日本サッカー人物史
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平木隆三 [Ryuzo HIRAKI]
日本サッカー殿堂
1931年10月7日、大阪府生まれ
府立岸和田高校、関西学院大学、湯浅電池を経て、古河電工入り
JSL(古河電工)では、6試合出場
日本学生代表として、1953年、西独ドルトムント国際大学スポーツ週間(現・ユニバーシアード競技大会)に出場
日本代表として、第16回オリンピック競技大会(1956/メルボルン)、同第18回大会(1964/東京)に出場。東京オリンピックでは主将を務め、チームをベスト8に導く。また、第2回アジア競技大会(1954/マニラ)同第3回大会(1958/東京)、同第4回大会(1962/ジャカルタ)にも出場。Aマッチ出場30試合、1得点
第19回オリンピック競技大会(1968/メキシコシティ)ではコーチとして長沼監督を支え、日本の銅メダルに貢献
また、日本ユース代表監督、日本代表Bチーム監督として数多くの国際試合を戦い、ジュニア、ユース層の強化・育成に力を注ぐ。日本代表Bチームを率いて、第3回マラハリムカップ(1974/インドネシア)で初優勝を果たす
1969年、千葉で開催されたFIFAコーチングスクールでは、スクールマスターのデットマール・クラマー氏の助手を務める
国内では、1965年、JSL開幕時の古河電工の監督を務め、1992年、Jリーグ開幕時の名古屋グランパスエイトの初代監督に就任
日本サッカーリーグ常任運営委員、日本サッカー協会理事等を歴任
2005年 第1回日本サッカー殿堂入り
2009年没
イントロダクション
編集中プロフィール
- 1931年(昭和6年)10月7日 大阪府堺市浜寺で鉄工所を経営する父・牧三、母・恵奈子の5人兄弟の三男として生まれる
- 1948年(昭和23年) 岸和田高校入学。本格的にサッカーを始める
- 1951年(昭和26年)1月 全国高校サッカー選手権大会の大阪代表として出場、ベスト4に。ポジションはインサイドFW(今の攻撃的MF)
4月 関西学院大学入学
9月 早関定期戦でレギュラー(DF)
秋の関西学生リーグ、12月の東西学生王座決定戦で優勝。このときのFWに長沼健(現・JFA最高顧問)がいた - 1953年(昭和28年) 西ドイツ・ドルトムントで開催された国際学生スポーツ週間に出場
- 1954年(昭和29年)3月 ワールドカップ・スイス大会予選、対韓国戦(第2戦)に出場
5月 第2回アジア大会代表に。以来、10年間日本代表選手として活躍 - 1956年(昭和31年) メルボルン・オリンピック・アジア予選で韓国と2試合(2−0、0−1)の後、抽選で代表に
11月 メルボルン大会は1回戦、対オーストラリアに0−2で敗退 - 1957年(昭和32年) 関西学院大学卒業。湯浅電池に入社
10月 日本代表の中国遠征に参加 - 1958年(昭和33年) 古河電工に入社
5月 第3回アジア大会に参加 - 1959年(昭和34年)12月 ローマ・オリンピック・アジア予選、対韓国戦は1勝1敗(0−2、1−0)、得失点差で退く
- 1960年(昭和35年)5月 古河電工が天皇杯で優勝、企業チームの初制覇となる
夏の日本代表欧州ツアーでデットマール・クラマーの指導を受ける
11月 ワールドカップ・チリ大会・アジア予選、対韓国戦(ソウル)は1−2で敗れる - 1961年(昭和36年)5月 古川電工が天皇杯2連覇
6月 ワールドカップ予選、対韓国戦(東京)も0−2で敗れる - 1962年(昭和37年)8月 第4回アジア大会に出場、1勝2敗で1次リーグ敗退
- 1963年(昭和38年) 古河電工の監督権選手に
- 1964年(昭和39年)10月 東京オリンピック日本代表主将に
- 1965年(昭和40年) 新しく誕生した日本サッカーリーグで古河電工は3位。選手としては翌年を含めて合計6試合に出場。以後、指導者に
- 1968年(昭和43年) メキシコ・オリンピック日本代表チームのコーチに。対戦相手の偵察、戦力分析に働き、チームの3位、銅メダル獲得に貢献
- 1969年(昭和44年)7月 第1回FIFAコーチングスクール(検見川)でデットマール・クラマーの下でコーチを務める(〜10月)
- 1972年(昭和47年) 天皇杯の改革、JFA加盟全チーム参加への道を開き、その推進力となる
- 1976年(昭和51年) JFA理事に
長沼専務理事の下に選手登録制度の改革を実施 - 1988年(昭和63年)5月 JFA専務理事に
- 1991年(平成3年)3月 JFA退任、名古屋グランパスエイト監督就任
- 1993年(平成5年) 同監督を退任
- 2005年(平成17年)5月27日 第1回日本サッカー殿堂入り
- 2009年(平成21年)1月2日 死去
関連項目
- メルボルン五輪で日本と対戦
- 52年、メルボルン五輪の優勝
