日本サッカー人物史
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岩谷俊夫 [Toshio IWATANI]
日本サッカー殿堂
1925年10月24日、兵庫県生まれ
早稲田大学卒業
神戸一中(現県立神戸高校)、早稲田大学でプレーし、学生ナンバーワンプレーヤーとして数々の偉業を達成。卒業後は、共同通信社、毎日新聞社でサッカー記者として活躍するとともに指導者としても功績を残す
1951年第1回アジア競技大会(ニューデリー)に出場し、3位決定戦のアフガニスタン戦で2得点を決め銅メダルに貢献。その後、1956年第16回オリンピック競技大会(メルボルン)アジア予選まで日本代表として活躍。同予選では、韓国と1勝1敗の引き分けの末、主将として抽選に臨み本選への出場を引き当てた。Aマッチ出場8試合、4得点
1955年ビルマ遠征日本代表チームコーチ、1960年第2回アジアユース大会では監督を務め3位。東京オリンピックに向けた選手強化本部では第一指導部長として、長沼・岡野体制をバックアップし、代表の強化に尽力した
1965年に関西協会技術委員長就任後は関西地区のサッカーの発展にも携わる
少年サッカーの普及にも情熱を注ぎ、神戸少年サッカースクールや大阪スポーツマンクラブ少年サッカースクールの設立、指導にも尽力し、少年サッカー指導の為全国を奔走した
また、『全国高校サッカー四十年史』(毎日新聞社、1962年)の編纂を手がけ、高校サッカーの歴史を今に伝えている
1970年没
2006年 第2回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
編集中プロフィール
- 1925年10月24日 神戸市灘区御影に生まれる
- 1932年 御影師範付属小学校に入学、低学年のころからサッカーに親しむ
- 1938年 神戸一中に入学。ア式蹴球部(サッカー部)に入り、4年生のときに明治神宮大会優勝、5年生(主将)のときには橿原神宮大会と明治神宮大会の二つの全国大会に優勝した
- 1943年 早稲田高等学院に入学、ア式蹴球部に入部
- 1945年7月 兵役
8月 病気のため除隊 - 1946年 早稲田に復学、秋の関東大学リーグに優勝、東西大学1位対抗でも神戸経済大を破り大学の王座に就く
- 1947年 関東大学リーグに優勝。東西大学1位対抗でも関西学院大を破って連続学生王座に
- 1948年 早大を卒業、三共製薬に入社したが秋に退社。11月に共同通信(大阪)に入り記者に
- 1951年2月 第1回アジア競技大会(ニューデリー)の日本代表。3位となる
5月 川本泰三の呼びかけに応じて結成した大阪クラブで天皇杯準優勝 - 1952年10月 共同通信を退社し、毎日新聞大阪本社へ
- 1954年3月 ワールドカップ・スイス大会予選、日韓戦第2戦に出場
5月 第2回アジア競技大会(マニラ)に日本代表として参加 - 1956年6月 メルボルン・オリンピック予選対韓国戦で、日本代表チームのキャプテンを務める。1勝1敗、抽選勝ち。ただし、メルボルンでの本大会へは自身は不参加
- 1960年 第2回アジアユース大会の日本代表監督に
- 1962年 『全国高校サッカー初年史』(毎日新聞社)を編集、出版
- 1964年 冬の東南アジア遠征日本代表チームの団長を務める。このチームの監督は長沼健、コーチは岡野俊一郎。そのまま2人が東京オリンピックの監督、コーチとなる
- 1965年 4月開校の神戸少年サッカースクール、10月に開いた大阪スポーツマンクラブ少年サッカースクールの主任コーチに
- 1966年6月 神戸一中、神戸高校サッカー部史『ボールを蹴って50年』を発行
11月 毎日新聞に『サッカー教室』を連載 - 1967年 新聞紙上に連載して好評だった『サッカー教室』をまとめ、4月に『サッカーの教え方、学び方』(毎日新聞社)を出版
- 1968年2月 毎日新聞社東京本社に転勤
- 1969年4月 肺の異常を認め、6月11日、国立がんセンターに入院
7月31日、退院。10月17日、再入院。12月に手術し、いったんは帰宅 - 1970年1月 全国高校サッカー選手権で、自分が指導した浦和南高の優勝と長男・省吾の活躍を病床で聞く
