回(75年) 記録男のナンバー1 日本代表最多得点(Aマッチ) 75試合72得点 日本代表最多得点(親善試合、対クラブ試合を含む) 241試合168得点 メキシコ・オリンピック(1968年)最多得点 6試合7得点 ムルデカ大会(1972年)最多得点 6試合7得点 日本サッカーリーグ(1967〜1974年)最多得点 251試合202得点 日本サッカーリーグ最多アシスト 251試合79アシスト 日本サッカーリーグ・東西対抗最多得点 西軍13試合21得点 日本サッカーリーグ最多得点王 7回 日本サッカーリーグ最多アシスト王 3回 関東大学リーグ得点王 連続4回
関連項目
- 第1回 釜本邦茂(1)足のシュートもヘディングシュートもボールを注視した
- 回想ヨーロッパ選手権(1)
- 第2回 釜本邦茂(2)抜群のヘディングパスと最も美しいキックフォーム
- 最も単純で原始的なフットボールを踏襲するサッカー
- 回想ヨーロッパ選手権(2)
- 私の記憶に残る4人のストライカーの個性
- 第3回 釜本邦茂(3)ボールを叩く力を基礎に着実に力を蓄えた大学時代
- 右45度からの得点
- 利き足から左足へ
- 第5回 釜本邦茂(5)相手の脅威となった右足の振りの速さが左の進歩と成功を生む
- ヘディングシュート
- 第6回 川本泰三(1)シュートの名人は消える
- 胸で止めてのシュート
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(上)
- 第7回 川本泰三(2)ボール扱いが始めで、ボール扱いがすべて
- ポストプレー
- ドリブルからの突破
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(中)
- 第9回 セルジオ越後(1)ボールテクニックの指導に新機軸
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(下)
- “消える”ということ
- 第10回 セルジオ越後(2)リベリーノと競ったブラジルの技術の高さをJSLで披露
- ゴールへの位置取り
- ロングシュート
- プラティニのヘッド
- デットマール・クラマー(中)
- デットマール・クラマー(下)
- ゴールのための常識
- 二人の先輩に思う日本のストライカー
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(下)
- 第19回 杉山隆一(1)メキシコ五輪銅メダルのパスの名手は突進とひらめきのゴールゲッター
- 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(上)
- 第21回 杉山隆一(3)メキシコへの道を開くゴールを決め、メキシコ銅メダルのゴールへのパスを送る
- 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(中)
- 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(下)
- 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(続)
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- 世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー杉山隆一(下)
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- 日本が生んだ国際クラスのゲームメーカー 八重樫茂生(下)
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- ローマ、東京、メキシコ(10)
- ローマ、東京、メキシコ(14)
- ローマ、東京、メキシコ(15)
- ローマ、東京、メキシコ(16)
- ローマ、東京、メキシコ(17)
- メキシコの余韻の中で(1)
- メキシコの余韻の中で(2)
- 世界の“常識”を求めて(4)
- 稲本潤一のゴールの余韻
- フランス―ウルグアイ、難しく、感動的な試合
- 自宅から1時間のワールドカップ 長居スタジアムとの40年
- トルコ戦前夜の思い
- ワールドカップ1周年〜番外編〜
- U−22韓国代表と長身FW、長身DF(番外編)
- 圧倒的な空中戦、ドイツ―米国
- ネルソン吉村を想う
- スペイン代表 ワールドカップでの不運
- 謙虚で剛直な明治人 釜本正作さんを思う
- 東上の車中に思う デアバルの不運とトルコの好運
- 還暦を迎えた、釜本邦茂 60歳で青少年育成へ
- 決勝ゴールになったロナウドのトーキック
- 世界の“常識”を求めて(7)
- 世界の“常識”を求めて(8)
- 世界の“常識”を求めて(9)
- 世界の“常識”を求めて(10)
- 世界の“常識”を求めて(12)
- 世界の“常識”を求めて(15)
- 世界の“常識”を求めて(24)
- 世界の“常識”を求めて(27)
