日本サッカー人物史
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川本泰三 [Taizo KAWAMOTO]
日本サッカー殿堂
1914年1月17日、愛知県生まれ
早稲田大学卒業
同盟通信社入社後、1941年応召、シベリア抑留後、1949年帰還
川惣電機工業株式会社社長、川惣電材工業株式会社社長
戦前、戦後の日本を代表するストライカー
早稲田大学在学中に、日本代表選手として、第10回極東選手権大会(1934/マニラ)、第11回オリンピック競技大会(1936/ベルリン)に出場。対スウェーデン戦では、オリンピックでの日本人初ゴールを挙げた
第16回オリンピック競技大会(1956/メルボルン)では、コーチとしてチームを率いる。1958年には日本代表監督を務め、東京で開催された第3回アジア競技大会に出場
日本蹴球協会常務理事、大阪サッカー協会会長、関西サッカー協会会長を歴任
2005年 第1回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
編集中プロフィール
- 1914年(大正3年)1月17日 愛知県瀬戸市に生まれる
- 1921年(大正10年) 父・健吾、母・あき とともに大阪へ
- 1926年(大正15年) 大阪府立市岡中学校入学
- 1930年(昭和5年)1月 第12回全国中等学校蹴球選手権大会(現・全国高校サッカー選手権)に出場、準決勝で敗退
- 1931年(昭和6年)3月 市岡中学卒業、早稲田大学入学。高等学院(予科)1年から関東大学リーグに出場(3位)
- 1932年(昭和7年) 関東大学リーグでは早大は2位(1位は慶応大)
- 1933年(昭和8年)2月 東西選抜対抗に全関東代表で出場(東軍3−2)。関東大学リーグで早大優勝
- 1934年(昭和9年)5月 マニラでの第10回極東大会・日本代表(日本は1勝2敗)。関東大学リーグは早、慶両校の優勝
- 1935年(昭和10年)7月 日本、満州国交歓試合の日本代表に早大が選ばれ、満州各地で試合(7戦6勝1分け)。関東大学リーグは早大が3年連続優勝。東西学生王座(大学1位対抗)も3年連続して勝つ
- 1936年(昭和11年)8月 ベルリン・オリンピックに日本代表出場(対スウェーデン3−2、対イタリア0−8)。関東大学リーグ、4年連続優勝。東西学生王座も4連覇
- 1937年(昭和12年)3月 早大を卒業
4月 同盟通信社(現・共同通信社)に入社 - 1940年(昭和15年)6月 第1回東亜大会に日本代表出場。満州国(7−0)中国(6−0)フィリピン(1−0)に勝ち優勝
- 1941年(昭和16年)2月 第10回東西選抜対抗
3月 第11回東西OB対抗に関西代表で出場
8月 召集 - 1945年(昭和20年) 戦争終結。そのままシベリアで抑留生活
- 1949年(昭和24年)12月 シベリアから帰還
- 1950年(昭和25年)5月 川惣電気工業代表取締役に
- 1951年(昭和26年) 大阪サッカークラブを設立
5月 第31回天皇杯に出場し準優勝 - 1952年(昭和27年)5月 大阪クラブが天皇杯準優勝
- 1953年(昭和28年)5月 大阪クラブが天皇杯準優勝
- 1954年(昭和29年)3月 ワールドカップ(スイス大会)アジア予選、日本代表、韓国に敗れる
5月 第2回アジア大会(マニラ)日本代表は1次リーグ敗退 - 1956年(昭和31年)6月 メルボルン・オリンピック、代表コーチに。韓国を押さえ、本大会に出場(11月の本大会は1回戦敗退)
- 1957年(昭和32年) 日本サッカー協会常任理事
- 1958年(昭和33年) 第3回アジア大会・日本代表監督(1次リーグ敗退)
- 1964年(昭和39年)10月 東京オリンピックでの5、6位決定戦(FIFA主催、大阪トーナメント)招致
- 1975年(昭和50年) 関西サッカー協会副会長
- 1978年(昭和53年) 関西サッカー協会会長
- 1981年(昭和56年) 病床に就く
- 1985年(昭和60年)9月 死去
- 2005年(平成17年)5月27日 第1回日本サッカー殿堂入り
関連項目
- 私の記憶に残る4人のストライカーの個性
- 第3回 釜本邦茂(3)ボールを叩く力を基礎に着実に力を蓄えた大学時代
- 第5回 釜本邦茂(5)相手の脅威となった右足の振りの速さが左の進歩と成功を生む
