日本サッカー人物史
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今村次吉 [Jikichi IMAMURA]
日本サッカー殿堂
初代会長(在任期間:1921年〜1933年)
1881年生まれ
東京帝国大学卒業
大蔵省事務官、ロシア駐在財務官を経て、亜細亜林業社長、日露実業常務
大日本体育協会筆頭理事であった関係で、イングランドのThe FAから寄贈された銀杯により発足した協会の会長に就任
会長在任中に、憲章・規約の制定、機関誌『蹴球』の発刊、協会旗章の決定、全国優勝競技会(現・天皇杯全日本サッカー選手権大会)の創設、FIFA加盟など、協会の基盤づくりに尽力
大日本レスリング協会会長及び名誉会長、大日本体育協会顧問等を歴任
小学校時代には、坪井玄道にならってボールを蹴ったと言われている
1943年没
2005年 第1回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
有名ランナーで体協の実力者、初代JFA会長
■少年期に坪井玄道と出会う
初代JFA会長の今村次吉さんは1881年(明治14年)生まれだから、1921年(大正10年)に大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)会長に就任されたときが40歳にあたる。
明治・大正期の高名なフランス語学者・今村有隣(ゆうりん、1841−1924年)の次男で、兄・新吉(1874−1946年)は日本の精神病理学者の先駆者、京大教授だった。
次吉さんは、東京高師付属小学校、同中学を経て第一高等学校(一高)東大に進み、1904年(明治37年)に東大法科卒業後に大蔵書記官となり、のちにロシア駐在財務官などを経て日露実業常務、亜細亜林業社長など実業界で活躍した。
サッカーとの因縁は、小学校の高等科のときに、日本サッカーの始祖・坪井玄道さん(1852−1922年)からフットボールの手ほどきを受けたと、自ら語っていたそうだが、今村さんたちの学生時代には、まだ一高や東大の学内でもフットボールは行なわれておらず、野球と運動会(陸上競技)が主なスポーツだった。
■不忍池周回レース
走ることにかけて才があったと見え、まだ長距離競争の珍しかったそのころ、一高が学内レースとして企画した上野不忍池周回競技(12マイル=20.92キロ)で、当時、ランナーとして有名だった木下東作を大激戦の末に破って優勝している。
東大に進んでも運動会で活躍し、1900年(明治33年)11月の運動会では200、400、1000メートルの3種目で優勝した記録が残っている。
自ら走るだけでなく、ルールブックの翻訳編集などもしていて、関係者の間ではよく知られていた。
1912年のストックホルム・オリンピックに日本が初参加するときの予選会でも今村さんは競技委員を務めた。IOC委員で、大日本体育協会(現・日本体育協会)の初代会長でもある嘉納治五郎からも信頼されていて、体協役員としても、官界、実業界のつながりを生かして寄付集めなどにも力があった。
■初代会長の下で10年間の大進歩
1919 年(大正8年)に英国のFAから日本にシルバーカップが寄贈され、これがきっかけとなって日本サッカーを統括する団体を作ることになり、東京高師の内野台嶺教授(1884−1953年)が中心となり、英国大使館のヘーグ参事官の協力を得て組織作りは進んだが、会長の人選は難航した。
オリンピック参加のために“体協”が誕生し、オリンピック予選会も第1回日本陸上競技選手権大会も、その体協主催で開催されたこともあって、初の単一スポーツの競技団体の会長さんには、スポーツに理解ある名士からも就任承諾はなかなかもらえなかったが、最終的に体協の筆頭理事である今村次吉さんがOKした。
体協のなかでの大仕事のひとつであった1920年のアントワープ・オリンピック派遣費集めも無事に終わり、また、ロシア駐在財務官の仕事も一段落したという事情もあったのではないか――と私は推察している。今村さんの就任にあたって体協からJFAに補助金1,000円という当時としては大金が与えられている。
大正10年度の大日本蹴球協会会報第1号に、本会役員(大正10年12月現在)として
▽名誉会長 公爵 徳川家達
英国大使 エリオット
▽会長 今村次吉
▽顧問 嘉納治五郎
侯爵 鍋島直
男爵 後島新平
岸清一
▽賛助員 ウィリアム・ヘーグ
大谷光明
永田秀次郎
見島叡吉郎
▽理事 総務 近藤茂吉
庶務 内野台嶺
熊坂圭三
会計 吉川準二郎
競技 永井道明
編集 武井群嗣
高橋礼本
と、委員25人の名がある。
この今村体制のもとに、日本サッカーは10年間で驚くべき進歩を遂げ、1930年極東大会で東アジアのトップとして中華民国と並ぶことになる。
プロフィール
- 1881年(明治14年) 3月、東京生まれ。父・有隣(ゆうりん・1844〜1924)はフランス語学者で教育者
