日本サッカー人物史
日本サッカーアーカイブ ホーム > 日本サッカー人物史 > 鴇田正憲
鴇田正憲 [Masanori TOKITA]
日本サッカー殿堂
1925年6月24日、兵庫県生まれ
関西学院大学卒業
神戸一中(現・県立神戸高校)関西学院大学、田辺製薬でプレー。巧妙なドリブルとセンタリングを武器に大活躍した戦後最高の右ウィング
神戸一中では岩谷俊夫氏らとともに明治神宮大会の連覇(1941、42年)第1回橿原神宮大会優勝(1942年)を達成し、1943年度主将を務めた。戦後復学した関西学院大学では、関西学生リーグ2連覇や1948年の学生王座に貢献
田辺製薬では、入社1年目の1950年第3回全日本実業団選手権で初優勝、以後、神戸一中の先輩である賀川太郎氏との右サイドのコンビプレーを軸に大会6連覇(1957年まで通算7回優勝)を達成、94戦93勝1分けという無敗記録樹立の立役者となった。また、全日本選手権では、全関学(関学クラブ)の主軸として優勝4回
日本代表として、1951年第1回アジア競技大会(ニューデリー)1954年同第2回大会(マニラ)1954年ワールドカップスイス大会アジア予選に出場。1956年第16回オリンピック競技大会(メルボルン)アジア予選第1戦では最年長選手として出場、攻撃の起点として活躍し、アジアの強国韓国に初勝利する快挙に貢献した。チームの精神的な柱であり、主将としてオリンピック本大会出場。戦後復興期の日本サッカーを技術力と精神力で支え、次世代につなげた功労者の一人
Aマッチ出場12試合、2得点
2004年没
2006年 第2回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
編集中プロフィール
- 1925年 6月24日、神戸市に生まれる
- 1933年 神戸市立西灘小学校入学
- 1938年 同小学校卒業、神戸一中入学
- 1940年 同中学2年生でレギュラー、右ウイングに
全国中等学校選手権大会(現高校選手権)兵庫県大会決勝で神戸三中に敗れる - 1941年 3年生の夏、同兵庫県大会優勝(全国大会は中止)、秋の明治神宮大会で優勝
- 1942年 4年生の夏、第1回橿原神宮大会優勝、秋の明治神宮大会で優勝
- 1943年 神戸一中サッカー部主将に。夏の兵庫県大会優勝。全国大会は中止。秋の明治神宮大会も中止に
- 1944年 神戸一中卒業、関西学院大学に入学。サッカー部は活動中止に
- 1945年 陸軍に入隊、8月の終戦で復員。復学し、サッカー部も再開
- 1946年 第1回国体のサッカー決勝(11月、西宮球技場)に、西日本代表の関西学院大のメンバーで出場、東日本代表の東大LBを2−1で破る
- 1947年 関西学生リーグ優勝、東西学生1位対抗で早大に敗れる(1−4)。4月には東西対抗(全関東2−2全関西)天覧試合に出場
- 1948年 関西学生リーグ優勝、東西学生1位対抗で東大に勝つ(2−0)
第3回国体で全関学が優勝 - 1950年 第3回全日本実業団選手権で田辺製薬が初優勝
3月 関西学院大学を卒業、田辺製薬に入社
6月 第30回全日本選手権(現・天皇杯)に全関学で優勝 - 1951年3月 第1回アジア競技大会日本代表に(日本は3位)。第6回国体(広島)で関学クラブが優勝
全日本実業団選手権2連覇 - 1952年 全日本実業団選手権3連覇
- 1953年 全日本実業団選手権4連覇。第33回天皇杯(西京極)で全関学が優勝
- 1954年 ワールドカップ・アジア予選で韓国と対戦(1−5、2−2)、第2戦に出場
第2回アジア大会(マニラ)日本代表
全日本実業団選手権5連覇 - 1955年 第35回天皇杯(西宮競技場)で全関学が優勝。全日本実業団選手権6連覇
- 1956年6月 メルボルン五輪予選で韓国と対戦(2−0、0−2、抽選勝ち)、第1戦に出場