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(下)
- 第6回 川本泰三(1)シュートの名人は消える
- 第7回 川本泰三(2)ボール扱いが始めで、ボール扱いがすべて
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(上)
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(中)
- 第8回 川本泰三(3)ボールを上から叩くシュートとディープ・センターフォワード
- “消える”ということ
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(下)
- 第9回 セルジオ越後(1)ボールテクニックの指導に新機軸
- どのポジションもこなした“天才”右近徳太郎
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター加藤正信(上)
- 二人の先輩に思う日本のストライカー
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(中)
- 第18回 竹腰重丸(4)後輩とともにベルリンの栄光 戦後の復興の先頭に立ち長沼・岡野の若いペアに託す
- 第21回 杉山隆一(3)メキシコへの道を開くゴールを決め、メキシコ銅メダルのゴールへのパスを送る
- 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(中)
- 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(下)
- 第26回 八重樫茂生(2)努力を重ねながら報われぬ4年のあとに充実のときを若い仲間とともに迎える
- 早稲田の“主” 工藤孝一(上)
- 後進地・岩手から銅メダル・チームのキャプテンを生み出した 工藤孝一(下)
- 第31回 右近徳太郎 戦野に散ったサッカー人。ベルリン逆転劇の2点目を決めた不思議な天才
- ゴールを奪うMFで優しい指導者 歴史を掘り起こした記者 岩谷俊夫
- 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(上)
- 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(中)
- 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(下)
- 【番外編】ワールドカップ一周年 日本サッカーの質の変化
- 第41回 二宮洋一(1)戦前のサッカー人気の中心として輝いたストライカー
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(上)
- 第44回 二宮洋一(3)プレーメーカーでストライカー。37歳で天皇杯決勝、延長4回3時間試合
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- “走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰
- 第53回 高橋英辰(1)70年代に“走る日立”を登場させ日本サッカーに世界を見せたロクさん
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- 新装の南運動場での中学選手権
- 1936年ベルリン・オリンピック「優勝候補スウェーデンと対戦」
- 1951年ヘルシングボーリュの来日「ベルリンの借りをかえそう」
- 1956年メルボルン・オリンピック「韓国との死闘を乗り越え20年ぶりの出場」
- 「川本泰三放談」とは
- 「5・3・2」も結構やけれど 各選手の分業化を考える時期
- PKは低く蹴れ! ユース日韓戦、日本の敗因をつく
- スタミナを浪費するな! ホットスパー戦の教訓
- クラマーからの脱皮 自分で考え、自分で工夫することが大事なのだ
- サッカー選手に欲しい素質 “外から見える素質”と“見えざる素質”
- 30年間早大を鍛えた鬼監督 工藤孝一氏の思い出
- サッカーの極意は選手が掴むもの ソウルでの敗因を探る
- ヤンマーの個性 日本代表との差はどこにある
- 選手をおだてる時代は終った 若手の活躍は釜本、小城らに支えられてのもの
