日本サッカー人物史

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釜本邦茂 [Kunishige KAMAMOTO]

日本サッカー殿堂

2005年第1回掲額

1944年4月15日、京都府生まれ
府立山城高校、早稲田大学を経て、ヤンマー入り
早稲田大学時代は、4年連続関東大学リーグの得点王。JSL(ヤンマー)では、251試合出場、202得点を記録。1968年敢闘賞受賞。得点王7回、アシスト王3回、年間優秀11人賞14回、年間最優秀選手賞7回受賞。様々な前人未到の成績を残す
日本ユース代表として、第4回、第5回アジアユース選手権大会に出場
日本代表として、第18回オリンピック競技大会(1964/東京)、同第19回大会(1968/メキシコシティ/3位)に出場し、メキシコ大会では7得点を挙げ、得点王に輝く。また、第5回アジア競技大会(1966/バンコク/3位)同第6回大会(1970/バンコク/4位)、同第7回大会(1974/テヘラン)にも出場。Aマッチ出場76試合、75得点
1978年、ヤンマーの監督就任。1984年の現役引退まで選手兼監督を続ける。その間、JSL1部リーグ優勝1回、JSLカップ優勝2回を成し遂げる
1991年、Jリーグ入りする松下電器(ガンバ大阪)の監督に就任し、1995年退任
1998年、日本サッカー協会副会長就任
2002年FIFAワールドカップ日本組織委員会理事、2002年強化推進本部長を務め、大会の成功と日本代表の強化に尽力する
1995年、参議院議員選挙初当選。2000年、第二次森内閣において労働総括政務次官を務める
2005年 第1回日本サッカー殿堂入り

イントロダクション

20世紀の生んだ最高傑作

 20世紀の日本サッカーの生んだ最高のストライカーで、世界的に最も名を知られたプレーヤー。1968年メキシコ・オリンピックの日本代表FWとして7ゴール(6試合)して、大会の得点王となるとともに日本チームの3位、銅メダル獲得に貢献した。

 1964年から1977年まで14年間の日本代表キャリアで記録したAマッチ75ゴール(76試合)は、いまなお歴代1位。国内試合では日本サッカーリーグ(JSL)17シーズン(1967−83)でヤンマーディーゼルの選手として202得点(251試合)また天皇杯でも64〜84年(早大、ヤンマー)の間に通算60得点(59試合)などの記録を残し、日本リーグ優勝4回、天皇杯優勝7回の栄冠を手にした。

 アマチュアではあったが、パルメイラスブラジルアーセナルイングランド)ボルシア・メンヘングラッドバッハ(西ドイツ/当時)ベンフィカ・リスボン(ポルトガル)といったトップクラスのプロとの試合でもゴールを奪い、また、交流試合を通じてペレフランツ・ベッケンバウアーヨハン・クライフ、ヴォルフガング・オベラーツといったスーパースターたちからも高い評価を受けた。
 プレーヤーとして晩年の36歳のとき、80年ユニセフ・チャリティマッチ(バルセロナFC創立80周年記念)の世界選抜チームに招かれて出場したこと、また、84年8月に東京で行なわれた釜本邦茂の引退試合にペレとオベラーツの2人の大スターが参加して花を添えたことは、海外で彼が認められていた証(あかし)といえる。

“メキシコ”の翌年に肝炎で病床につく期間があり、このためオリンピック銅メダルチームをワールドカップの舞台へ送り込もうというJFAとデットマール・クラマーの望みは絶たれた。回復した彼は、70年から代表チームに復帰したが、一握りの“メキシコ世代”の勢いが陰りを見せ、次代の育成の遅れた日本サッカーは停滞の時期に入った。
 その70年代にあっても、釜本のゴールへの意欲や負けず嫌いは衰えることなく、ゴールを奪う技術はなお磨きがかかり、釜本ゴールは日本中のファンの楽しみだった。