- この目で見たい関西人のゴール
- 歴史が息づく2会場
- 大久保嘉人「原点に帰れ」
- 神戸→ミュンヘン:色々とあったが、とうとうミュンヘンへやってきた。81歳の旅が始まる
- ニュルンベルク→シュツットガルト:新機軸のボールでのベッカムのFKに思う。この世界で戦うために日本は
- ミュンヘン→ライト・イン・ビンクル:「ジーコは間違っていない」クラマーは説く
- マリオ・ケンペス(3)2次リーグから大きな動きで特色発揮、78年W杯優勝と得点王を手に
- マリオ・ケンペス(6)飾らぬ口調で語る本音の中に潜むストライカーの本能
- 【番外編】アジアカップ2007より せっかくの“走る”を生かすためには…
- ゲルト・ミュラー(5)1970年メキシコW杯、ゴールラッシュで得点王へ邁進
- ゲルト・ミュラー(7)聖地ウェンブリーでイングランドを屈服させ、“ゴール力”を伸ばしたEURO72
- マルコ・ファンバステン(1)88年欧州選手権得点王となった現代に続く大型FWの先駆け
- マルコ・ファンバステン(3)フリット、ライカールトとともに“オランダトリオ”としてミランの中核を担う
- ロナウド(8)強敵トルコを破り、決勝へと導いた“トウキック”の一撃
- エウゼビオ(1)C.ロナウドの活躍から思う、ポルトガルの“ブラックパンサー”
- エウゼビオ(7)0−3からの逆転劇を演じ66年大会の得点王となり釜本邦茂にも影響を与えた
- エウゼビオ(8)68年メキシコ五輪の得点王釜本が抑えの利いたシュートを学んだ
- エウゼビオ(9)多才な芸の中でひときわ目立った抑えの利いたシュート
- エウゼビオ【番外編】「ペレでも、キングでもない。私はエウゼビオ」
- 【番外編】日本代表FW クロスの精度を高め、ニアにもファーにもシュートするFW。ポジションプレーの力を上げよう
- 【番外編】日本のストライカー 日本は、わずかな競技人口の時代にも良いストライカーを生み出してきた
- ユルゲン・クリンスマン(1)96年W杯、96年EUROと2つのビッグタイトルを手にしたドイツ代表の国際派ストライカー
- ユルゲン・クリンスマン(8)インテルからモナコへ。新天地を求めつつ94年W杯を目指す
- ユルゲン・クリンスマン(13)両足のシュート、ヘディングのうまさ、体の強さ、チームの芯になるストライカー
- 釜本邦茂(1)W杯の実績はなくとも世界から高い評価を受けたメキシコ得点王
- 釜本邦茂(2)高1、16歳の、ヒョロリとして、何とも言えぬ魅力を秘めていた日本代表の得点記録ナンバーワン
- 釜本邦茂(3)17歳、高2でデットマール・クラマーと衝撃の出会い“北海道のクマのままじゃない”
- 釜本邦茂(4)早大1年から大学リーグ得点王。長期合宿で鍛えて、20歳でオリンピック代表CFに
- 【番外編】森島寛晃 守から攻への鋭さと、展開の大きさを小さな体で表した稀有なセカンドストライカー
- 釜本邦茂(5)東京からメキシコへ。代表でもまれ、大学リーグで実証。62年大会得点王も推奨した伸び盛りの時期
- 釜本邦茂(6)超過酷、アジア大会で3位。大学最後の天皇杯勝者となった22歳
- 釜本邦茂(7)弱者を強者への決意でJSL最下位ヤンマーへ。67年開幕戦デビューで2得点
- 釜本邦茂(8)JSLヤンマーを最下位から5位へ、メキシコ・オリンピック予選突破。上昇続く23歳
- 人の話を聞き、人を働かせ、自らも労をいとわぬ気配りの名手。日本サッカーの大功労者、長沼健さんを偲んで
- 釜本邦茂(9)68年1月13日、西ドイツへ単身留学。“ジョージ・ベストに匹敵”と2ヶ月後、豪州から届く称賛
- 釜本邦茂(10)自らストライカーであったデアバルコーチとのマンツーマン。休養とサッカー漬けの2ヶ月で脱皮
- 釜本邦茂(11)名門アーセナルのお株を奪う「アーセナル・ゴール」。メキシコ五輪へ着々と
- 【番外編】平木隆三さんを偲ぶ 東京、メキシコの栄光を支え、コーチ育成組織をつくり、天皇杯を改革し、発展の基礎を築いた
- 【番外編】大迫勇也とメキシコ得点王 しなやかで強い体と抜群のシュート力を成長期に懸命に、順調に伸ばした
- 釜本邦茂(12)オデッサでの35mシュート、ボルシア・MGからもゴール。進歩の証を重ねてメキシコへ
- 釜本邦茂(13)メキシコ五輪B組第1戦、ナイジェリアを相手にハットトリック
- 釜本邦茂(14)メキシコ五輪B組、対ブラジル。ヘディングパスで渡辺正の同点ゴールを生み出す
- 釜本邦茂(15)メキシコ五輪第3戦「点を入れたらアカン」シュートを外して○印のサイン
- 釜本邦茂(16)メキシコ五輪で突破シュートと胸でトラップからのシュート。フランスを破ってベスト4へ
- 釜本邦茂(17)68年オリンピック3位決定戦、開催国メキシコ相手に2ゴール
- 釜本邦茂(18)メキシコ五輪3位決定戦。試合後にベッドへ倒れ込んで動かず、死力を尽くしたイレブンにクラマーも感動
- 釜本邦茂(19)メキシコ銅メダルでJSLは観客増となり、ファンは満足と幸福感に酔う
- 釜本邦茂(20)病で消えたW杯のユメ。それでも衰えぬゴールへの意欲で円熟へ向かう