11月 メルボルン五輪に日本代表として参加(1回戦でオーストラリアに0−2で敗れる)
第9回関西実業団準決勝に勝ち、公式戦94戦無敗(93勝1分け)を記録。第9回全日本実業団選手権準優勝 - 1957年 第10回全日本実業団選手権優勝
- 1959年 35歳を超え、60年代に入っても田辺製薬、あるいは東京トリッククラブなどでプレーを楽しんだ。田辺製薬では新潟出張所所長、札幌支店長、本社取締役などを歴任
5月 第39回天皇杯(東京・小石川)で関学クラブが優勝 - 1986年 岡山・良互薬品社長
- 1990年 株式会社サンキ会長
- 1993年 退職
- 2004年3月5日 死去
- 2006年5月23日 第2回日本サッカー殿堂入り
関連項目
- 表彰パーティーとサグレス号
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(下)
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(下)
- 後進地・岩手から銅メダル・チームのキャプテンを生み出した 工藤孝一(下)
- 天皇杯を7度も獲得した名ストライカー 二宮洋一(上)
- 戦後10年、ウイングプレー一筋 センタリングの神様 鴇田正憲(上)
- 戦後10年、ウイングプレー一筋 センタリングの神様 鴇田正憲(下)
- 戦後10年、ウイングプレー一筋 センタリングの神様 鴇田正憲(続)
- 【番外編】サッカー界の歴史指向とS誌選定、日本代表ベスト50 釜本邦茂の1位に思う
- どん底の時代から栄光の銅メダルまで、日本代表を押し上げたピッチ上の主 平木隆三(下)
- 日本が生んだ国際クラスのゲームメーカー 八重樫茂生(上)
- 60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(上)
- 60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(中)
- 学徒出陣の中断期を乗り越え、クラマーを感嘆させた戦中派の代表 賀川太郎(下)
- 1956年メルボルン・オリンピック「不安と期待の若返り策」
- 千差万別のスイングの中に基本がある
- 高校大会にこつ然と現れ消えた幻のストライカー
- 守りを分散させたオールド・ファッションの3ウィング
- 賀川浩「サッカーは世界とつきあう窓やね」 By田中J太郎
- 昭和初期のレベルアップ(6)
- 大戦争に直面して(1)
- 戦後の混乱と復興期に(5)
- 戦後の混乱と復興期に(6)
- スポーツ記者になって(4)
- 韓国に一度も負けなかった 最後の古典的ウイング、鴇田正憲
- 神戸サッカー物語 vol.1
- 瓦礫の中からサッカー復興 大きなステップとなった天覧東西対抗
- 昭和天皇の「予想外」のお言葉に感激 天皇杯につながる47年4月3日
- イランとの2日激闘に敗れ 戦争のブランクの大きさを知る
- 60年前、来日スウェーデンチームが もたらした驚き、世界潮流
- 若者たちにヨーロッパを感得させた 画期的な53年国際学生スポーツ週間への参加
- 優勢に戦いながら勝てなかった第2戦 半世紀に及ぶ日韓対決の歴史を予感
- 第2回アジア大会、日韓戦の反省を背負い 挽回を目指した日本代表だったが…
- 34歳で4日連続試合 現役を退いた後も16年間、チームを指導 老舗企業チームの最高の師表 宮田孝治(下)
- インドネシアに初戦で完敗 新興国の向上の早さに後れをとる
- チョウ・ディンの指導で神戸一中を開眼 51年第1回アジア大会に後輩10人を送り込む 時代の先頭を歩いたサッカー人 範多竜平(下)
- 韓国の猛攻を食い止め メルボルン・オリンピック出場へ導いたDF 小沢 通宏(中)
- 日本のゴールキーパー(上)
フォトライブラリ
写真をクリックすると拡大表示されます。