 1977年、私は『ストライカーの技術と戦術・釜本邦茂』を講談社から出版した。ちょうど日本代表を引退した年だったが、JSLではまだ現役プレーヤーとして活躍中だった。
 まだビデオの普及していなかった頃で、私は彼のプレーのフォームを残したいと考え、1秒間25コマのモータードライブカメラによる連続写真を数多く使用し、彼の一人称の技術解説を掲載した。
 このとき私は、2人のカメラマンが1年間の全試合を撮影した連続写真のネガを検討しながら、この選手のシュートのボールへのアプローチ、踏み込み、インパクトそしてフォロースルーがいつも変わらぬ形であること、また、ヘディングの、まずクロスパスの出し手のキックの瞬間を見る構えや、ボール落下点を見極め、踏み切り、ジャンプして空中でボールをとらえる――その手順や姿勢が常に安定していて、しかも美しいことに改めて感嘆したものだ。

 日本人には珍しい立派な体で、シュートやヘディングに自らのしっかりした型を身につけ、それをチームの中で生かすことを知っていた釜本だが、自分で一番自信を持っていたのはシュートすること、蹴ることだった。バルセロナでの世界選抜チームで、ヨハン・クライフやミッシェル・プラティニ、ベルント・シュスターなどとともにプレーしたが、「彼らを見て、やはり世界のトップクラスの選手たちはうまいなぁと思った。しかし、彼らと比べても、自分のキックやシュートは引けをとらないぞと思っていた」という。

 釜本邦茂以降、日本には彼をこえる長身ストライカーはまだ出ていない。そのことから、彼を日本サッカー界の突然変異のように思う人もいるが、日本サッカーの技術史を探り、1930年の極東大会代表の小柄なCF手島志郎から1936年ベルリン・オリンピック逆転劇のヒーローの一人、川本泰三(CF)、1951年第1回アジア大会のCF二宮洋一と続くストライカーの系譜を見れば、釜本邦茂は疑いもなく、その歴史の流れの中で日本サッカーの総力結集によって育ったプレーヤーだったといえる。