- 釜本邦茂(21)肝炎から立ち直った第2黄金期。国内外で演じたビューティフル・ゴール
- 釜本邦茂(22)36歳、監督兼任ストライカーで優勝。クライフ、プラティニらと世界選抜チームに
- 釜本邦茂(23)1981年11月1日、JSL200ゴール達成。82年アキレス腱損傷。だが故障に負けての引退はしない
- 釜本邦茂(24)ペレとオベラートの友情参加。満員の国立競技場、引退試合でも先制ゴール
- 釜本邦茂(25)ガンバ初代監督、国会議員、JFA副会長。夢はストライカー育成に
- デニス・ベルカンプ(1)60年代のデニス・ローの名にあやかりビューティフルゴールを量産した“静かな男”
- 【番外編】岡崎慎司 最終予選6月シリーズから、粘っこさと長走と修羅場への取り組み。岡崎慎司と2つのゴール
- 【番外編】日本代表親善試合スコットランド戦
- ラウル・ゴンサレス(12)銀河系とともに「欧州制覇」は挫折。でもリーガではタイトル奪回、26歳の充実期を迎える
- ラウル・ゴンサレス(13)銀河系レアルに、またまた超人気のベッカム加入。戦力マケレレ去って低迷へ傾く
- 世界のサッカー国を相手に銅メダル獲得。メキシコ五輪の地味なヒーロー 鎌田光夫(上)
- 「坂の上の雲」の時代を身近に感じる85歳と語り合う歴史物語
- パラグアイ0−0(PK5−3)日本 日本サッカー史の中に新しい彩りを加えた岡田武史監督の強運とそれをつかむ努力
- 90年の歴史の中でのアルゼンチン戦初勝利と韓国との0−0
- 小兵のストライカー、手島をはじめFWは東大の5人が並ぶ
- 【番外編】FIFAクラブW杯決勝 2つのヘディングゴールとメッシの胸ゴールに思う
- ウェイン・ルーニー(2)横浜で見せた3得点と、守備力、パスの巧みさと協調力
- ウェイン・ルーニー(6)04−05シーズン、マンチェスター・Uへ移籍。チャンピオンズリーグ初戦でハットトリック
- ウェイン・ルーニー(12)初舞台のハットトリックから6年、2度目のチャンピオンズリーグ制覇へ
- 東京五輪直前に19歳で抜擢。1対1の強さに“すっぽん”といわれたDF 山口芳忠(上)
- 密着マークでベスト4と銅メダルの栄光を生み、王様ペレに食いついてその本領を引き出した“すっぽん” 山口芳忠(中)
- メキシコ五輪銅メダルチームを支えた右フルバック 片山洋(上)
- メキシコ五輪で1対1の粘り強さで各国チャンスメーカーを封じた右DF 片山洋(下)
- 古希を前に、なお現場に立つメキシコ五輪銅メダリスト 松本育夫(上)
- 日本的組織プレーとストライカー 30年と36年の成功の理由
- 60年前、来日スウェーデンチームが もたらした驚き、世界潮流
- 力強さから技巧へ変化した スウェーデンに衝撃を受ける
- 大統領の檄を背に韓国代表が大勝 57年前の日韓初戦悪条件下の決行に
- 【番外編】近づくワールドカップ本番。走ることも、パス攻撃も、点を取ること、防ぐことが第一 〜85歳サッカー人のはるか昔の素人経験から〜
- 国際試合60試合で審判を務め、中央大学のコーチ、監督を半世紀。傘寿のいまも試合に足を運ぶ 丸山義行(下)
- 東京オリンピック5、6位決定 大阪トーナメントをバックアップした 第6代FIFA会長 サー・スタンレー・ラウス(中)
- ベルリンの奇跡の日本代表 闘志あふれるDFで理論派監督 堀江忠男(上)
- 先人を師と称える日本サッカー殿堂入り 奥寺康彦
- 1970年〜80年日本サッカーの指導に革命 近江達
- メキシコ・オリンピックでPKを防ぎ 銅メダルを守ったGK 横山 謙三(上)
- コースを読み、タオルで誘って 45年前の銅メダルPK 横山 謙三(下)
- “東京”の選考はもれたが アマの東洋工、プロのサンフレッチェを日本一に 小沢 通宏(下)
- 世界と日本に大きな影響を与えた 稀有なフットボーラー ペレ(上)
- やわらかなタッチでボールを浮かせ、DFをかわしてシュート ペレの技術はいまの日本にも ペレ(中)
- マインツ・岡崎慎司の成長と 46年前の五輪銅メダリストの“ひたむき”ゴール 渡辺 正(上)
- 1956年天皇杯でキラリと光ったスピード “東京”の後も続く“代表”への情熱 渡辺 正(中)
- アーセナルでゴールを決めた釜本とともに 銅メダル獲得の攻撃の先頭に立ったFW 渡辺 正(下)
- FIFA会長賞異聞 多くの取材、質問で知らされた 自分の現場のありがたさ、先輩や仲間の威力
- 修道高校を全国優勝、東洋工業で日本リーグ5回優勝 “東京”後のサッカーをリードした監督 下村幸男(下)
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- 日本中がペレに酔った(上)
- 日本中がペレに酔った(中) 44年前の5月26日 2点目に見た「王様の神髄」
- 日本中がペレに酔った(下) 1984.8.25 釜本を抱き上げ肩車 引退試合で“本領”
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1970年に日本に帰化したネルソン吉村(左)は、代表チームでも釜本(右)とプレーした

