日本サッカー人物史
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長沼健 [Ken NAGANUMA]
日本サッカー殿堂
1930年9月5日、広島県生まれ
関西学院大学卒業
1953年、西独ドルトムント国際大学スポーツ週間(現ユニバーシアード競技大会)代表。日本代表として、第16回オリンピック競技大会(1956/メルボルン)、第2回アジア競技大会(1954/マニラ)、同第3回大会(1958/東京)等に出場
国内においては、古河電工の選手として1961年度第1回年間最優秀選手に輝く
1962年、32歳の若さで日本代表監督に就任。第18回オリンピック競技大会(1964/東京)、同第19回大会(1968/メキシコシティ)に出場し、メキシコオリンピックではチームを3位・銅メダルに導く
技術委員長、専務理事、副会長を経て、1994年会長就任。1996年、FIFAワールドカップ初の共同開催を決定する。1998年FIFAワールドカップ・フランス大会では、日本代表のワールドカップ初出場を果たす
同時に、2002年FIFAワールドカップの日本招致委員会副会長、日本組織委員会副会長を務め、ワールドカップの招致と開催にも尽力
また、日本サッカーリーグ常任運営委員、Jリーグ理事等を歴任
日本体育協会副会長、日本オリンピック委員会委員、ユネスコ・日本フェアプレー委員会委員等を務め、広くわが国のスポーツ界の発展にも貢献
1990年 藍綬褒章、2004年 旭日中綬章
2005年 第1回日本サッカー殿堂入り
2008年没
イントロダクション
編集中プロフィール
- 1930年(昭和5年)9月5日 広島市に生まれる
- 1937年(昭和12年)4月 広島高等師範付属小学放へ
- 1943年(昭和18年)4月 同付属中学校へ
- 1945年(昭和20年)8月 終戦
- 1947年(昭和22年)12月 第26回全国中等学校サッカー選手権で同付属中学が優勝。木村、長沼、樽谷のFWの破壊力が抜群だった
- 1948年(昭和23年)10月 第3回国体福岡大会で、同付属高校が優勝
- 1949年(昭和24年) 関西学院大学へ
- 1950年(昭和25年) 関西学生リーグ優勝。大学王座決定戦で早大と引き分け、以来、関西学生リーグ3連勝、1951年には学生王座に就く
- 1953年(昭和28年) 関学大を卒業、中央大学に入学。この年の夏、国際学生スポーツ週間(現・ユニバーシアード)に日本代表としで参加
- 1954年(昭和29年)3月 第5回ワールドカップ・アジア予選、日本対韓国第1戦に日本代表として出場
5月 第2回アジア大会日本代表 - 1955年(昭和30年)3月 中大を卒業、古河電工に入社
- 1956年(昭和31年)11月 メルボルン・オリンピック日本代表
- 1958年(昭和33年)5月 第3回アジア大会日本代表
- 1960年(昭和35年)5月 第40回天皇杯で古河電工が実業団チームとして初優勝
- 1962年(昭和37年)12月 日本代表監督に就任
- 1964年(昭和39年)10月 東京オリンピック日本代表監督、ベスト8
- 1965年(昭和40年)5月 日本サッカーリーグがスタート。この画期的な全国リーグの創設にかかわった
- 1968年(昭和43年)10月 メキシコ・オリンピック日本代表監督、3位、銅メダルを獲得。同チームに対してFIFA(国際サッカー連盟)とユネスコからそれぞれフェアプレー賞を受ける
- 1969年(昭和44年)10月 70年W杯予選(韓国・ソウル)で敗退。代表監督を退く
- 1972年(昭和47年) 岡野監督辞任の後、再び日本代表監督に。4年後の76年6月、オリンピック予選で辞任。後任は二宮寛
- 1976年(昭和51年) 日本協会専務理事に就任。改革の推進力となる
- 1978年(昭和53年) 協会の登録制度を改め、社会人、学生といった社会的な身分でなく、年齢別に区分した
- 1980年(昭和55年) アマプロ研究委員会を結成。後に活性委員会となり、プロ化に向かう
- 1987年(昭和62年) 副会長に
- 1993年(平成5年) Jリーグがスタート
- 1994年(平成6年) 会長に就任
- 1998年(平成10年) W杯フランス大会に日本が初出場。大会終了後、会長を辞任。岡野俊一郎が会長に就任
- 2003年(平成15年) JFA顧問、日本体育協会副会長、日本スポーツ少年団本部長、埼玉スタジアム場長
- 2005年(平成17年)5月27日 第1回日本サッカー殿堂入り
- 2008年(平成20年)6月2日 死去