プロフィール

  • 1944年4月15日、京都市に生まれる
  • 1951年4月、京都・太秦小学校入学、4年生からサッカーに親しむ
  • 1957年4月、京都・蜂ヶ岡中学入学
  • 1960年4月、京都・山城高校入学。10月、熊本国体で山城高校が優勝
  • 1962年1月、高校選手権準優勝。4月、ユース代表で初の海外遠征
  • 1963年4月、早稲田大学商学部入学。4月、ユース代表で2度目の海外遠征
        11月、関東大学リーグで早大が優勝、釜本は得点王(11点)。以来4年連続得点王
  • 1964年1月、第43回天皇杯で早大が優勝。3月、日本代表チームの東南アジア遠征に参加
        10月、東京オリンピックに出場、アルゼンチンを破りベスト8に
  • 1966年12月、第5回アジア大会(バンコク)に出場、3位
  • 1967年3月、66年度最優秀選手に選ばれる
        4月、ヤンマーディーゼルに入社、日本リーグに初登場
        9月、メキシコ・オリンピックのアジア予選に出場、日本が代表に
  • 1968年1月、西ドイツに留学
        10月、メキシコ・オリンピックで日本は銅メダル、釜本は7得点で得点王に輝く
  • 1969年1月、天皇杯でヤンマーが初優勝
        3月、2度目の年間最優秀選手に
        6月、ウィルス性肝炎で入院。ワールドカップ予選を欠場、日本リーグには途中から復帰
  • 1970年11月、日本リーグで68年に次いで2度目の得点王
        12月、第6回アジア大会では日本は4位(釜本は3得点)
  • 1971年9月、ミュンヘン・オリンピック予選で日本は敗退
        11月、日本サッカーリーグでヤンマーが初優勝
  • 1972年3月、71年度最優秀選手に(3度目)
        7月、マレーシアでのムルデカ大会で得点王(15得点)。
  • 1973年西ドイツ・ワールドカップ予選で敗退
  • 1974年6月、欧州遠征、ワールドカップ見学
        9月、第7回アジア大会1次リーグで敗退
        12月、日本リーグでヤンマーが優勝(2度目)、釜本は4度目の得点王
  • 1975年1月、天皇杯でヤンマー優勝(3度目)
        3月、4度目の年間最優秀選手
        12月、日本リーグで3度目の優勝、釜本は5度目の得点王
  • 1976年3月、モントリオール・オリンピック予選で日本敗退
        3月、5度目の年間最優秀選手
        6月、タイのクイーンズ・カップでヤンマーが優勝
  • 1977年3月、ワールドカップ予選で日本敗退
        6月、日韓定期戦で日本代表を引退
        9月、ペレの引退試合で釜本も引退セレモニー
  • 1978年2月、ヤンマーのプレーイング・マネジャーとなる
  • 1979年9月、日本リーグで200試合出場
  • 1980年10月、監督就任3年目、自らプレーもして優勝
        12月、ユニセフ・チャリティー・マッチに出場(バルセロナ
  • 1981年3月、6度目の年間最優秀選手に
        11月、対本田戦でリーグ通算200ゴール達成
  • 1982年5月、対日立戦で202ゴールを達成
        5月、対マツダ(東洋工業)でアキレス腱を切断
  • 1983年11月3日、1年6ヶ月ぶりで日本サッカーリーグ出場
  • 1984年1月、天皇杯決勝で現役最後のプレー
        2月13日、現役引退を発表
        8月25日、国立競技場で引退試合。ペレ、オベラーツも友情出場
  • 1985年2月、ヤンマー監督を辞任
  • 1991年7月、Jリーグ入りする松下電器(ガンバ大阪)の監督に就任
  • 1995年1月、ガンバ大阪監督を辞任
           7月、参議院議員当選
  • 1998年7月、日本サッカー協会副会長に就任
  • 1999年7月、2002年強化推進本部長に就任
  • 2000年7月、労働総括政務次官に就任(12月6日、退任)
  • 2005年5月27日 第1回日本サッカー殿堂入り
釜本のチームタイトル
●ヤンマー
 日本リーグ優勝 4回(1971、74、75、80年)
 天皇杯優勝 3回(68、70、74年度)
 同準優勝 5回(71、72、76、77、83年度)
 タイ・クイーンズカップ 優勝(76年)
 日韓リーグ1位対抗優勝 2回(76、81年)

●早大
 関東大学リーグ優勝 3回(63、65、66年)
 大学王座優勝 2回(63、65年)
 大学選手権優勝 1回(66年)
 天皇杯優勝 2回(64、67年)

●日本代表
 64年東京オリンピック・ベスト8
 68年メキシコ・オリンピック3位
 アジア大会 66年バンコク大会3位
       70年バンコク大会4位
 ムルデカ大会 2位1回(76年)
       3位1回(72年)
       4位1回(75年)

記録男のナンバー1
 日本代表最多得点(Aマッチ) 75試合72得点
 日本代表最多得点(親善試合、対クラブ試合を含む) 241試合168得点
 メキシコ・オリンピック(1968年)最多得点 6試合7得点
 ムルデカ大会(1972年)最多得点 6試合7得点
 日本サッカーリーグ(1967〜1974年)最多得点 251試合202得点
 日本サッカーリーグ最多アシスト 251試合79アシスト
 日本サッカーリーグ・東西対抗最多得点 西軍13試合21得点
 日本サッカーリーグ最多得点王 7回
 日本サッカーリーグ最多アシスト王 3回
 関東大学リーグ得点王 連続4回

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釜本邦茂Aネルソン吉村大志郎

1970年に日本に帰化したネルソン吉村(左)は、代表チームでも釜本(右)とプレーした

第5回アジアユース大会A岩野次郎A国枝強A桑原勝義A山口芳忠A井沢邦彦A山田弘A辻松男A釜本邦茂A吉川輝夫A小山益雄A大野毅A遠山剛寿A佐藤剛A水野隆A深沢孟郎A池田太郎A鈴木義昭A清水義平A山田茂A瀬木谷弘三A萩原勝利A山県晴治A泉政伸