1月8日、入院。3月1日、永眠、44歳7ヶ月の生涯を閉じた - 2006年5月23日 第2回日本サッカー殿堂入り
関連項目
- 第1回 釜本邦茂(1)足のシュートもヘディングシュートもボールを注視した
- 表彰パーティーとサグレス号
- 第3回 釜本邦茂(3)ボールを叩く力を基礎に着実に力を蓄えた大学時代
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(下)
- 二人の先輩に思う日本のストライカー
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(中)
- 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(中)
- 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(下)
- ゴールを奪うMFで優しい指導者 歴史を掘り起こした記者 岩谷俊夫
- 【番外編】ワールドカップ一周年 日本サッカーの質の変化
- W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(中)
- 最初のショートパス経験者 昭和5年の日本代表 校長でサッカー・コーチ 高山忠雄
- 戦後10年、ウイングプレー一筋 センタリングの神様 鴇田正憲(上)
- 戦後10年、ウイングプレー一筋 センタリングの神様 鴇田正憲(下)
- 戦後10年、ウイングプレー一筋 センタリングの神様 鴇田正憲(続)
- どん底の時代から栄光の銅メダルまで、日本代表を押し上げたピッチ上の主 平木隆三(下)
- 60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(上)
- 第3回アジア大会決勝で主審を務め、日本レフェリーの国際舞台への第一歩を記した 村形繁明
- 1956年メルボルン・オリンピック「不安と期待の若返り策」
- 「川本泰三放談」とは
- 30年間早大を鍛えた鬼監督 工藤孝一氏の思い出
- 高校大会にこつ然と現れ消えた幻のストライカー
- 戦前の代表的ストライカー 二宮洋一とボク自身……
- 加藤正信先生のこと
- ”何も失わない”PK戦を制したGKの開き直り
- 神戸フットボールクラブ 20年のあゆみ
- あるスポーツ記者の回想 〜クラマー、釜本邦茂、そして神戸一中のこと〜 By富樫 洋一
- 賀川浩「サッカーは世界とつきあう窓やね」 By田中J太郎
- ベルリン・オリンピック そのあとさき(4)
- 大戦争前の光彩(10)
- 大戦争に直面して(3)
- 戦後の混乱と復興期に(3)
- 番外編 鹿島の優勝に創設J参入の決断を思う
- 戦後の混乱と復興期に(6)
- スポーツ記者になって(1)
- スポーツ記者になって(4)
- ローマ、東京、メキシコ(3)
- メキシコの余韻の中で(2)
- メキシコの余韻さめて
- 日韓共催で胸に去来するもの
- 旧友の死から思い起こす、両国のきずな
- 神戸サッカー物語 vol.1
- 神戸→ミュンヘン:色々とあったが、とうとうミュンヘンへやってきた。81歳の旅が始まる
- ミュンヘン→ライト・イン・ビンクル:「ジーコは間違っていない」クラマーは説く
- 釜本邦茂(2)高1、16歳の、ヒョロリとして、何とも言えぬ魅力を秘めていた日本代表の得点記録ナンバーワン
- 釜本邦茂(3)17歳、高2でデットマール・クラマーと衝撃の出会い“北海道のクマのままじゃない”
- 釜本邦茂(4)早大1年から大学リーグ得点王。長期合宿で鍛えて、20歳でオリンピック代表CFに
- 釜本邦茂(7)弱者を強者への決意でJSL最下位ヤンマーへ。67年開幕戦デビューで2得点
- 大戦2年目、不思議なスポーツ扱い 1年だけの橿原大会も
- 瓦礫の中からサッカー復興 大きなステップとなった天覧東西対抗
- イランとの2日激闘に敗れ 戦争のブランクの大きさを知る
- 60年前、来日スウェーデンチームが もたらした驚き、世界潮流