長沼健のタイトル ◆選手として ・全国中等学校選手権(現・高校選手権) 優勝1回(広島高等師範付属中学) ・第3回国体サッカー・高校の部 優勝1回(同付属高校) ・関西学生リーグ3連勝、大学王座1回(関西学院大学) ・天皇杯 第40、41回大会で2年連続優勝(古河電工) ・天皇杯 第44回大会で八幡製鉄と決勝で引き分け、優勝(古河電工) ◆監督として ・オリンピック 1964年東京大会ベスト8、1968年メキシコ大会銅メダル(フェアプレー賞) ・アジア大会 1966年バンコク大会3位、鋼メダル
関連項目
- メルボルン五輪で日本と対戦
- 52年、メルボルン五輪の優勝
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(下)
- デットマール・クラマー(中)
- デットマール・クラマー(下)
- 75歳を超えてなお現場に立つ“鉄の人” デットマール・クラマー(続)
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(中)
- 70年代のアヤックスと代表チーム
- 第18回 竹腰重丸(4)後輩とともにベルリンの栄光 戦後の復興の先頭に立ち長沼・岡野の若いペアに託す
- 第20回 杉山隆一(2)突破力を生かすためにはまず巧みなトラッピングを。名将クラマーの個人指導
- 世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー杉山隆一(上)
- 世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー杉山隆一(下)
- 第27回 八重樫茂生(3)有能な後輩と切磋琢磨。絶妙のパスのタイミングを掴んだ12yearsオリンピアン
- 後進地・岩手から銅メダル・チームのキャプテンを生み出した 工藤孝一(下)
- ゴールを奪うMFで優しい指導者 歴史を掘り起こした記者 岩谷俊夫
- 攻守兼備のMF 努力の人 小城得達(上)
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- 第35回 宮本征勝(1)強い体を自ら鍛え1対1に闘志を燃やし続けた不屈のプロフェッショナルDF
- 第36回 宮本征勝(2)重症を克服して“東京”の代表に加わり“メキシコ”で歴史的ゴールを演出
- 日本代表を応援し続けて40年 サポーターの元祖 鈴木良韶さん(下)
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- 【番外編】ワールドカップ一周年 日本サッカーの質の変化
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- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(下)
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- 京都と日本のサッカーに捧げた90年 第6代藤田静夫(下)
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- メキシコ・オリンピックの8ヶ月前に釜本邦茂の劇的開花を助けた西独の名コーチ ユップ・デアバル
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- 企業チームの部長としてチームをナンバーワンに。第7代JFA会長 島田秀夫
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- 1956年メルボルン・オリンピック「不安と期待の若返り策」
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- 日本サッカーリーグ、東洋工業が初代チャンピオン
- 1966年第5回アジア大会「疲労の極致での戦い」
- 1968年メキシコ・オリンピック「チームワークが生んだ銅メダル」
- FIFAコーチング・スクールは世界最高水準の研修コース
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- 謙虚で剛直な明治人 釜本正作さんを思う
- 関西でのサッカー人気 2月シリーズと平山相太
- 還暦を迎えた、釜本邦茂 60歳で青少年育成へ
- 長沼健さんの叙勲を祝う会で――。第1回W杯の年に生まれ、サッカーー筋74年
- 世界の“常識”を求めて(9)
- 世界の“常識”を求めて(21)
- 世界の“常識”を求めて(24)
- 兵庫サッカーとわたし 〜村田忠男会長に聞く〜
- 神戸→ミュンヘン:色々とあったが、とうとうミュンヘンへやってきた。81歳の旅が始まる