第5回アジアユース大会、日本代表のメンバー表(表紙)

第5回アジアユース大会A岩野次郎A国枝強A桑原勝義A山口芳忠A井沢邦彦A山田弘A辻松男A釜本邦茂A吉川輝夫A小山益雄A大野毅A遠山剛寿A佐藤剛A水野隆A深沢孟郎A池田太郎A鈴木義昭A清水義平A山田茂A瀬木谷弘三A萩原勝利A山県晴治A泉政伸

第5回アジアユース大会、日本代表のメンバー表(選手紹介ページ)

日独交歓サッカーA長沼健A藤島信雄A松村雄志A釜本邦茂A松永章A藤口光紀A永井良和A小畑穣A日高憲敬A平沢修策Aネルソン吉村大志郎A荒井公三A平木隆三A船本幸路A瀬田竜彦A山口芳忠A小城得達A川上信夫A江野口武士A崎谷誠一A浅見俊雄

1973年「日独交歓サッカー」日本代表対1.FCケルン(6〜7月国立、長居)のマッチデープログラム表紙

日独交歓サッカーA長沼健A藤島信雄A松村雄志A釜本邦茂A松永章A藤口光紀A永井良和A小畑穣A日高憲敬A平沢修策Aネルソン吉村大志郎A荒井公三A平木隆三A船本幸路A瀬田竜彦A山口芳忠A小城得達A川上信夫A江野口武士A崎谷誠一A浅見俊雄

1973年「日独交歓サッカー」日本代表対1.FCケルン(6〜7月国立、長居)のマッチデープログラム(選手紹介ページ)

朝日国際サッカーA清雲栄純A荒井公三A藤島信雄A今井敬三A古前田充A斉藤和夫A石井茂巳A根岸章A横山正文A長沢和明A田口光久A楚輪博A金田喜稔A釜本邦茂A奥寺康彦A永井良和A二宮寛A加藤久A前田秀樹A西野朗A高橋貞洋

「朝日国際サッカー」日本対1.FCケルンの公式プログラム(1977年)

朝日国際サッカーA清雲栄純A荒井公三A藤島信雄A今井敬三A古前田充A斉藤和夫A石井茂巳A根岸章A横山正文A長沢和明A田口光久A楚輪博A金田喜稔A釜本邦茂A奥寺康彦A永井良和A二宮寛A加藤久A前田秀樹A西野朗A高橋貞洋

「朝日国際サッカー」日本対1.FCケルン(1977年)の日本代表メンバー。公式プログラムより

1964年東京オリンピックA長沼健A富沢清司A八重樫茂生A渡辺正A川淵三郎A継谷昌三A宮本輝紀A杉山隆一A釜本邦茂A小城得達A上久雄A岡野俊一郎A平木隆三A横山謙三A保坂司A鎌田光夫A宮本征勝A鈴木良三A片山洋A山口芳忠A森孝慈

1964年10月、東京オリンピックのとき、選手村で。 写真提供:鎌田光夫氏

1972年ミュンヘン・オリンピックアジア東地区予選A岡野俊一郎A藤島信雄A古田篤良A崎谷誠一A宮本輝紀Aネルソン吉村大志郎A上田忠彦A杉山隆一A釜本邦茂A足利道夫A大野毅A小城得達A新井公三A平木隆三A八重樫茂生A大畠襄A横山謙三A船本幸路A山口芳忠A宮本征勝A片山洋A富沢清司A永井良和A森孝慈

ミュンヘン・オリンピック予選を戦った日本代表(1971年9月、ソウル) (C)フォート・キシモト ※『サッカー日本代表 世界への挑戦』(新紀元社)より

三国対抗・朝日国際サッカー大会A丸山義行A長沼健A杉山隆一A釜本邦茂A宮本輝紀A片山洋A八重樫茂生A小城得達A山口芳忠A宮本征勝A鎌田光夫A上久雄A横山謙三A岡野俊一郎A鈴木良三A森孝慈