東大合宿を終え、農学部正門前で。左から長沼健、川本泰三、賀川太郎、鴇田正憲

東京合宿の宿、かつら旅館で、杉本茂雄(右)と鴇田正憲夫妻

第2回アジア大会前、結団式で。左から鴇田正憲、岩谷俊夫、木村現

第2回アジア大会代表FWの精鋭たち。左から鴇田正憲、木村現、長沼健。結団式で。

日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額された肖像プレート (C) J. LEAGUE PHOTOS

第2回アジア大会選手村風景:杉本茂雄(左)。岩谷俊夫ら部屋のメンバーは睡眠中「Please Don't Disturb」

第2回アジア大会雑景:川本泰三コーチ(左)と鴇田正憲。マニラ湾で。

第2回アジア大会風景:陸上競技を観戦する面々。上段左から木村、杉本、川本コーチ、鴇田。同じく下段、大埜、松永

1956年メルボルン五輪予選前の合宿を訪ねて。代表の鴇田正憲選手(右)と賀川浩

第2回アジア大会雑景:ベイビュー・ホテルで。後列右から杉本茂雄、岩谷俊夫。同前列、賀川太郎、鴇田正憲、岡田吉夫

第2回アジア大会雑景:マニラ湾クルーズ、地下の冷蔵室で。左から岩谷俊夫、鴇田正憲、賀川太郎、加納孝

第2回アジア大会雑景:マニラ湾にて。右、鴇田正憲、左、岩谷俊夫。遠くにコレヒドール島とバターン半島が見える

第2回アジア大会雑景:マニラ・ホテルの庭園で。後列左から賀川太郎、杉本茂雄、岡田吉夫、加納孝。同前列、川本泰三コーチ、鴇田正憲

1954年、第2回アジア大会(マニラ)のオフィシャルプログラム

1954年、第2回アジア大会(マニラ)の日本代表メンバーリスト。大会オフィシャルプログラムより

1954年第2回アジア大会サッカー日本代表。JOC作成大会報告書より

JOCが作成した1954年第2回アジア大会の報告書

第1回アジア選手権サッカー日本代表メンバー。前列左から賀川太郎、二宮洋一、加納孝。同2列目、鴇田正憲、宮田孝治。3列目中央、岩谷俊夫

第1回アジア競技大会(1951年)出発前に行なわれた歓送試合(大阪球場)

河本春男先生が編集発行した『神戸一中蹴球史』(1932年)

第2回アジア大会選手村風景:宿舎は五人部屋。右から首魁鴇田正憲、徳弘(水野)隆、岩谷俊夫、木村現、長沼健

第1回アジア競技大会(1951年)歓送会(兵庫県蹴球協会)

第1回アジア競技大会(1951年)日本対イラン、試合開始前の記念撮影(賀川太郎アルバムより)

第1回アジア大会雑景:ガンジーの墓を詣でる日本代表選手(岩谷俊夫アルバムより)

第1回アジア競技大会(1951年)出国前の結団式。三笠宮より秩父宮賜旗を受ける浅野団長(2月21日、体協)(岩谷俊夫アルバムより)

第2回アジア大会に向け出発。大阪駅頭の鴇田正憲(左)と賀川太郎

第2回アジア大会に向けて、機上の人。機体は日航302便蔵王号DC4型機

第2回アジア大会出発前、横山陽三マネージャーから説明を受ける日本代表の一陣

4月26日、日本代表がマニラに向けて出発。羽田の見送りの様子

第2回アジア大会入村式風景:日本代表団、国旗が揚がりました

第2回アジア大会選手村風景:食堂へ三々五々と向かうメンバー。奥に見えるのはカソリック教会

第2回アジア大会選手村風景:4月30日のランチメニュー。ビーフ、サラダ、ごはんorパン…

第2回アジア大会選手村風景:食堂は宿舎から500mほど歩いたところに

第2回アジア大会雑景:5月9日、大野公使による歓迎パーティ。海苔巻き、海老天、佃煮などたくさんの日本食でもてなしてもらった

第2回アジア大会雑景:岩谷俊夫。帰国日に行なわれた大野公使の歓迎パーティで。

第2回アジア大会雑景:帰国日の5月9日、大野公使の歓迎パーティに出席する日本代表チーム。右端、賀川太郎。その隣、竹腰重丸団長

1956年6月、メルボルン五輪予選(後楽園競輪場)。左側、敬礼しているのは韓国代表。中央、白のスーツ姿は竹腰重丸監督。川本泰三コーチ、岩谷俊夫主将、小林忠生、大村和市郎、古川好男、小沢通宏、岩淵功、景山泰男、八重樫茂生、佐藤弘明、平木隆三、北口晃 (C)日本サッカーミュージアム