- 若者たちにヨーロッパを感得させた 画期的な53年国際学生スポーツ週間への参加
- 優勢に戦いながら勝てなかった第2戦 半世紀に及ぶ日韓対決の歴史を予感
- 第2回アジア大会、日韓戦の反省を背負い 挽回を目指した日本代表だったが…
- 【番外編】近づくワールドカップ本番。走ることも、パス攻撃も、点を取ること、防ぐことが第一 〜85歳サッカー人のはるか昔の素人経験から〜
- インドネシアに初戦で完敗 新興国の向上の早さに後れをとる
- チョウ・ディンの指導で神戸一中を開眼 51年第1回アジア大会に後輩10人を送り込む 時代の先頭を歩いたサッカー人 範多竜平(下)
- 韓国の猛攻を食い止め メルボルン・オリンピック出場へ導いたDF 小沢 通宏(中)
- 岡野俊一郎さんを偲ぶ
- 日本のゴールキーパー(上)
フォトライブラリ
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第2回アジア大会前の東京合宿。練習後、かつら旅館の前でボール磨きをする若手選手たちと、岩谷俊夫(左)
第2回アジア大会前の東京合宿で、川本泰三コーチ(左)と岩谷俊夫
第2回アジア大会前、結団式で。左から鴇田正憲、岩谷俊夫、木村現
第2回アジアユース大会、日本代表のメンバープログラム
岩谷俊夫。第2回アジア大会前、結団式で。
日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額された肖像プレート (C) J. LEAGUE PHOTOS
第2回アジア大会選手村風景:宿舎でくつろぐ岩谷俊夫
第2回アジア大会選手村風景:杉本茂雄(左)。岩谷俊夫ら部屋のメンバーは睡眠中「Please Don't Disturb」
第2回アジア大会雑景:岩谷俊夫。マニラ市街を背に
1954年第2回アジア大会のとき、リザールスタジアム前で。左:岩谷俊夫、右:岡田吉夫
第2回アジア大会雑景:ベイビュー・ホテルで。後列右から杉本茂雄、岩谷俊夫。同前列、賀川太郎、鴇田正憲、岡田吉夫
第2回アジア大会雑景:マニラ湾クルーズ、地下の冷蔵室で。左から岩谷俊夫、鴇田正憲、賀川太郎、加納孝
第2回アジア大会雑景:マニラ湾にて。右、鴇田正憲、左、岩谷俊夫。遠くにコレヒドール島とバターン半島が見える
第2回アジア大会雑景:マニラ湾周遊
第2回アジア大会雑景:マニラ湾クルーズ。中央、お酒を酌み交わしている川本コーチ(コップ)と竹腰団長。その左、杉本茂雄(足を組んでいる)賀川太郎
第2回アジア大会雑景:マニラ湾周遊を終え、港にて
1954年、第2回アジア大会(マニラ)のオフィシャルプログラム
1954年、第2回アジア大会(マニラ)の日本代表メンバーリスト。大会オフィシャルプログラムより
1954年第2回アジア大会サッカー日本代表。JOC作成大会報告書より
JOCが作成した1954年第2回アジア大会の報告書
第1回アジア選手権サッカー日本代表メンバー。前列左から賀川太郎、二宮洋一、加納孝。同2列目、鴇田正憲、宮田孝治。3列目中央、岩谷俊夫
第1回アジア競技大会(1951年)出発前に行なわれた歓送試合(大阪球場)
第2回アジアユース大会、日本代表のメンバー表(表紙)
河本春男先生が編集発行した『神戸一中蹴球史』(1932年)
第2回アジア大会選手村風景:宿舎は五人部屋。右から首魁鴇田正憲、徳弘(水野)隆、岩谷俊夫、木村現、長沼健
第1回アジア競技大会(1951年)歓送会(兵庫県蹴球協会)
1953年オッフェンバッハとの日独交歓試合。後列右から村形繁明(審判)宮田孝治、福島玄一(審判)大埜正雄、岩谷俊夫、加茂健(審判)岡田吉夫、加藤信幸。前列右から松丸貞一(役員)賀川太郎、松永信夫、川本泰三、加納孝、GK津田幸男 ※日本チームのみ (C)日本サッカーミュージアム
第1回アジア競技大会(1951年)日本対イラン、試合開始前の記念撮影(賀川太郎アルバムより)
第1回アジア大会雑景:ガンジーの墓を詣でる日本代表選手(岩谷俊夫アルバムより)
1955年ビルマ遠征のとき。後列左から2人目より竹腰重丸団長、岩淵功、佐藤弘明、GK生駒友彦、三村恪一、景山(高森)泰男、高林隆、青木要三。前列左から岩谷俊夫監督、福原黎三、木村現、平木隆三、岡野俊一郎、田中雍和、岡本久敬、内野正雄 (C)日本サッカーミュージアム