- フランクフルト→オッフェンバッハ:セミプロクラブが100年の歴史を持ち、運営を続ける独サッカーの原型
- 釜本邦茂(1)W杯の実績はなくとも世界から高い評価を受けたメキシコ得点王
- 人の話を聞き、人を働かせ、自らも労をいとわぬ気配りの名手。日本サッカーの大功労者、長沼健さんを偲んで
- 釜本邦茂(10)自らストライカーであったデアバルコーチとのマンツーマン。休養とサッカー漬けの2ヶ月で脱皮
- 【番外編】平木隆三さんを偲ぶ 東京、メキシコの栄光を支え、コーチ育成組織をつくり、天皇杯を改革し、発展の基礎を築いた
- 釜本邦茂(13)メキシコ五輪B組第1戦、ナイジェリアを相手にハットトリック
- 釜本邦茂(15)メキシコ五輪第3戦「点を入れたらアカン」シュートを外して○印のサイン
- 釜本邦茂(16)メキシコ五輪で突破シュートと胸でトラップからのシュート。フランスを破ってベスト4へ
- 釜本邦茂(17)68年オリンピック3位決定戦、開催国メキシコ相手に2ゴール
- 釜本邦茂(18)メキシコ五輪3位決定戦。試合後にベッドへ倒れ込んで動かず、死力を尽くしたイレブンにクラマーも感動
- 釜本邦茂(19)メキシコ銅メダルでJSLは観客増となり、ファンは満足と幸福感に酔う
- 釜本邦茂(24)ペレとオベラートの友情参加。満員の国立競技場、引退試合でも先制ゴール
- 釜本邦茂(25)ガンバ初代監督、国会議員、JFA副会長。夢はストライカー育成に
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- 登録制度の大改革、年齢別区分と個人登録。JFA財政建て直しを指導した第5代JFA会長 平井富三郎(下)
- 世界のサッカー国を相手に銅メダル獲得。メキシコ五輪の地味なヒーロー 鎌田光夫(上)
- 本番の1年前、ブラジルのパルメイラスを相手の守備戦術のシミュレーション。メキシコ銅メダルのヒーロー 鎌田光夫(中)
- 片山、山口、小城たちとともに粘り強い守りで銅メダルの栄光をつかんだ冷静なスイーパー 鎌田光夫(下)
- 「坂の上の雲」の時代を身近に感じる85歳と語り合う歴史物語
- 対カメルーン、労を惜しまぬ動きと36年、30年代表に見る日本サッカーの原点
- 東京五輪直前に19歳で抜擢。1対1の強さに“すっぽん”といわれたDF 山口芳忠(上)
- 東京五輪代表漏れの挫折を東洋工、右サイドのプレーで克服。メキシコ五輪での銅につないだ 松本育夫(中)
- 東京とメキシコの成功を将来に備えたFIFAコーチングスクールやJFAと中央大学の発展と基礎を築いた“実力者” 小野卓爾(下)
- 若者たちにヨーロッパを感得させた 画期的な53年国際学生スポーツ週間への参加
- 53年FISU大会国際試合の大健闘 オッフェンバッハとの対戦が陰の力に
- ドルトムントで6位、ロンドンで試合 欧州で見聞を広めた現代のリーダーたち
- 大統領の檄を背に韓国代表が大勝 57年前の日韓初戦悪条件下の決行に
- 第2回アジア大会、日韓戦の反省を背負い 挽回を目指した日本代表だったが…
- 長い歴史とトヨタの先見をバックに花開いたピクシーと仲間たち。次は世界のビッグクラブへ
- 世界の仲間とともに苦難の人たちへ心を届けよう ――東北関東大震災に思う――
- インドネシアに初戦で完敗 新興国の向上の早さに後れをとる
- 先人を師と称える日本サッカー殿堂入り 奥寺康彦
- メキシコ・オリンピックでPKを防ぎ 銅メダルを守ったGK 横山 謙三(上)
- “東京”の選考はもれたが アマの東洋工、プロのサンフレッチェを日本一に 小沢 通宏(下)
- マインツ・岡崎慎司の成長と 46年前の五輪銅メダリストの“ひたむき”ゴール 渡辺 正(上)
- 李昌碩を軸に関学をレベルアップ つなぐサッカーで天皇杯を獲得 低迷期の日本に輝いた 西邑昌一(中)
- Jリーグ・トップクラブでの ルーツに広島一中 岡野良定(下)
- 広島で原爆を経験 戦後サッカー復興をリードしたGK 下村幸男(上)
- 「日本の銅メダルは生涯の誇り」とした 天才サッカー指導者 デットマル・クラーマー
- 金子彌門 旧制中学生でサッカー、ラグビーの 全国大会二冠を目前に
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- [特別編]日本とロシア、深い絆
- 日本代表監督の交代劇
- 日本代表監督の交代劇(後篇)
- サッカーチームの監督とは?
- 1964年東京オリンピック話?
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東大合宿を終え、農学部正門前で。左から長沼健、川本泰三、賀川太郎、鴇田正憲