第5回アジアユース大会、日本代表のメンバー表(表紙)

第5回アジアユース大会、日本代表のメンバー表(選手紹介ページ)

1973年「日独交歓サッカー」日本代表対1.FCケルン(6〜7月国立、長居)のマッチデープログラム表紙

1973年「日独交歓サッカー」日本代表対1.FCケルン(6〜7月国立、長居)のマッチデープログラム(選手紹介ページ)

「朝日国際サッカー」日本対1.FCケルンの公式プログラム(1977年)

「朝日国際サッカー」日本対1.FCケルン(1977年)の日本代表メンバー。公式プログラムより

1964年10月、東京オリンピックのとき、選手村で。 写真提供:鎌田光夫氏

ミュンヘン・オリンピック予選を戦った日本代表(1971年9月、ソウル) (C)フォート・キシモト ※『サッカー日本代表 世界への挑戦』(新紀元社)より

1967年12月2日、CSKAモスクワ2-2日本代表(国立競技場)。中央、ボールを持っているのは丸山義行レフェリー 写真提供:丸山義行氏

1967年12月2日、国立競技場で行なわれたCSKAモスクワ対日本代表(2-2)は日本人の丸山義行氏が主審を務めた 写真提供:丸山義行氏

「日英交歓サッカー」アーセナル対日本(1968年5月、国立他)の日本代表メンバー。公式プログラムより

「日英交歓サッカー」アーセナル対日本(1968年5月、国立他)の公式プログラム表紙

1981年6月、アシックス招待サッカー(ヤンマー1−2エクセルシオール)のとき、釜本邦茂(右)とビム・ファンハネヘン(左)

1984年8月25日、国立競技場で行なわれた釜本邦茂引退試合では、ペレ(左)とオベラーツが釜本を肩車して歩いた

「ストライカーの美学 釜本邦茂写真集」の表紙(1985年 東方出版発行、監修:賀川浩)

1994年11月、セレッソ大阪のJリーグ昇格を祝うパーティで。左から2人目、ネルソン吉村氏。1人おいて釜本邦茂氏

2002年、ヤンマーサッカー部OB会が発行した「ヤンマーサッカー部の歴史」の表紙(監修:賀川浩)

殿堂掲額プレートとともに (C)J.LEAGUE PHOTOS

レプリカを受ける釜本邦茂氏。左は川淵三郎キャプテン (C)J.LEAGUE PHOTOS

日本サッカー殿堂第1回表彰式。前列左から釜本邦茂、八重樫茂生、長沼健、村形繁明、デットマール・クラマー、岡野俊一郎、平木隆三、杉山隆一の各受賞者。後列左端、川淵三郎JFAキャプテン

ウォーミングアップの練習。東京オリンピックを控えて熱がこもる。上半身裸になった釜本(左端)を中心に練習をするヤンマー・チーム

1963年、東京オリンピック選手村でボードを前に戦術指導。左端・長沼監督、その右・クラマー

1963年夏、デュイスブルクで。後列左から竹腰重丸団長、宮本征勝、小沢通宏、一人おいて横山謙三、デットマール・クラマー、鎌田光夫、長沼健、保坂司、鈴木良三、外国人選手をはさんで川淵三郎、釜本邦茂、片山洋、小城得達。前列左から岡野俊一郎コーチ、一人おいて上久雄、山口芳忠、宮本輝紀、杉山隆一、富沢清司、継谷昌三、八重樫茂生、渡辺正