1967年12月2日、CSKAモスクワ2-2日本代表(国立競技場)。中央、ボールを持っているのは丸山義行レフェリー 写真提供:丸山義行氏

三国対抗・朝日国際サッカー大会A丸山義行A長沼健A杉山隆一A釜本邦茂A宮本輝紀A片山洋A八重樫茂生A小城得達A山口芳忠A宮本征勝A鎌田光夫A上久雄A横山謙三A岡野俊一郎A鈴木良三A森孝慈

1967年12月2日、国立競技場で行なわれたCSKAモスクワ対日本代表(2-2)は日本人の丸山義行氏が主審を務めた 写真提供:丸山義行氏

日英交歓サッカーA長沼健A富沢清司A小城得達A八重樫茂生A渡辺正A宮本輝紀A釜本邦茂A杉山隆一A松本育夫A桑原楽之A川野淳次A上久雄A木村武夫A岡野俊一郎A平木隆三A横山謙三A船本幸路A浜崎昌弘A片山洋A山口芳忠A宮本征勝A鎌田光夫A鈴木良三A森孝慈

「日英交歓サッカー」アーセナル対日本(1968年5月、国立他)の日本代表メンバー。公式プログラムより

日英交歓サッカーA長沼健A富沢清司A小城得達A八重樫茂生A渡辺正A宮本輝紀A釜本邦茂A杉山隆一A松本育夫A桑原楽之A川野淳次A上久雄A木村武夫A岡野俊一郎A平木隆三A横山謙三A船本幸路A浜崎昌弘A片山洋A山口芳忠A宮本征勝A鎌田光夫A鈴木良三A森孝慈

「日英交歓サッカー」アーセナル対日本(1968年5月、国立他)の公式プログラム表紙

アシックス招待サッカーAビム・ファンハネヘンA釜本邦茂

1981年6月、アシックス招待サッカー(ヤンマー1−2エクセルシオール)のとき、釜本邦茂(右)とビム・ファンハネヘン(左)

釜本邦茂引退試合A釜本邦茂Aボルフガング・オベラーツAペレ

1984年8月25日、国立競技場で行なわれた釜本邦茂引退試合では、ペレ(左)とオベラーツが釜本を肩車して歩いた

釜本邦茂A賀川浩

「ストライカーの美学 釜本邦茂写真集」の表紙(1985年 東方出版発行、監修:賀川浩)

釜本邦茂Aネルソン吉村大志郎

1994年11月、セレッソ大阪のJリーグ昇格を祝うパーティで。左から2人目、ネルソン吉村氏。1人おいて釜本邦茂氏

釜本邦茂A鬼武健二Aネルソン吉村大志郎A森島寛晃A賀川浩

2002年、ヤンマーサッカー部OB会が発行した「ヤンマーサッカー部の歴史」の表紙(監修:賀川浩)

釜本邦茂

殿堂掲額プレートとともに (C)J.LEAGUE PHOTOS

釜本邦茂A川淵三郎

レプリカを受ける釜本邦茂氏。左は川淵三郎キャプテン (C)J.LEAGUE PHOTOS

島田秀夫A竹腰重丸A山田午郎A田辺五兵衛A高橋龍太郎A深尾隆太郎A宮本征勝A野津謙A平井富三郎A藤田静夫A今村次吉A川本泰三A杉山隆一Aデットマール・クラマーA八重樫茂生A村形繁明A岡野俊一郎A平木隆三A長沼健A釜本邦茂A川淵三郎

日本サッカー殿堂第1回表彰式。前列左から釜本邦茂、八重樫茂生、長沼健、村形繁明、デットマール・クラマー、岡野俊一郎、平木隆三、杉山隆一の各受賞者。後列左端、川淵三郎JFAキャプテン