第2回アジア大会に向けた合宿(東大農学部グラウンド)。左端、前かがみの選手は岡田吉夫。その右隣から時計回りに杉本茂雄、二宮洋一、一人おいて左端下、川本泰三。立っている(右上)のは大埜正雄、左の眼鏡をかけているのが渡辺英麿。右下は長沼健

第2回アジア大会代表FWの精鋭たち。左から鴇田正憲、木村現、長沼健。結団式で。

とあるパーティで。左から釜本邦茂夫人、藤田静夫夫人、長沼健夫人

第2回アジア大会選手村風景:杉本茂雄(左)。岩谷俊夫ら部屋のメンバーは睡眠中「Please Don't Disturb」

1953年夏、ドルトムントで開かれた国際学生スポーツ週間に出場した日本学生選抜チーム。後列左から岩田淳三、平木隆三、三村恪一、長沼健、高林隆、岡野俊一郎、木村現、山口昭一、大谷四郎、小田島三之助、山路修。同前列、鈴木徳衛、徳弘隆、筧晃一、松丸貞一副団長、竹腰重丸団長、玉置良一、井上健

第2回アジア大会雑景:船上で食事をとる若手選手たち。右奥・長沼健、その左・高林隆、手前は徳弘(現・水野)隆。岩谷俊夫氏アルバムには「食わせておけば大人しいね」とキャプション

第2回アジア大会雑景:帰国後、体協の控室で。右手前より賀川太郎、木村現、長沼健、宮田孝治

1954年、第2回アジア大会(マニラ)のオフィシャルプログラム

1954年、第2回アジア大会(マニラ)の日本代表メンバーリスト。大会オフィシャルプログラムより

1954年第2回アジア大会サッカー日本代表。JOC作成大会報告書より

JOCが作成した1954年第2回アジア大会の報告書

第2回アジア大会選手村風景:宿舎は五人部屋。右から首魁鴇田正憲、徳弘(水野)隆、岩谷俊夫、木村現、長沼健

1973年「日独交歓サッカー」日本代表対1.FCケルン(6〜7月国立、長居)のマッチデープログラム表紙

1973年「日独交歓サッカー」日本代表対1.FCケルン(6〜7月国立、長居)のマッチデープログラム(選手紹介ページ)

1964年10月、東京オリンピックのとき、選手村で。 写真提供:鎌田光夫氏

第2回アジア大会出発前、横山陽三マネージャーから説明を受ける日本代表の一陣

4月26日、日本代表がマニラに向けて出発。羽田の見送りの様子

第2回アジア大会入村式風景:日本代表団、国旗が揚がりました

第2回アジア大会選手村風景:食堂へ三々五々と向かうメンバー。奥に見えるのはカソリック教会

第2回アジア大会選手村風景:4月30日のランチメニュー。ビーフ、サラダ、ごはんorパン…

第2回アジア大会選手村風景:食堂は宿舎から500mほど歩いたところに

第2回アジア大会雑景:5月9日、大野公使による歓迎パーティ。海苔巻き、海老天、佃煮などたくさんの日本食でもてなしてもらった

第2回アジア大会雑景:岩谷俊夫。帰国日に行なわれた大野公使の歓迎パーティで。

第2回アジア大会雑景:帰国日の5月9日、大野公使の歓迎パーティに出席する日本代表チーム。右端、賀川太郎。その隣、竹腰重丸団長

1956年6月、メルボルン五輪予選の前(後楽園競輪場)。後列左から竹腰重丸監督、長沼健、福原黎三、岩谷俊夫キャプテン、一人おいて鴇田正憲、GK古川好男、木村現(中腰)一人おいて岡本久敬、小林忠生(中腰)岩淵功、生駒友彦、小沢通宏(中腰)青木要三、三村恪一、川本泰三コーチ、賀川太郎、堺井秀雄。同前列、岡野俊一郎、木下勇マネージャー、八重樫茂生、内野正雄、景山(高森)泰男、北口晃、佐藤弘明 (C)日本サッカーミュージアム

「日独国際サッカー親善試合」日本対西ドイツ(1963年10月20日、西京極球技場)の公式プログラム。両チームのメンバーリスト

1963年10月20日、西京極球技場で行なわれた「日独国際サッカー親善試合」日本対西ドイツのプログラム(表紙)