- 75歳を超えてなお現場に立つ“鉄の人” デットマール・クラマー(続)
- 第28回 テレ・サンターナ(1)80年代に“ブラジル”を復活させ選手ジーコをフルに生かしたセレソン監督
- 第36回 宮本征勝(2)重症を克服して“東京”の代表に加わり“メキシコ”で歴史的ゴールを演出
- 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(下)
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(中)
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(下)
- 第46回 デットマール・クラマー(2)“鉄人”と呼ばれた気配りの達人
- W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(中)
- W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(続)
- 殿堂入り歴代会長と第6代藤田静夫(上)
- どん底の時代から栄光の銅メダルまで、日本代表を押し上げたピッチ上の主 平木隆三(上)
- どん底の時代から栄光の銅メダルまで、日本代表を押し上げたピッチ上の主 平木隆三(下)
- ドイツ語の指導書をテキストに慶応ソッカー部の基礎を築いた初代キャプテン 濱田諭吉
- クラマーと日本とドイツのサッカー
- 日本が生んだ国際クラスのゲームメーカー 八重樫茂生(上)
- 日本が生んだ国際クラスのゲームメーカー 八重樫茂生(下)
- 60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(上)
- 1956年メルボルン・オリンピック「不安と期待の若返り策」
- 日本サッカー界を改革した外国人伝道師デットマール・クラマーの来日
- 1968年メキシコ・オリンピック「チームワークが生んだ銅メダル」
- FIFAコーチング・スクールは世界最高水準の研修コース
- 大いに見聞を広めよう
- スポーツ記者になって(4)
- ローマ、東京、メキシコ(7)
- 兵庫サッカーとわたし 〜村田忠男会長に聞く〜
- フランクフルト→オッフェンバッハ:セミプロクラブが100年の歴史を持ち、運営を続ける独サッカーの原型
- 釜本邦茂(4)早大1年から大学リーグ得点王。長期合宿で鍛えて、20歳でオリンピック代表CFに
- 人の話を聞き、人を働かせ、自らも労をいとわぬ気配りの名手。日本サッカーの大功労者、長沼健さんを偲んで
- 釜本邦茂(9)68年1月13日、西ドイツへ単身留学。“ジョージ・ベストに匹敵”と2ヶ月後、豪州から届く称賛
- 【番外編】平木隆三さんを偲ぶ 東京、メキシコの栄光を支え、コーチ育成組織をつくり、天皇杯を改革し、発展の基礎を築いた
- 釜本邦茂(12)オデッサでの35mシュート、ボルシア・MGからもゴール。進歩の証を重ねてメキシコへ
- 釜本邦茂(19)メキシコ銅メダルでJSLは観客増となり、ファンは満足と幸福感に酔う
- 登録制度の大改革、年齢別区分と個人登録。JFA財政建て直しを指導した第5代JFA会長 平井富三郎(下)
- ソ連、欧州ツアーで腕を磨き、ひたむきに東京五輪を目指した日本代表DF 片山洋(中)
- メキシコ五輪で1対1の粘り強さで各国チャンスメーカーを封じた右DF 片山洋(下)
- 若者たちにヨーロッパを感得させた 画期的な53年国際学生スポーツ週間への参加
- 53年FISU大会国際試合の大健闘 オッフェンバッハとの対戦が陰の力に
- ドルトムントで6位、ロンドンで試合 欧州で見聞を広めた現代のリーダーたち
- 大統領の檄を背に韓国代表が大勝 57年前の日韓初戦悪条件下の決行に
- 優勢に戦いながら勝てなかった第2戦 半世紀に及ぶ日韓対決の歴史を予感
- 第2回アジア大会、日韓戦の反省を背負い 挽回を目指した日本代表だったが…
- インドネシアに初戦で完敗 新興国の向上の早さに後れをとる
- 50年前の代表の守りを支え、東洋工業黄金期を経て サンフレッチェの基礎を築いたサッカー人 小沢 通宏(上)
- 韓国の猛攻を食い止め メルボルン・オリンピック出場へ導いたDF 小沢 通宏(中)
- 李昌碩を軸に関学をレベルアップ つなぐサッカーで天皇杯を獲得 低迷期の日本に輝いた 西邑昌一(中)
- 日本代表監督の交代劇
- 日本代表監督の交代劇(後篇)
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1959年4月 第1回アジアユース大会(クアラルンプール)開会式、入場行進して開会宣言を待つ日本チーム。日の丸を持つのはGK片伯部延弘、そのうしろ石丸俊徳団長。その後方第1列、左から高橋英辰監督、西本修吉マネージャー、秋葉和美主将

