日本サッカー人物史
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二宮洋一 [Hirokazu NINOMIYA]
日本サッカー殿堂
1917年11月22日、兵庫県生まれ
慶応義塾大学卒業
神戸一中(現県立神戸高校)、慶応義塾大学でプレーし、国内屈指のセンターフォワードとして活躍。神戸一中では、1934年に全国中等学校招待大会を含む4大会で優勝。慶大では、1937年からの関東大学リーグ4連覇をはじめ多くのタイトルを獲得し、慶応ソッカー部の黄金期を担う。また、戦前戦後を通じ、慶応大学、慶応BRBの主軸として全日本選手権7回優勝という偉業を成した
1951年、戦後初の国際大会である第1回アジア競技大会(ニューデリー)では選手兼監督として出場し、銅メダルを獲得。1954年には、ワールドカップ・スイス大会アジア予選、第2回アジア競技大会(マニラ)出場。その後は、オリンピック・メルボルン大会に向けた日本代表チームのコーチングスタッフを務めた。選手としての活躍だけでなく、代表監督としても卓越した指導力で日本サッカーの競技力向上に努めた功績は極めて大きい。Aマッチ出場5試合、1得点
また、慶大では、1952年に監督として関東大学リーグ、東西学生1位対抗戦ともに優勝、1969年には総監督として全国大学選手権優勝を果たした
JFA理事、監事、関東協会理事、関西協会理事、全国サッカークラブユース連合(U−18)会長、日本クラブジュニアユースサッカー連盟(U−15)会長、日本サッカー後援会理事長を歴任
2000年没
2006年 第2回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
編集中プロフィール
- 1917年11月22日 兵庫県に生まれる
- 1923年 御影師範付属小学校に入学
- 1929年 旧制・神戸一中に入学
- 1934年 神戸一中5年生のとき、夏の全国中等学校招待大会に優勝、公式試合15戦無敗
- 1935年 慶応大学(予科)に進む。予科1年から関東大学リーグに出場(リーグ4位)
- 1936年6月 日本選手権大会(現・天皇杯)に慶応BRBで優勝
秋 関東大学リーグは、ベルリン五輪代表を主力とする早大に敗れて2位(4勝1分け1敗) - 1937年6月 日本選手権大会に慶応大で優勝
秋 関東大学リーグ優勝、東西大学一位対抗にも京大を破って優勝 - 1938年 予科から大学に進む。日本選手権大会は決勝で早大に敗れる
秋 関東大学リーグは2連覇。東西大学一位対抗は開学に2−3で敗れる - 1939年6月 日本選手権大会に慶応BRBで優勝
秋 神宮大会の決勝でBRBは成興蹴球団(朝鮮地区代表)に0−3で負ける
関東大学リーグで3年連続優勝、東西大学一位対抗も4−2で関学に勝利 - 1940年5月 日本選手権大会に慶応BRBで連続優勝
秋 関東大学リーグ4年連続優勝。東西大学一位対抗も3−0で関学に勝利 - 1941年 慶応大学卒業
- 1942年 第1回興亜競技大会のサッカー日本代表となり優勝
陸軍に入隊、前橋の予備士官学校を経て任官 - 1945年 復員
- 1951年3月 第1回アジア競技大会の日本代表に監督兼選手として参加、出場、3位に
5月 仙台での第31回天皇杯で慶応BRBが優勝 - 1952年5月 第32回天皇杯で全慶応が優勝
- 1953年5月 第33回天皇杯で全慶応は3位
- 1954年3月 ワールドカップ・スイス大会極東地区予選、日本対韓国戦に日本代表として出場
5月 第2回アジア競技大会(マニラ)に日本代表として出場
5月 第34回天皇杯に慶応BRBで優勝、決勝の対東洋工業は延長4回、3時間の末、5−3の勝利だった
この年で第一線のプレーから退く - 1976年 日本サッカー協会監事に(〜86年)。JFA後援会会長、クラブ育成協議会会長などを務める
- 2000年3月7日 永眠
- 2006年5月23日 第2回日本サッカー殿堂入り
関連項目
- 昭和の大先達・竹腰重丸(下)
- 右45度からの得点
- どのポジションもこなした“天才”右近徳太郎
- 二人の先輩に思う日本のストライカー
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(上)
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(下)
- 天皇杯を7度も獲得した名ストライカー 二宮洋一(上)
- 天皇杯を7度も獲得した名ストライカー 二宮洋一(下)
- ゴールを奪うMFで優しい指導者 歴史を掘り起こした記者 岩谷俊夫
- 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(下)
- 【番外編】ワールドカップ一周年 日本サッカーの質の変化
- 第41回 二宮洋一(1)戦前のサッカー人気の中心として輝いたストライカー
- 第42回 番外編 フランツ・ベッケンバウアー 絶体絶命のピンチを切り抜けた“皇帝”