1964年10月16日(駒沢)東京五輪グループB第2戦のガーナ戦、日本ゴール前での攻防。白のユニフォーム、手前から片山洋(背番号2)、上久雄、山口芳忠、鎌田光夫、鈴木良三。背番号21はGK横山謙三

韓国の金(左)丁(右)の二人のDFの間を突破する釜本

メキシコ五輪予選(日本3−3韓国)。韓国の守りをドリブルで突破した釜本が強烈なシュートをニアポストへ決め、日本は3−2とリード

引退試合でゴールを決めガッツポーズをする釜本

1967年10月10日、メキシコ五輪・アジア地区予選の最終戦で南ベトナムを破って優勝。試合後、日の丸を掲げて場内を一周してスタンドの歓声を浴びる日本代表

釜本邦茂の、ニアサイドへ飛び込んでのヘディングシュート。日本代表対アーセナル(イングランド)の同点ゴール。1968年5月23日(東京・国立競技場)

1968年メキシコ五輪、表彰式で銅メダルを受け取る日本代表チーム。左から、岡野俊一郎コーチ、GK浜崎昌弘 、松本育夫、釜本邦茂、桑原楽之、渡辺正、宮本輝紀、湯口栄蔵、小城得達、森孝慈、富沢清司、鈴木良三、鎌田光夫、山口芳忠

1968年メキシコ五輪アジア予選の公式プログラム(表紙)

1968年メキシコ五輪アジア予選の公式プログラム、日本代表メンバーの紹介ページ

突進する釜本邦茂(右端)。1968年 京都招待サッカー(西京極)ヤンマー対広島選抜

1969年元旦(国立)。天皇杯がはじめて元旦決勝となった年、ヤンマーが釜本のゴールで三菱重工を破って(1−0)初優勝した

二人にからまれバランスを崩しても倒れない足腰の強さ。1974年10月24日 JSL 三菱対ヤンマー

決勝ゴールを決め、両手を挙げてガッツポーズ――この年のリーグ開幕から9試合を8勝1分けで前期を折り返す。明るい笑顔は自身とチーム好調を語っていた。1980年5月18日、JSL ヤンマー 1−0 新日鉄

釜本邦茂の右足シュート。蹴り足のフォロースルー、手の振り、腰の移動、40歳の引退試合でも彼のシュートのフォームの美しさは全盛期のままだった。1984年8月25日、ヤンマー対リーグ選抜(国立)

バルセロナFC創立記念。ユニセフチャリティマッチ、世界選抜チーム出場記念の盾

右から長谷川がグラウンダーで送ってきた速いパスを、ディフェンダーの後方からすり抜け、右足のサイドでダイレクトシュート。決勝ゴールを決めリーグ通算186点目を記録した

1981年11月1日、対本田戦で200ゴールを達成した釜本邦茂

200ゴールを達成した釜本に試合後、「GOAL200」の記念ボールが贈られた

釜本邦茂、右足シュートのフォーム。1981年11月1日(神戸・御崎)

釜本のヘディングパスは、正確無比――片山(右から二人目)をはじめ三菱の守備陣は、いつも神経を使わされた。1970年4月5日、日本リーグ ヤンマー 0−0 三菱

釜本邦茂のジャンプヘディング。1970年4月5日、三菱対ヤンマー(国立)。左奥は三菱の森孝慈

釜本邦茂、ゴール!ゴール!! 優勝をかけた対三菱戦で、右45度のシュートで4点目(4−1)を決めて突き放し、ゴールラインを駆け抜ける釜本。75年12月14日、JSL三菱対ヤンマー

釜本邦茂引退試合(1984年8月25日、国立)ペレ(左)とオベラーツが釜本を肩車

釜本邦茂引退試合(1984年8月25日、国立)。左からオベラーツ、釜本、ペレ

釜本邦茂、引退試合のプログラム

釜本邦茂、引退試合のチケット(1984年8月25日、国立)

釜本氏著「ストライカーの技術と戦術」第5刷の表紙

釜本氏著「ストライカーの技術と戦術」初版本の表紙

「釜本邦茂 ストライカーの技術と戦術」の編集者・風呂中斉氏からの手紙。「釜本の本を出したい」と情熱をこめて企画書を送ってきた

2005年11月14日、「日本におけるドイツ年」神戸シンポジウムの控え室。釜本邦茂(左)佐々木康治とクラマー(中央)。