- 五輪アイスホッケーに学ぶ サッカーのフィルターを通して見た共通点
- ベッケンバウアーとクライフ
- 日本のサッカーを強くするカギ 今の選手は練習量が足りなすぎる
- 強くなるためにはドリブルをマスターせよ 1日最低2時間の練習は必要だ
- 日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった
- なぜ日本選手は接触プレーを避ける ベルリン以後の3FBとの違い
- 守りを分散させたオールド・ファッションの3ウィング
- 戦前の代表的ストライカー 二宮洋一とボク自身……
- vs八重樫茂生 優秀な選手はボールを持ったら安心するものだ 〜すべての環境が整っているのになぜ日本は強くならないのか〜 <new!>
- GKのキャッチングとキック
- さらにタイミングについて
- 芸術の国のタレント集団
- 大理石のスタジアムでローマ、東京両五輪を想う
- メキシコへの旅は新しい経験と充足感に満ち名人との心の会話の中でマラドーナを思う
- vol.1 イタリア(上)
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- vol.22 スウェーデン
- シベリアから始まったスウェーデンへの旅
- サッカー 故里の旅 第7回 大金星だけで終わらないで。アトランタ、東京、ベルリン、30周年期の五輪
- あるスポーツ記者の回想 〜クラマー、釜本邦茂、そして神戸一中のこと〜 By富樫 洋一
- 天国のシュートの名人との会話
- 賀川浩「サッカーは世界とつきあう窓やね」 By田中J太郎
- サッカー人生はや半世紀 〜74年W杯から全大会を取材・賀川浩さん〜 By武智 幸徳
- 現場を好んだ技術史の"生き証人" 特別編 ロクさん、高橋さん
- 昭和初期のレベルアップ(5)
- 昭和初期のレベルアップ(6)
- ベルリン・オリンピック そのあとさき(4)
- 戦後の混乱と復興期に(4)
- スポーツ記者になって(1)
- スポーツ記者になって(3)
- 番外編 ヤンマーサッカーの生みの親 山岡浩二郎さん
- スポーツ記者になって(4)
- スポーツ記者になって(5)
- スポーツ記者になって(7)
- ローマ、東京、メキシコ(7)
- 番外編 コンフェデレーションズカップうちそと
- ローマ、東京、メキシコ(10)
- ローマ、東京、メキシコ(14)
- ローマ、東京、メキシコ(16)
- 世界の“常識”を求めて(2)
- 稲本潤一のゴールの余韻
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- エウゼビオ【特別編】「PKは落ち着いて、思い切って蹴るだけ」。上から叩くシュートは、低い弾道でゴールに飛び込んだ
- 【番外編】日本のストライカー 日本は、わずかな競技人口の時代にも良いストライカーを生み出してきた
- 釜本邦茂(3)17歳、高2でデットマール・クラマーと衝撃の出会い“北海道のクマのままじゃない”
- 釜本邦茂(7)弱者を強者への決意でJSL最下位ヤンマーへ。67年開幕戦デビューで2得点
- 釜本邦茂(9)68年1月13日、西ドイツへ単身留学。“ジョージ・ベストに匹敵”と2ヶ月後、豪州から届く称賛
- 釜本邦茂(18)メキシコ五輪3位決定戦。試合後にベッドへ倒れ込んで動かず、死力を尽くしたイレブンにクラマーも感動
- 釜本邦茂(20)病で消えたW杯のユメ。それでも衰えぬゴールへの意欲で円熟へ向かう
- 対カメルーン、労を惜しまぬ動きと36年、30年代表に見る日本サッカーの原点
- ドゥンガ、マラドーナの南米2強敗退。遠藤保仁のJ再開
- ウェイン・ルーニー(2)横浜で見せた3得点と、守備力、パスの巧みさと協調力
- ウェイン・ルーニー(13)好事魔多し、右足首捻挫で戦線離脱。早い回復を祈り、抑えの利いたシュートを見たい
- 極東1位を足場に充実をはかるJFA
- 政治問題が代表の一体化に影を落とし、上昇日本に「蘭印」の強パンチ
- 77年前のマニラでの警告を受け止め 2年後のベルリンを目指し個人力アップ
- さあベルリンを目指そう 早大に新しいストライカー、川本
- 選抜よりもナンバーワン早大主力に 攻撃力のある代表を36年ベルリンへ
- 東伏見で一人ボールを転がしつつ 猛練習にも耐え、力をつけた川本泰三
- 前半に0-2、絶望的な流れを 敏捷性と休みない活動で「ベルリンの奇跡」
- 本番での一勝だけだったが、 次への大きなステップとなった