1967年12月2日、CSKAモスクワ2-2日本代表(国立競技場)。中央、ボールを持っているのは丸山義行レフェリー 写真提供:丸山義行氏

1967年12月2日、国立競技場で行なわれたCSKAモスクワ対日本代表(2-2)は日本人の丸山義行氏が主審を務めた 写真提供:丸山義行氏

「日英交歓サッカー」アーセナル対日本(1968年5月、国立他)の日本代表メンバー。公式プログラムより

「日英交歓サッカー」アーセナル対日本(1968年5月、国立他)の公式プログラム表紙

1969年7月15日から10月18日までの3ヶ月間、検見川の東大研修センターで行なわれた「第1回FIFAコーチング・スクール」 写真提供:上田亮三郎氏

鴇田正憲を偲ぶ会(2004年11月8日)には、関学大の後輩でありメルボルン五輪代表の仲間だった長沼健・元JFA会長をはじめ、82人のサッカー人が集まった

2004年11月8日、鴇田正憲を偲ぶ会で(ホテル竹園芦屋)。前列左から岩谷俊夫夫人、鴇田夫人、長沼健元JFA会長。後列左から前野正氏、賀川浩

2004年11月8日、鴇田正憲を偲ぶ会で(ホテル竹園芦屋)。前列中央、長沼健 元JFA会長

2011年9月12日、JFA創立90周年パーティで。左からクラマー夫人、長沼有光子さん(故・長沼健氏夫人)平木ハナ子さん(故・平木隆三氏夫人)デットマール・クラマー氏、賀川浩

日本サッカー殿堂第1回表彰式。前列左から釜本邦茂、八重樫茂生、長沼健、村形繁明、デットマール・クラマー、岡野俊一郎、平木隆三、杉山隆一の各受賞者。後列左端、川淵三郎JFAキャプテン

クラマーの来日に集まったメキシコ五輪代表。左から横山謙三、石井義信、岡野俊一郎、長沼健、クラマー、保坂司、鎌田光夫、鈴木良三

メキシコ五輪の翌年、講談社から長沼健の自叙伝「サッカーに賭けた青春」が出版された(1969、講談社刊)

1953年に行なわれた日独交歓試合、対オッフェンバッハ戦のプログラム

1953年 日独交歓試合、対オッフェンバッハ戦のプログラム(全日本学生代表)

1954年、第2回アジア大会(マニラ)の日本代表。東京合宿での撮影。後列左から大埜正雄、渡部英麿、高林隆、二宮洋一、木村現、岩谷俊夫、鴇田正憲、土井田宏之、村岡博人、徳弘(現・水野)隆、川本泰三コーチ。前列左から、平木隆三、岡田吉夫、杉本茂雄、加納孝、松永信夫、宮田孝治、賀川太郎、長沼健

1956年メルボルン五輪予選、対韓国・第2戦のあと。抽選で本大会出場が決まり、歓喜の代表チーム。中央、メガネをかけているのは川本泰三コーチ

メキシコ五輪予選(日本3−3韓国)。韓国の守りをドリブルで突破した釜本が強烈なシュートをニアポストへ決め、日本は3−2とリード

1963年、東京オリンピック選手村でボードを前に戦術指導。左端・長沼監督、その右・クラマー

1963年夏、デュイスブルクで。後列左から竹腰重丸団長、宮本征勝、小沢通宏、一人おいて横山謙三、デットマール・クラマー、鎌田光夫、長沼健、保坂司、鈴木良三、外国人選手をはさんで川淵三郎、釜本邦茂、片山洋、小城得達。前列左から岡野俊一郎コーチ、一人おいて上久雄、山口芳忠、宮本輝紀、杉山隆一、富沢清司、継谷昌三、八重樫茂生、渡辺正

1967年10月10日、メキシコ五輪・アジア地区予選の最終戦で南ベトナムを破って優勝。試合後、日の丸を掲げて場内を一周してスタンドの歓声を浴びる日本代表

1964年10月16日(駒沢)東京五輪グループB第2戦のガーナ戦、日本ゴール前での攻防。白のユニフォーム、手前から片山洋(背番号2)、上久雄、山口芳忠、鎌田光夫、鈴木良三。背番号21はGK横山謙三

1968年メキシコ五輪アジア予選の公式プログラム(表紙)

1968年メキシコ五輪アジア予選の公式プログラム、日本代表メンバーの紹介ページ