日本サッカー人物史
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篠島秀雄 [Hideo SHINOJIMA]
日本サッカー殿堂
1910年1月21日、栃木県生まれ
東京帝国大学卒業
三菱化成工業株式会社取締役社長、株式会社三菱化成生命科学研究所初代代表取締役
日本経営者団体連盟副会長
東京高等学校、東京帝国大学でプレー。帝大では、1930年度主将として東京カレッジリーグ5連覇を達成、帝大の黄金時代を築く(帝大は1931年まで6連覇)。また1930年には第9回極東選手権大会(東京)に出場、中華民国戦でゴールを決め、初の極東制覇という快挙を成し遂げた。戦前を代表する名プレーヤーの一人
JFAでは、戦後の復興期から財団法人化(1974年)にかけた経営的に困難な時代において、20年以上にわたり常務理事、理事長、副会長(1965年就任)を務め、日本代表の積極的な海外派遣や海外チームとの交流に力を注ぐなど、日本サッカーの再起、発展を支えた
会長就任を望む声も強かったが、自身の病気もあり、高校・大学以来の友人平井富三郎氏を推し、1975年に副会長を退任。副会長時代は関東協会会長も兼ねる
また、1968年、三菱商事の諸橋氏らとともにテレビ東京「三菱ダイヤモンド・サッカー」の放映を実現。情報の乏しかった時代に世界トップクラスのプレーを定期的に放送し、サッカーの普及、発展に大きく寄与。後の日本サッカー繁栄の種をまいた
1969年 藍綬褒章、1975年 勲一等瑞宝章
1975年没
2006年 第2回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
編集中プロフィール
- 1910年(明治43年)1月21日 栃木県日光市に生まれる
- 1916年(大正5年) 東京・青山小学校に入学。4年生のときに城南小学校に転入、クラス対抗の野球では投手を務めた
- 1921年(大正10年) 同小学校5年修了で、東京開成中学校を受験し入学
- 1922年(大正11年) 新設の東京高等学校尋常科(旧制中学)2年生に転入。ゴムボールを蹴って遊ぶ
- 1923年(大正12年)9月 関東大震災のために校舎が倒壊、移転して広いグラウンドで本格的にサッカーを始め、東高尋常科として関東大会などに出場
- 1925年(大正14年)3月 東高尋常科を卒業
4月 東高高等科文科甲類に進学 - 1926年(大正15年)1月 第4回全国高等学校(旧制)選手権大会(インターハイ)に出場、1回戦で明大予科に勝ち、準々決勝で早稲田高等学院(早高)に0−1で敗れた
- 1927年(昭和2年) 明治神宮大会兼日本選手権大会の関東予選で東高は1回戦で一高を破り、準決勝で当時、最強といわれた東大(竹腰重丸主将)を倒す大金星を挙げたが、予選決勝で早大に敗れた
- 1928年(昭和3年)3月 東高を卒業
4月 東大法学部法律学科に入学。サッカー部ではFWとして、30年まで関東大学リーグで3年連続優勝、通算5連覇を果たす - 1930年(昭和5年) 第9回極東大会に日本代表として出場。フィリピンに7−2で勝ち、中華民国と3−3で引き分け、中華民国と同率1位で東アジアのトップに立つ
- 1931年(昭和6年) 東大を卒業。三菱工業(現・三菱マテリアル)に入社
- 1941年(昭和16年)3月 田辺五兵衛商店(現・田辺三菱製薬)の専務に
6月 兵役に - 1942年(昭和17年)6月 召集解除
- 1945年(昭和20年)3月 田辺製薬を退社
11月 三菱化成工業(現・三菱化学)に入社 - 1952年(昭和27年) 日本サッカー協会(JFA)常務理事に就任
- 1955年(昭和30年)4月 同社取締役黒崎工場長に
- 1958年(昭和33年)3月 同社専務取締役
- 1959年(昭和34年)4月 日本経営者団体連盟(現・日本経済団体連合会)常任理事に就任
- 1960年(昭和35年) 経済同友会幹事に就任
- 1961年(昭和36年) JFA理事長に就任(〜65年)。東京オリンピックの成功に働く
9月 三菱化成取締役副社長に - 1964年(昭和39年)7月 同社取締役社長に就任
- 1965年(昭和40年) JFA副会長に就任(〜75年)
- 1968年(昭和43年)4月 東京12チャンネル(現・テレビ東京)のサッカー番組『三菱ダイヤモンド・サッカー』の放映が始まる。スポンサーは三菱グループ
- 1974年(昭和49年)5月 日経連副会長
7月 同社取締役会長 - 1975年(昭和50年)2月11日 急性心不全のため没。従三位勲一等瑞玉章
- 2006年(平成18年)5月23日 第2回日本サッカー殿堂入り
関連項目
- 昭和の大先達・竹腰重丸(中)
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(下)
- W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(中)
- 第49回 手島志郎(2)小兵を利して“すり抜けの名人”と言われた初代日本代表
- 75年前の日本代表初代ストライカー。すり抜ける名手 手島 志郎
- 50年前に活躍した日本人初のFIFA常任理事 市田左右一(上)
- 60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(上)
- 極東大会で活躍した名プレーヤー。JFAを支え、導いた 篠島秀雄(上)
- 第9回極東大会で中華民国と3−3を演じた最年少FW 篠島秀雄(下)
- 企業チームの部長としてチームをナンバーワンに。第7代JFA会長 島田秀夫
- 1936年ベルリン五輪 スウェーデン戦逆転劇のキャプテン 竹内悌三
- 30年極東大会、36年五輪。2つのビッグイベントを勝ち抜いた名FB 竹内悌三(続)
- 1930年極東大会「猛練習と担当による精神統一」
- 1930年極東大会「完全に体を使い果たすまで...」
- 旧制の全国高等学校大会は青春の気迫を現す場だった
- 戦前の代表的ストライカー 二宮洋一とボク自身……
- 神戸フットボールクラブ 20年のあゆみ
- 昭和初期のレベルアップ(2)
- 番外編 鹿島の優勝に創設J参入の決断を思う
- 友人の遺志を継ぎ、停滞期の日本サッカーのなかで赤字体質を改革。第5代JFA会長 平井富三郎(上)
- 「極東」で勝ち、オリンピックに向かうため JFAの改革と代表の体力キャンプ
- 小兵のストライカー、手島をはじめFWは東大の5人が並ぶ
- 「快走、好走、好連絡」でフィリピンを大破 初のハットトリックも
- 手島と篠島の働き、死力を尽くした竹腰 劇的な対中華民国3-3ドロー
- 死力を尽くして東アジア1位獲得 昭和5年代表に悲運のロス五輪
- 極東1位を足場に充実をはかるJFA
- 1930年の日本代表で初のハットトリック 夭折した“天才”FW 若林竹雄(上)
- チョー・デインに習い日本のレベルアップに貢献 若林竹雄(下)
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日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額された肖像プレート (C) J. LEAGUE PHOTOS