釜本邦茂

ウォーミングアップの練習。東京オリンピックを控えて熱がこもる。上半身裸になった釜本(左端)を中心に練習をするヤンマー・チーム

小城得達A横山謙三A山口芳忠A宮本輝紀Aデットマール・クラマーA片山洋A宮本征勝A川淵三郎A釜本邦茂A鎌田光夫A森孝慈A八重樫茂生A長沼健A杉山隆一A平木隆三

1963年、東京オリンピック選手村でボードを前に戦術指導。左端・長沼監督、その右・クラマー

デットマール・クラマーA竹腰重丸A鎌田光夫A渡辺正A小城得達A横山謙三A山口芳忠A宮本輝紀A川淵三郎A宮本征勝A片山洋A釜本邦茂A八重樫茂生A岡野俊一郎A杉山隆一A長沼健A鈴木良三

1963年夏、デュイスブルクで。後列左から竹腰重丸団長、宮本征勝、小沢通宏、一人おいて横山謙三、デットマール・クラマー、鎌田光夫、長沼健、保坂司、鈴木良三、外国人選手をはさんで川淵三郎、釜本邦茂、片山洋、小城得達。前列左から岡野俊一郎コーチ、一人おいて上久雄、山口芳忠、宮本輝紀、杉山隆一、富沢清司、継谷昌三、八重樫茂生、渡辺正

東京オリンピックA上久雄A小城得達A山口芳忠A横山謙三A宮本輝紀A岡野俊一郎A片山洋A釜本邦茂A八重樫茂生A鎌田光夫A鈴木良三A杉山隆一A長沼健

1964年10月16日(駒沢)東京五輪グループB第2戦のガーナ戦、日本ゴール前での攻防。白のユニフォーム、手前から片山洋(背番号2)、上久雄、山口芳忠、鎌田光夫、鈴木良三。背番号21はGK横山謙三

メキシコ五輪予選A釜本邦茂

韓国の金(左)丁(右)の二人のDFの間を突破する釜本

メキシコ五輪予選A山口芳忠A小城得達A宮本輝紀A横山謙三A片山洋A森孝慈A長沼健A松本育夫A釜本邦茂A八重樫茂生A岡野俊一郎A杉山隆一

メキシコ五輪予選(日本3−3韓国)。韓国の守りをドリブルで突破した釜本が強烈なシュートをニアポストへ決め、日本は3−2とリード

釜本邦茂選手引退記念試合A釜本邦茂

引退試合でゴールを決めガッツポーズをする釜本

メキシコ五輪・アジア地区予選A渡辺正A宮本征勝A山口芳忠A宮本輝紀A小城得達A片山洋A森孝慈A横山謙三A釜本邦茂A鎌田光夫A八重樫茂生A岡野俊一郎A長沼健A杉山隆一A平木隆三

1967年10月10日、メキシコ五輪・アジア地区予選の最終戦で南ベトナムを破って優勝。試合後、日の丸を掲げて場内を一周してスタンドの歓声を浴びる日本代表

釜本邦茂

釜本邦茂の、ニアサイドへ飛び込んでのヘディングシュート。日本代表対アーセナル(イングランド)の同点ゴール。1968年5月23日(東京・国立競技場)

メキシコオリンピックA桑原楽之A渡辺正A小城得達A宮本征勝A横山謙三A山口芳忠A松本育夫A宮本輝紀A片山洋A森孝慈A岡野俊一郎A釜本邦茂A鎌田光夫A八重樫茂生A平木隆三

1968年メキシコ五輪、表彰式で銅メダルを受け取る日本代表チーム。左から、岡野俊一郎コーチ、GK浜崎昌弘 、松本育夫、釜本邦茂、桑原楽之、渡辺正、宮本輝紀、湯口栄蔵、小城得達、森孝慈、富沢清司、鈴木良三、鎌田光夫、山口芳忠

メキシコ五輪予選A小城得達A渡辺正A横山謙三A宮本征勝A山口芳忠A宮本輝紀A片山洋A森孝慈A松本育夫A八重樫茂生A鎌田光夫A釜本邦茂A長沼健A杉山隆一A岡野俊一郎

1968年メキシコ五輪アジア予選の公式プログラム(表紙)

メキシコ五輪予選A小城得達A渡辺正A横山謙三A宮本征勝A山口芳忠A宮本輝紀A片山洋A森孝慈A松本育夫A八重樫茂生A鎌田光夫A岡野俊一郎A釜本邦茂A長沼健A杉山隆一