1956年6月、メルボルン五輪予選の前(後楽園競輪場)。後列左から竹腰重丸監督、長沼健、福原黎三、岩谷俊夫キャプテン、一人おいて鴇田正憲、GK古川好男、木村現(中腰)一人おいて岡本久敬、小林忠生(中腰)岩淵功、生駒友彦、小沢通宏(中腰)青木要三、三村恪一、川本泰三コーチ、賀川太郎、堺井秀雄。同前列、岡野俊一郎、木下勇マネージャー、八重樫茂生、内野正雄、景山(高森)泰男、北口晃、佐藤弘明 (C)日本サッカーミュージアム

鴇田正憲を偲ぶ会(2004年11月8日、ホテル竹園芦屋)。チームメートや後輩が発起人となり行なわれた

鴇田正憲を偲ぶ会(2004年11月8日)には、関学大の後輩でありメルボルン五輪代表の仲間だった長沼健・元JFA会長をはじめ、82人のサッカー人が集まった

2004年11月8日、鴇田正憲を偲ぶ会で(ホテル竹園芦屋)。前列左から岩谷俊夫夫人、鴇田夫人、長沼健元JFA会長。後列左から前野正氏、賀川浩

2004年11月8日、鴇田正憲を偲ぶ会で(ホテル竹園芦屋)。前列中央、長沼健 元JFA会長

鴇田(左) 賀川(太郎)のペアは、田辺製薬のユニフォームでも日本代表でも関西代表でも1950年代の右サイドとして群を抜く攻撃力だった

1942年全国大会優勝の神戸一中FW。後列左から岩谷俊夫主将、竹一能文、吉森宏之。前列左から鴇田正憲、皆木吉泰

明治神宮競技場で開催された昭和21年度東西対抗のパンフレット(左・表紙、右・裏表紙)

昭和21年度東西対抗のパンフレット。関東・関西両代表メンバー紹介ページ

1951年、第1回アジア競技大会の日本代表選手。前列左端から竹腰重丸JFA理事、田辺五兵衛副会長、高橋龍太郎会長、範多竜平団長、野津謙理事、一人おいて小野卓爾理事。選手、左から則武謙、岡田吉夫、岩谷俊夫、堀口英雄、松永碩、有馬洪、賀川太郎、加藤信幸、加納孝、二宮洋一(監督・主将)鴇田正憲、宮田孝治、田村恵、杉本茂雄、津田幸男

1951年第1回アジア競技大会代表候補。前列左から松永碩、賀川太郎、則武謙、岩谷俊夫、二宮洋一、加納孝、鴇田正憲、和田津苗。後列左から鈴木、田村恵、岡田吉夫、津田幸男、宮田孝治、杉本茂雄、加藤信幸、堀口英雄、有馬洪、松永信夫

1951年、第1回アジア競技大会(ニューデリー)の日本代表メンバー。後列左から岡田吉夫、鴇田正憲。右から加藤信幸、二宮洋一、加納孝、岩谷俊夫。前列左から津田幸男、和田津苗、田村恵、一人おいて有馬洪、宮田孝治、杉本茂雄、松永碩

第1回アジア競技大会報告書の表紙(財団法人日本体育協会発行)

昭和27年、第7回国民体育大会(宮城県)。田辺製薬チームが大阪府代表として出場し、優勝(前列左から藤本、岡村、津田、木下、恒藤、手島、和田。後列左から近藤、加藤、田辺五兵衛、宮田、西村、種田、鴇田、賀川、垂水、内田)

1954年、第2回アジア大会(マニラ)の日本代表。東京合宿での撮影。後列左から大埜正雄、渡部英麿、高林隆、二宮洋一、木村現、岩谷俊夫、鴇田正憲、土井田宏之、村岡博人、徳弘(現・水野)隆、川本泰三コーチ。前列左から、平木隆三、岡田吉夫、杉本茂雄、加納孝、松永信夫、宮田孝治、賀川太郎、長沼健

1956年メルボルン五輪予選、対韓国・第2戦のあと。抽選で本大会出場が決まり、歓喜の代表チーム。中央、メガネをかけているのは川本泰三コーチ

メルボルン五輪代表、関西の選手たち。左からMF大村和市郎、GK古川好男、FW北口晃、MF佐藤弘明、DF平木隆三、FW鴇田正憲