1930年 第9回極東大会の開会式(明治神宮競技場)

1930年 第9回極東大会の開会式(明治神宮競技場)

1930年 第9回極東大会の日本代表チーム。後列左から2人目から鈴木重義監督、一人おいて井出多米夫、杉村正三郎、高山忠雄、阿部鵬二、野沢正雄、竹腰重丸(主将兼コーチ)若林竹雄、春山泰雄、市橋時蔵、西村清。前列、本田長康、篠島秀雄、竹内悌三、後藤靭雄、手島志郎、斉藤才三

第9回極東大会の日本代表チーム、石神井合宿。後列左端が鈴木重義監督、前列右から3人目は竹腰重丸主将(アサヒスポーツ1930年5月15日号)※禁無断転載

1930年6月10日発行アサヒスポーツ臨時増刊「第9回極東大会特別号」の表紙。競技の1つであった野球の投手が描かれている ※禁無断転載

アサヒスポーツ「第9回極東大会特別号」の1ページ目。大会日程とその行事・成績の記事。中央の写真は総合優勝国(日本)が受けた大正天皇賜盃(アサヒスポーツ1930年6月10日号)※禁無断転載

第9回極東大会 蹴球の日本対フィリピン戦 ※禁無断転載

第9回極東大会蹴球、日本対中華民国戦。日本の左サイドからの攻撃シーン。明治神宮競技場のバックスタンド(土盛り芝生席)はギッシリ

石神井合宿より(アサヒスポーツ1930年5月15日号)※禁無断転載