1960年日本代表ヨーロッパ遠征のメンバープログラム(表紙)

1960年日本代表ヨーロッパ遠征のメンバープログラム

1953年夏、ドルトムントで開かれた国際学生スポーツ週間に出場した日本学生選抜チーム。後列左から岩田淳三、平木隆三、三村恪一、長沼健、高林隆、岡野俊一郎、木村現、山口昭一、大谷四郎、小田島三之助、山路修。同前列、鈴木徳衛、徳弘隆、筧晃一、松丸貞一副団長、竹腰重丸団長、玉置良一、井上健

1954年、第2回アジア大会(マニラ)のオフィシャルプログラム

1954年、第2回アジア大会(マニラ)の日本代表メンバーリスト。大会オフィシャルプログラムより

1954年第2回アジア大会サッカー日本代表。JOC作成大会報告書より

JOCが作成した1954年第2回アジア大会の報告書

1973年「日独交歓サッカー」日本代表対1.FCケルン(6〜7月国立、長居)のマッチデープログラム表紙

1973年「日独交歓サッカー」日本代表対1.FCケルン(6〜7月国立、長居)のマッチデープログラム(選手紹介ページ)

1956年メルボルン・オリンピック日本代表の守備陣。左からHB高林隆、FB平木隆三、FB高森泰男、GK下村幸男、HB三村恪一、CFB小沢通宏、HB佐藤弘明、GK古川好男、HB大村和市郎

1964年10月、東京オリンピックのとき、選手村で。 写真提供:鎌田光夫氏

ミュンヘン・オリンピック予選を戦った日本代表(1971年9月、ソウル) (C)フォート・キシモト ※『サッカー日本代表 世界への挑戦』(新紀元社)より

1955年ビルマ遠征のとき。後列左から2人目より竹腰重丸団長、岩淵功、佐藤弘明、GK生駒友彦、三村恪一、景山(高森)泰男、高林隆、青木要三。前列左から岩谷俊夫監督、福原黎三、木村現、平木隆三、岡野俊一郎、田中雍和、岡本久敬、内野正雄 (C)日本サッカーミュージアム

第2回アジア大会出発前、横山陽三マネージャーから説明を受ける日本代表の一陣

4月26日、日本代表がマニラに向けて出発。羽田の見送りの様子

第2回アジア大会入村式風景:日本代表団、国旗が揚がりました

第2回アジア大会選手村風景:左から2人目、平木隆三。右端はGK渡部英麿

第2回アジア大会選手村風景:食堂へ三々五々と向かうメンバー。奥に見えるのはカソリック教会

第2回アジア大会選手村風景:4月30日のランチメニュー。ビーフ、サラダ、ごはんorパン…

第2回アジア大会選手村風景:食堂は宿舎から500mほど歩いたところに

第2回アジア大会雑景:5月9日、大野公使による歓迎パーティ。海苔巻き、海老天、佃煮などたくさんの日本食でもてなしてもらった

第2回アジア大会雑景:岩谷俊夫。帰国日に行なわれた大野公使の歓迎パーティで。

第2回アジア大会雑景:帰国日の5月9日、大野公使の歓迎パーティに出席する日本代表チーム。右端、賀川太郎。その隣、竹腰重丸団長

1956年6月、メルボルン五輪予選(後楽園競輪場)。左側、敬礼しているのは韓国代表。中央、白のスーツ姿は竹腰重丸監督。川本泰三コーチ、岩谷俊夫主将、小林忠生、大村和市郎、古川好男、小沢通宏、岩淵功、景山泰男、八重樫茂生、佐藤弘明、平木隆三、北口晃 (C)日本サッカーミュージアム