1968年メキシコ五輪アジア予選の公式プログラム、日本代表メンバーの紹介ページ

京都招待サッカーA釜本邦茂

突進する釜本邦茂(右端)。1968年 京都招待サッカー(西京極)ヤンマー対広島選抜

天皇杯A釜本邦茂

1969年元旦(国立)。天皇杯がはじめて元旦決勝となった年、ヤンマーが釜本のゴールで三菱重工を破って(1−0)初優勝した

JSLA釜本邦茂

二人にからまれバランスを崩しても倒れない足腰の強さ。1974年10月24日 JSL 三菱対ヤンマー

JSLA釜本邦茂

決勝ゴールを決め、両手を挙げてガッツポーズ――この年のリーグ開幕から9試合を8勝1分けで前期を折り返す。明るい笑顔は自身とチーム好調を語っていた。1980年5月18日、JSL ヤンマー 1−0 新日鉄

釜本邦茂選手引退記念試合A釜本邦茂

釜本邦茂の右足シュート。蹴り足のフォロースルー、手の振り、腰の移動、40歳の引退試合でも彼のシュートのフォームの美しさは全盛期のままだった。1984年8月25日、ヤンマー対リーグ選抜(国立)

ユニセフチャリティマッチA釜本邦茂

バルセロナFC創立記念。ユニセフチャリティマッチ、世界選抜チーム出場記念の盾

JSLA釜本邦茂

右から長谷川がグラウンダーで送ってきた速いパスを、ディフェンダーの後方からすり抜け、右足のサイドでダイレクトシュート。決勝ゴールを決めリーグ通算186点目を記録した

JSLA釜本邦茂

1981年11月1日、対本田戦で200ゴールを達成した釜本邦茂

JSLA釜本邦茂

200ゴールを達成した釜本に試合後、「GOAL200」の記念ボールが贈られた

日本サッカーリーグ JSLA釜本邦茂

釜本邦茂、右足シュートのフォーム。1981年11月1日(神戸・御崎)

JSLA片山洋A釜本邦茂

釜本のヘディングパスは、正確無比――片山(右から二人目)をはじめ三菱の守備陣は、いつも神経を使わされた。1970年4月5日、日本リーグ ヤンマー 0−0 三菱

JSLA森孝慈A釜本邦茂

釜本邦茂のジャンプヘディング。1970年4月5日、三菱対ヤンマー(国立)。左奥は三菱の森孝慈

JSLA釜本邦茂

釜本邦茂、ゴール!ゴール!! 優勝をかけた対三菱戦で、右45度のシュートで4点目(4−1)を決めて突き放し、ゴールラインを駆け抜ける釜本。75年12月14日、JSL三菱対ヤンマー

釜本邦茂引退試合Aボルフガング・オベラーツAペレA釜本邦茂

釜本邦茂引退試合(1984年8月25日、国立)ペレ(左)とオベラーツが釜本を肩車

釜本邦茂引退試合AペレAボルフガング・オベラーツA釜本邦茂

釜本邦茂引退試合(1984年8月25日、国立)。左からオベラーツ、釜本、ペレ

釜本邦茂選手引退記念試合A釜本邦茂

釜本邦茂、引退試合のプログラム

釜本邦茂選手引退記念試合A釜本邦茂

釜本邦茂、引退試合のチケット(1984年8月25日、国立)

釜本邦茂

釜本氏著「ストライカーの技術と戦術」第5刷の表紙

釜本邦茂

釜本氏著「ストライカーの技術と戦術」初版本の表紙

風呂中A釜本邦茂

「釜本邦茂 ストライカーの技術と戦術」の編集者・風呂中斉氏からの手紙。「釜本の本を出したい」と情熱をこめて企画書を送ってきた

佐々木康治Aデットマール・クラマーA釜本邦茂

2005年11月14日、「日本におけるドイツ年」神戸シンポジウムの控え室。釜本邦茂(左)佐々木康治とクラマー(中央)。

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