- 第43回 二宮洋一(2)中学生でショートパスを覚えストライカーの技を磨いて慶応義塾で開花した
- 第44回 二宮洋一(3)プレーメーカーでストライカー。37歳で天皇杯決勝、延長4回3時間試合
- “走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰
- 第53回 高橋英辰(1)70年代に“走る日立”を登場させ日本サッカーに世界を見せたロクさん
- 戦後10年、ウイングプレー一筋 センタリングの神様 鴇田正憲(下)
- 60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(上)
- 60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(中)
- JFA創立から20年間の急成長を彩った稀有のチームリーダー 松丸貞一(下)
- 天皇杯のきっかけとなった天覧試合
- ベッケンバウアーとクライフ
- 大いに見聞を広めよう
- 千差万別のスイングの中に基本がある
- なぜ日本選手は接触プレーを避ける ベルリン以後の3FBとの違い
- 守りを分散させたオールド・ファッションの3ウィング
- 戦前の代表的ストライカー 二宮洋一とボク自身……
- 戦前の代表的ストライカー 二宮洋一とボク自身……(続)
- メルボルン五輪大会で印象に残ったソ連・ブルガリア
- シベリア抑留の頃、我がサッカー不毛時代
- vol.1 イタリア(上)
- アベランジェ会長の24年
- 賀川浩「サッカーは世界とつきあう窓やね」 By田中J太郎
- サッカー人生はや半世紀 〜74年W杯から全大会を取材・賀川浩さん〜 By武智 幸徳
- 野球からサッカーへ
- ショートパス開花と天性のストライカー 特別編
- 大正末期のショートパス(3)
- 昭和初期のレベルアップ(6)
- 大戦争前の光彩(6)
- 戦後の混乱と復興期に(6)
- ローマ、東京、メキシコ(1)
- 番外編 コンフェデレーションズカップうちそと
- カイザースラウテルン→ニュルンベルク:この試合をうまくやるのではなく、この試合でうまくなることを
- 【番外編】日本のストライカー 日本は、わずかな競技人口の時代にも良いストライカーを生み出してきた
- 【番外編】大迫勇也とメキシコ得点王 しなやかで強い体と抜群のシュート力を成長期に懸命に、順調に伸ばした
- 五輪代表の進化を「東京」への始動 早慶の充実でサッカー人気が向上
- 濱田・ネルツ理論を受け継ぎ、新しいサッカーを目指した松丸・慶応
- 40年「東京」を目指す日本代表の腕試し 38年、対イズリントン・コリンシャンズ
- 「東京」を2年後に控え、早慶の連合FWで 英国アマの強チームに4-0
- 東京五輪返上でも近代化進み、 中学チームも3FB、CF二宮も成長
- 松丸 慶應は無敵の王者 情勢悪化の中で進化は続く
- 戦前のU-17全国中等学校選手権 1935年「夏」への移行
- 昭和天皇の「予想外」のお言葉に感激 天皇杯につながる47年4月3日
- イランとの2日激闘に敗れ 戦争のブランクの大きさを知る
- 60年前、来日スウェーデンチームが もたらした驚き、世界潮流
- 若者たちにヨーロッパを感得させた 画期的な53年国際学生スポーツ週間への参加
- 大統領の檄を背に韓国代表が大勝 57年前の日韓初戦悪条件下の決行に
- 第2回アジア大会、日韓戦の反省を背負い 挽回を目指した日本代表だったが…
- 【番外編】近づくワールドカップ本番。走ることも、パス攻撃も、点を取ること、防ぐことが第一 〜85歳サッカー人のはるか昔の素人経験から〜
- 左利きの本田圭佑の進化から。俊足、バネのある体で人気のあった草分け的レフティー 加納孝(上)
- 大戦中にもサッカーを続け、戦後の復興期に活躍。テレビで見せたかった“弾丸的”飛び込み戦中派レフティー 加納孝(下)
- 中等学校選手権大会で無失点優勝 天覧試合に3度出場した戦中派“マケレレ” 宮田孝治(中)
- 34歳で4日連続試合 現役を退いた後も16年間、チームを指導 老舗企業チームの最高の師表 宮田孝治(下)
- インドネシアに初戦で完敗 新興国の向上の早さに後れをとる
- チョウ・ディンの指導で神戸一中を開眼 51年第1回アジア大会に後輩10人を送り込む 時代の先頭を歩いたサッカー人 範多竜平(下)
- 大戦直後のサッカー再興とともに歩み 代表1試合出場で銅メダル獲得 則武 謙(下)
- Jリーグ・トップクラブでの ルーツに広島一中 岡野良定(下)
- 金子彌門 旧制中学生でサッカー、ラグビーの 全国大会二冠を目前に
- サッカーチームの監督とは?
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第2回アジア大会に向けた合宿(東大農学部グラウンド)。左端、前かがみの選手は岡田吉夫。その右隣から時計回りに杉本茂雄、二宮洋一、一人おいて左端下、川本泰三。立っている(右上)のは大埜正雄、左の眼鏡をかけているのが渡辺英麿。右下は長沼健