- 1888年(明治21年) 東京高等師範付属小学校に入学。在学中に坪井玄道からフットボールの手ほどきを受ける
- 1897年(明治30年) 東京高師付属中学校を卒業(6回生)。第一高等学校に入学
- 1899年(明治32年) 5月13日、上野・不忍池周回レースで木下東作と接戦の末に優勝
- 1900年(明治33年) 東京帝国大へ進学
11月の運動会で200、400、1000mの3種目に優勝、明治35年11月の運動会200mにも優勝した記録がある - 1904年(明治37年) 東大法科卒業。大蔵省書記官に
- 1911年(明治44年) 7月、大日本体育協会設立。会長・嘉納治五郎
11月、ストックホルム・オリンピック選考協議会でスターターを務める - 1912年(明治45年) 第5回オリンピック・ストックホルム大会に、日本から嘉納治五郎団長、大森兵蔵役員、陸上短距離の三島弥彦、マラソンの金栗四三が初参加。日本のスポーツ界に大きな刺激を与えた
- 1913年(大正2年) 体協の規約改正で総務理事(7人)のうちの一人に
11月、体協主催の第1回陸上競技大会開催。この競技規則は今村が編集し、全国の予選会に適用したという - 1915年(大正4年) 体協の規約改正で会長推薦理事(9人)の一人に
- 1917年(大正6年) 第3回極東大会を東京・芝浦で開催。開催の寄付集めに尽力
- 1919年(大正8年) ロシア駐在財務官としてハルピン会議に出席
- 1920年(大正9年) 第7回オリンピック・アントワープ大会への日本代表派遣費用・募金にあたり、体協の中心として働く
- 1921年(大正10年) 大日本蹴球協会(JFA)創立、初代会長に就任。名誉会長、徳川家達、英国大使・エリオット
- 1925年(大正14年) 大日本陸上競技連盟(現・日本陸上競技連盟)創立、今村は顧問に就任
- 1929年(昭和4年) JFAの規約変更、会長・今村次吉の下に常務理事・鈴木重義、理事8人、支部理事8人を置いて、運営の効率化を図る
- 1930年(昭和5年) 5月、東京・明治神宮競技場での第9回極東大会で日本はフィリピンに勝ち、中華民国と引き分け、中華民国とともに1位に
- 1932年(昭和7年) ロサンゼルス・オリンピックではサッカーは開催されず。日本選手団顧問兼レスリング総監督(体協監事、オリンピック後援会副会長)として選手団に同行
- 1933年(昭和8年) JFA会長を辞任
- 1943年(昭和18年) 4月17日没。64歳。戒名・清徳院直心正道居士
- 2005年(平成17年)5月27日 第1回日本サッカー殿堂入り
関連項目
- 昭和の大先達・竹腰重丸(下)
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(下)
- 殿堂入り歴代会長と第6代藤田静夫(上)
- 60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(上)
- 大日本蹴球協会(JFA)設立、全日本選手権開催。大正年間に組織作りを成功させた漢学者・内野台嶺
- チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)
- 厳しいコーチをバックアップし代表チームに栄冠を呼んだ監督 鈴木重義(下)
- 自らは優れたランナー。体協の筆頭理事で募金活動に腕を振るったJFA初代会長 今村次吉
- 極東大会で活躍した名プレーヤー。JFAを支え、導いた 篠島秀雄(上)
- 華族で貴族院議員。ベルリン五輪へ代表を送り成果を挙げた、第2代JFA会長 深尾隆太郎
- 全日本選手権のはじまりは、英国から寄贈された銀カップ
- 対カメルーン、労を惜しまぬ動きと36年、30年代表に見る日本サッカーの原点
- JFA初代会長、今村次吉は不忍池周回競争の裸足のランナー
- 89年前の「天皇杯」第1回大会。優勝の東京蹴球団にFA銀盃
- 大正末期日本サッカーの技術進化に貢献したビルマ人留学生チョー・ディン
- 「極東」で勝ち、オリンピックに向かうため JFAの改革と代表の体力キャンプ
- 日本サッカーを応援、バックアップした FIFA会長 サー・スタンレー・ラウス(上)
- 先人を師と称える日本サッカー殿堂入り 奥寺康彦
フォトライブラリ
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今村次吉さん(『日本サッカーのあゆみ』より)

日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額された肖像プレート (C) J. LEAGUE PHOTOS

日本サッカー殿堂第1回表彰式。前列左から釜本邦茂、八重樫茂生、長沼健、村形繁明、デットマール・クラマー、岡野俊一郎、平木隆三、杉山隆一の各受賞者。後列左端、川淵三郎JFAキャプテン