「日英交歓サッカー」アーセナル対日本(1968年5月、国立他)の日本代表メンバー。公式プログラムより

「日英交歓サッカー」アーセナル対日本(1968年5月、国立他)の公式プログラム表紙

1969年7月15日から10月18日までの3ヶ月間、検見川の東大研修センターで行なわれた「第1回FIFAコーチング・スクール」 写真提供:上田亮三郎氏

1972年ミュンヘン・オリンピックアジア東地区予選、日本対韓国 (C)フォート・キシモト ※『サッカー日本代表 世界への挑戦』(新紀元社)より

殿堂掲額プレートとともに (C)J.LEAGUE PHOTOS

2011年9月12日、JFA創立90周年パーティで。左からクラマー夫人、長沼有光子さん(故・長沼健氏夫人)平木ハナ子さん(故・平木隆三氏夫人)デットマール・クラマー氏、賀川浩

日本サッカー殿堂第1回表彰式。前列左から釜本邦茂、八重樫茂生、長沼健、村形繁明、デットマール・クラマー、岡野俊一郎、平木隆三、杉山隆一の各受賞者。後列左端、川淵三郎JFAキャプテン

グランパス監督時代の平木隆三(左)。中央の選手はリネカー

93年、グランパス監督時代の平木隆三。練習場で

第2回アジア大会選手村風景:練習を終え宿舎への帰り道。水野隆氏(左)平木隆三

1954年、第2回アジア大会(マニラ)の日本代表。東京合宿での撮影。後列左から大埜正雄、渡部英麿、高林隆、二宮洋一、木村現、岩谷俊夫、鴇田正憲、土井田宏之、村岡博人、徳弘(現・水野)隆、川本泰三コーチ。前列左から、平木隆三、岡田吉夫、杉本茂雄、加納孝、松永信夫、宮田孝治、賀川太郎、長沼健

メルボルン五輪代表、関西の選手たち。左からMF大村和市郎、GK古川好男、FW北口晃、MF佐藤弘明、DF平木隆三、FW鴇田正憲

1956年メルボルン五輪予選、対韓国・第2戦のあと。抽選で本大会出場が決まり、歓喜の代表チーム。中央、メガネをかけているのは川本泰三コーチ

1953年に行なわれた日独交歓試合、対オッフェンバッハ戦のプログラム

1953年 日独交歓試合、対オッフェンバッハ戦のプログラム(全日本学生代表)

第41回天皇杯で、古河電工(縦縞)が前年に続いて連覇を達成。左からGK保坂司(黒)DF鎌田光夫、その後方・平木隆三

全日本対ディナモ・モスクワ戦、ゴールカバーに入る平木隆三

古河電工のハーフタイムのミーティング。壁に手をかけているのが平木隆三。その右、ベンチに座っているのは鎌田光夫と八重樫茂生(上半身裸)

全日本対西ドイツ五輪代表、ゴール前の必死の攻防。ゴールに飛び込むボールを追う平木(1963年6月5日、西ドイツ・ジーゲン)

1963年、東京オリンピック選手村でボードを前に戦術指導。左端・長沼監督、その右・クラマー

1962年ワールドカップ(チリ大会)のアジア予選、対韓国戦の試合前。中央左、竹腰重丸監督。その右はデットマール・クラマー コーチ

1967年10月10日、メキシコ五輪・アジア地区予選の最終戦で南ベトナムを破って優勝。試合後、日の丸を掲げて場内を一周してスタンドの歓声を浴びる日本代表

1968年メキシコ五輪、表彰式で銅メダルを受け取る日本代表チーム。左から、岡野俊一郎コーチ、GK浜崎昌弘 、松本育夫、釜本邦茂、桑原楽之、渡辺正、宮本輝紀、湯口栄蔵、小城得達、森孝慈、富沢清司、鈴木良三、鎌田光夫、山口芳忠

1981年の日本代表、森孝慈監督と花岡英光コーチ。記者会見で。右端は平木隆三JFA技術委員長

愛知の年輪チームでもプレーした。左端が平木、中央はメルボルン五輪代表仲間の小沢通宏