日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額された肖像プレート (C) J. LEAGUE PHOTOS

第2回アジア大会選手村風景:二宮洋一。自動販売機のコーラは1本10センタポスだった

1954年、第2回アジア大会(マニラ)のオフィシャルプログラム

1954年、第2回アジア大会(マニラ)の日本代表メンバーリスト。大会オフィシャルプログラムより

1954年第2回アジア大会サッカー日本代表。JOC作成大会報告書より

JOCが作成した1954年第2回アジア大会の報告書

昭和12年3月、第1回神戸一中クラブ東西対抗。前列左端が河本春男、中列2人目は大谷四郎。後列左から10人目、二宮洋一

第1回アジア選手権サッカー日本代表メンバー。前列左から賀川太郎、二宮洋一、加納孝。同2列目、鴇田正憲、宮田孝治。3列目中央、岩谷俊夫

第1回アジア競技大会(1951年)出発前に行なわれた歓送試合(大阪球場)

河本春男先生が編集発行した『神戸一中蹴球史』(1932年)

経由地の沖縄で。右から岡田吉夫、二宮洋一、加納孝、宮田孝治、しゃがんでいるのは川本泰三コーチ

第1回アジア競技大会(1951年)歓送会(兵庫県蹴球協会)

第1回アジア競技大会(1951年)日本対イラン、試合開始前の記念撮影(賀川太郎アルバムより)

第1回アジア大会雑景:ガンジーの墓を詣でる日本代表選手(岩谷俊夫アルバムより)

第1回アジア競技大会(1951年)出国前の結団式。三笠宮より秩父宮賜旗を受ける浅野団長(2月21日、体協)(岩谷俊夫アルバムより)