- 日本的組織プレーとストライカー 30年と36年の成功の理由
- 五輪代表の進化を「東京」への始動 早慶の充実でサッカー人気が向上
- 濱田・ネルツ理論を受け継ぎ、新しいサッカーを目指した松丸・慶応
- 40年「東京」を目指す日本代表の腕試し 38年、対イズリントン・コリンシャンズ
- 東京五輪返上でも近代化進み、 中学チームも3FB、CF二宮も成長
- イランとの2日激闘に敗れ 戦争のブランクの大きさを知る
- 60年前、来日スウェーデンチームが もたらした驚き、世界潮流
- 力強さから技巧へ変化した スウェーデンに衝撃を受ける
- 若者たちにヨーロッパを感得させた 画期的な53年国際学生スポーツ週間への参加
- 優勢に戦いながら勝てなかった第2戦 半世紀に及ぶ日韓対決の歴史を予感
- 第2回アジア大会、日韓戦の反省を背負い 挽回を目指した日本代表だったが…
- 【番外編】近づくワールドカップ本番。走ることも、パス攻撃も、点を取ること、防ぐことが第一 〜85歳サッカー人のはるか昔の素人経験から〜
- 大戦中にもサッカーを続け、戦後の復興期に活躍。テレビで見せたかった“弾丸的”飛び込み戦中派レフティー 加納孝(下)
- インドネシアに初戦で完敗 新興国の向上の早さに後れをとる
- ベルリンの奇跡の日本代表 闘志あふれるDFで理論派監督 堀江忠男(上)
- 早大の連覇に貢献しマニラでの敗戦から日本の課題を鋭く指摘 堀江忠男(中)
- ドイツの批評家を驚かせたベルリン五輪代表FW 疾走中の見事なボール処理 加茂 健(中)
- ピアノを愛し、エンジニアを志し、早稲田でサッカーに打ち込んだ ベルリンの大逆転劇を担ったレフトインナー 加茂 健(下)
- 昔のメッシ、佐々木博和を育て 自主性とボール感覚の大切さを指導 近江達(下)
- 韓国の猛攻を食い止め メルボルン・オリンピック出場へ導いたDF 小沢 通宏(中)
- 大戦直後のサッカー再興とともに歩み 代表1試合出場で銅メダル獲得 則武 謙(下)
- 西邑昌一(上) 戦前の小兵の名手 関学と早大の名インサイド
- 日本中がペレに酔った(中) 44年前の5月26日 2点目に見た「王様の神髄」
- ベルリンオリンピック代表(続) 殿堂入りした個性豊かな19人
- 金容植 ベルリンオリンピックで活躍した韓国選手
- このくにとサッカー最終章にあたって
- 岡野俊一郎さんを偲ぶ
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東大合宿を終え、農学部正門前で。左から長沼健、川本泰三、賀川太郎、鴇田正憲
第2回アジア大会に向けた合宿(東大農学部グラウンド)。左端、前かがみの選手は岡田吉夫。その右隣から時計回りに杉本茂雄、二宮洋一、一人おいて左端下、川本泰三。立っている(右上)のは大埜正雄、左の眼鏡をかけているのが渡辺英麿。右下は長沼健
第2回アジア大会前の東京合宿で、川本泰三コーチ(左)と岩谷俊夫
第2回アジア大会選手村風景:宿舎でくつろぐ川本泰三(左)と加納孝
第2回アジア大会雑景:川本泰三コーチ(左)と鴇田正憲。マニラ湾で。
第2回アジア大会風景:リザールスタジアム前で。左から川本泰三コーチ、岡田吉夫、加納孝
第2回アジア大会風景:観客にまじって一人観戦する川本コーチ(右奥、眼鏡)
第2回アジア大会風景:陸上競技を観戦する面々。上段左から木村、杉本、川本コーチ、鴇田。同じく下段、大埜、松永
第2回アジア大会雑景:マニラ湾周遊
第2回アジア大会雑景:マニラ湾クルーズ。中央、お酒を酌み交わしている川本コーチ(コップ)と竹腰団長。その左、杉本茂雄(足を組んでいる)賀川太郎
第2回アジア大会雑景:マニラ湾周遊を終え、港にて
第2回アジア大会雑景:マニラ・ホテルの庭園で。後列左から賀川太郎、杉本茂雄、岡田吉夫、加納孝。同前列、川本泰三コーチ、鴇田正憲
1954年、第2回アジア大会(マニラ)のオフィシャルプログラム
1954年、第2回アジア大会(マニラ)の日本代表メンバーリスト。大会オフィシャルプログラムより
1954年第2回アジア大会サッカー日本代表。JOC作成大会報告書より
JOCが作成した1954年第2回アジア大会の報告書
ベルリン・オリンピック(1936年)の代表壮行会で挨拶する鈴木重義監督。1927年から10年間、代表チームのリーダーだった
“シュートの名人”川本泰三は釣りやゴルフの腕も相当なものだった