第2回アジア大会出発前、横山陽三マネージャーから説明を受ける日本代表の一陣

4月26日、日本代表がマニラに向けて出発。羽田の見送りの様子

第2回アジア大会入村式風景:日本代表団、国旗が揚がりました

第2回アジア大会選手村風景:食堂へ三々五々と向かうメンバー。奥に見えるのはカソリック教会

第2回アジア大会選手村風景:4月30日のランチメニュー。ビーフ、サラダ、ごはんorパン…

第2回アジア大会選手村風景:食堂は宿舎から500mほど歩いたところに

第2回アジア大会雑景:5月9日、大野公使による歓迎パーティ。海苔巻き、海老天、佃煮などたくさんの日本食でもてなしてもらった

第2回アジア大会雑景:岩谷俊夫。帰国日に行なわれた大野公使の歓迎パーティで。

第2回アジア大会雑景:帰国日の5月9日、大野公使の歓迎パーティに出席する日本代表チーム。右端、賀川太郎。その隣、竹腰重丸団長

1938年、関東大学リーグを2連覇した慶大イレブン。播磨・二宮のペアを軸とする攻撃が冴え、戦前の日本サッカー黄金期のトップに立とうとしていた。後列左端、二宮洋一。一人おいて右、GK津田幸男。前列左端は播磨幸太郎主将(アサヒスポーツ1938年12月第2号)

1940年、関東大学リーグ4連覇を達成した慶大イレブン。この年、天皇杯優勝、東西大学1位対抗にも勝って無敗を誇った。前列中央が加藤主将、その右、二宮洋一。後列左端、GK津田幸男(アサヒスポーツ1940年12月第1号)

明治神宮競技場で開催された昭和21年度東西対抗のパンフレット(左・表紙、右・裏表紙)

昭和21年度東西対抗のパンフレット。関東・関西両代表メンバー紹介ページ

1948年8月、戦後第1回目の日本代表合宿。前列左から中垣内勝久、加茂健、横山陽三、二宮洋一、宮本能冬、竹腰重丸、松丸貞一、加納孝、賀川太郎

1951年第1回アジア競技大会代表候補。前列左から松永碩、賀川太郎、則武謙、岩谷俊夫、二宮洋一、加納孝、鴇田正憲、和田津苗。後列左から鈴木、田村恵、岡田吉夫、津田幸男、宮田孝治、杉本茂雄、加藤信幸、堀口英雄、有馬洪、松永信夫

1951年、第1回アジア競技大会の日本代表選手。前列左端から竹腰重丸JFA理事、田辺五兵衛副会長、高橋龍太郎会長、範多竜平団長、野津謙理事、一人おいて小野卓爾理事。選手、左から則武謙、岡田吉夫、岩谷俊夫、堀口英雄、松永碩、有馬洪、賀川太郎、加藤信幸、加納孝、二宮洋一(監督・主将)鴇田正憲、宮田孝治、田村恵、杉本茂雄、津田幸男

1951年、第1回アジア競技大会(ニューデリー)の日本代表メンバー。後列左から岡田吉夫、鴇田正憲。右から加藤信幸、二宮洋一、加納孝、岩谷俊夫。前列左から津田幸男、和田津苗、田村恵、一人おいて有馬洪、宮田孝治、杉本茂雄、松永碩

第1回アジア競技大会報告書の表紙(財団法人日本体育協会発行)

1953年に行なわれた日独交歓試合、対オッフェンバッハ戦のプログラム

1953年に行なわれた日独交歓試合、対オッフェンバッハ戦のプログラム(全日本代表)

1954年、第2回アジア大会(マニラ)の日本代表。東京合宿での撮影。後列左から大埜正雄、渡部英麿、高林隆、二宮洋一、木村現、岩谷俊夫、鴇田正憲、土井田宏之、村岡博人、徳弘(現・水野)隆、川本泰三コーチ。前列左から、平木隆三、岡田吉夫、杉本茂雄、加納孝、松永信夫、宮田孝治、賀川太郎、長沼健