賀川浩(右)1971年頃。ベルリン五輪のCF川本泰三さん(左)に連れられ、よく釣りに出かけた
経由地の沖縄で。右から岡田吉夫、二宮洋一、加納孝、宮田孝治、しゃがんでいるのは川本泰三コーチ
1936年ベルリン五輪雑景:オリンピック村入村式
1936年ベルリン・オリンピックの日本代表。ドイツにて。後列左から7人目 川本泰三、その右・鈴木重義監督、右端は竹腰重丸コーチ
1936年ベルリン五輪開会式
1936年ベルリン五輪雑景:オリンピック村での国旗掲揚式
1953年オッフェンバッハとの日独交歓試合。後列右から村形繁明(審判)宮田孝治、福島玄一(審判)大埜正雄、岩谷俊夫、加茂健(審判)岡田吉夫、加藤信幸。前列右から松丸貞一(役員)賀川太郎、松永信夫、川本泰三、加納孝、GK津田幸男 ※日本チームのみ (C)日本サッカーミュージアム
1936年ベルリン五輪雑景:ベルリン市長を表敬訪問
1936年ベルリン五輪雑景:ベルリン到着
1936年ベルリン五輪雑景:練習を終え帰村、くつろいだ表情の日本代表選手たち
1936年ベルリン・オリンピック日本選手団、出国前の宮城遥拝
1936年ベルリン五輪出発前、明治神宮を参拝する日本選手団
“ベルリンの奇跡”1936年ベルリン五輪 日本対スウェーデンの公式記録
羽田空港にて。4月26日午前9時、マニラに向けて離日。右から川本コーチ、杉本、岡田、大谷
第2回アジア大会出発前、横山陽三マネージャーから説明を受ける日本代表の一陣
4月26日、日本代表がマニラに向けて出発。羽田の見送りの様子
第2回アジア大会入村式風景:日本代表団、国旗が揚がりました
第2回アジア大会選手村風景:食堂へ三々五々と向かうメンバー。奥に見えるのはカソリック教会
第2回アジア大会選手村風景:4月30日のランチメニュー。ビーフ、サラダ、ごはんorパン…
第2回アジア大会選手村風景:食堂は宿舎から500mほど歩いたところに
第2回アジア大会雑景:5月9日、大野公使による歓迎パーティ。海苔巻き、海老天、佃煮などたくさんの日本食でもてなしてもらった
第2回アジア大会雑景:岩谷俊夫。帰国日に行なわれた大野公使の歓迎パーティで。
第2回アジア大会雑景:帰国日の5月9日、大野公使の歓迎パーティに出席する日本代表チーム。右端、賀川太郎。その隣、竹腰重丸団長
第2回アジア大会雑景:5月9日、大野公使の歓迎パーティで。煙草をのむ(左から)川本泰三コーチ、加納孝、宮田孝治の3人
1956年6月、メルボルン五輪予選(後楽園競輪場)。左側、敬礼しているのは韓国代表。中央、白のスーツ姿は竹腰重丸監督。川本泰三コーチ、岩谷俊夫主将、小林忠生、大村和市郎、古川好男、小沢通宏、岩淵功、景山泰男、八重樫茂生、佐藤弘明、平木隆三、北口晃 (C)日本サッカーミュージアム
1956年6月、メルボルン五輪予選の前(後楽園競輪場)。後列左から竹腰重丸監督、長沼健、福原黎三、岩谷俊夫キャプテン、一人おいて鴇田正憲、GK古川好男、木村現(中腰)一人おいて岡本久敬、小林忠生(中腰)岩淵功、生駒友彦、小沢通宏(中腰)青木要三、三村恪一、川本泰三コーチ、賀川太郎、堺井秀雄。同前列、岡野俊一郎、木下勇マネージャー、八重樫茂生、内野正雄、景山(高森)泰男、北口晃、佐藤弘明 (C)日本サッカーミュージアム
川本泰三氏の長男、章夫氏。 (C) J. LEAGUE PHOTOS
日本サッカー殿堂第1回表彰式。前列左から釜本邦茂、八重樫茂生、長沼健、村形繁明、デットマール・クラマー、岡野俊一郎、平木隆三、杉山隆一の各受賞者。後列左端、川淵三郎JFAキャプテン
1936年ベルリン・オリンピック日本代表。後列右から川本泰三、松永行、加茂健、竹腰重丸コーチ、不破整、高橋豊二、佐野理平、右近徳太郎、金容植。前列右から西邑昌一、鈴木保男、竹内悌三、立原元夫、笹野積次、堀江忠男、種田孝一、工藤孝一コーチ
1954年、第2回アジア大会(マニラ)の日本代表。東京合宿での撮影。後列左から大埜正雄、渡部英麿、高林隆、二宮洋一、木村現、岩谷俊夫、鴇田正憲、土井田宏之、村岡博人、徳弘(現・水野)隆、川本泰三コーチ。前列左から、平木隆三、岡田吉夫、杉本茂雄、加納孝、松永信夫、宮田孝治、賀川太郎、長沼健
1956年メルボルン五輪予選、対韓国・第2戦のあと。抽選で本大会出場が決まり、歓喜の代表チーム。中央、メガネをかけているのは川本泰三コーチ
1953年に行なわれた日独交歓試合、対オッフェンバッハ戦のプログラム
1953年に行なわれた日独交歓試合、対オッフェンバッハ戦のプログラム(全日本代表)