第1回アジア大会雑景:1951年2月19日、大阪駅頭にて。第1回アジア大会のため上京する岩谷俊夫(右)と賀川太郎
第1回アジア競技大会(1951年)出国前の結団式。三笠宮より秩父宮賜旗を受ける浅野団長(2月21日、体協)(岩谷俊夫アルバムより)
第1回アジア大会雑景:1951年2月25日(羽田)アジア大会に向け出発。右、賀川太郎。左、岩谷俊夫
第1回アジア大会雑景:賀川太郎(左)。アジア大会に向かう機内にて
岩谷俊夫(左端)。1954年4月23日、アジア大会出発前に家族とともに
アジア大会出発前。岩谷俊夫と長男省吾
岩谷俊夫。4月23日、大阪駅で。抱っこで長男省吾とお別れ
羽田空港にて。4月26日午前9時、マニラに向けて離日。右から川本コーチ、杉本、岡田、大谷
第2回アジア大会に向けて、機上の人。機体は日航302便蔵王号DC4型機
第2回アジア大会出発前、横山陽三マネージャーから説明を受ける日本代表の一陣
4月26日、日本代表がマニラに向けて出発。羽田の見送りの様子
第2回アジア大会入村式風景:日本代表団、国旗が揚がりました
第2回アジア大会選手村風景:食堂へ三々五々と向かうメンバー。奥に見えるのはカソリック教会
第2回アジア大会選手村風景:4月30日のランチメニュー。ビーフ、サラダ、ごはんorパン…
第2回アジア大会選手村風景:食事を終えくつろぐ4選手。左から岩谷俊夫、杉本茂雄、宮田孝治、大埜正雄
第2回アジア大会選手村風景:食堂は宿舎から500mほど歩いたところに
第2回アジア大会雑景:5月9日、大野公使による歓迎パーティ。海苔巻き、海老天、佃煮などたくさんの日本食でもてなしてもらった
第2回アジア大会雑景:岩谷俊夫。帰国日に行なわれた大野公使の歓迎パーティで。
第2回アジア大会雑景:帰国日の5月9日、大野公使の歓迎パーティに出席する日本代表チーム。右端、賀川太郎。その隣、竹腰重丸団長
1956年6月、メルボルン五輪予選(後楽園競輪場)。左側、敬礼しているのは韓国代表。中央、白のスーツ姿は竹腰重丸監督。川本泰三コーチ、岩谷俊夫主将、小林忠生、大村和市郎、古川好男、小沢通宏、岩淵功、景山泰男、八重樫茂生、佐藤弘明、平木隆三、北口晃 (C)日本サッカーミュージアム
1956年6月、メルボルン五輪予選の前(後楽園競輪場)。後列左から竹腰重丸監督、長沼健、福原黎三、岩谷俊夫キャプテン、一人おいて鴇田正憲、GK古川好男、木村現(中腰)一人おいて岡本久敬、小林忠生(中腰)岩淵功、生駒友彦、小沢通宏(中腰)青木要三、三村恪一、川本泰三コーチ、賀川太郎、堺井秀雄。同前列、岡野俊一郎、木下勇マネージャー、八重樫茂生、内野正雄、景山(高森)泰男、北口晃、佐藤弘明 (C)日本サッカーミュージアム
2005年11月14日、「日本におけるドイツ年」にて。左から岩谷俊夫の次男・砂田氏、岩谷夫人、クラマー、河本武ユーハイム社長、賀川浩
2010年9月、第7回掲額式典。左から賀川浩、原博実JFA技術委員長、小倉純二JFA会長、岩谷俊夫氏次男の砂田純二氏、本多克己氏
1941年夏、神戸一中が兵庫県中学校大会で優勝。4試合で岩谷(下)5点、賀川(上)が6点、合計11点をとった記念に
神戸一中時代。1941年夏、兵庫県大会で優勝した賀川浩(後)と岩谷俊夫
1942年全国大会優勝の神戸一中FW。後列左から岩谷俊夫主将、竹一能文、吉森宏之。前列左から鴇田正憲、皆木吉泰
明治神宮競技場で開催された昭和21年度東西対抗のパンフレット(左・表紙、右・裏表紙)
1951年第1回アジア競技大会代表候補。前列左から松永碩、賀川太郎、則武謙、岩谷俊夫、二宮洋一、加納孝、鴇田正憲、和田津苗。後列左から鈴木、田村恵、岡田吉夫、津田幸男、宮田孝治、杉本茂雄、加藤信幸、堀口英雄、有馬洪、松永信夫
昭和21年度東西対抗のパンフレット。関東・関西両代表メンバー紹介ページ
1951年、第1回アジア競技大会の日本代表選手。前列左端から竹腰重丸JFA理事、田辺五兵衛副会長、高橋龍太郎会長、範多竜平団長、野津謙理事、一人おいて小野卓爾理事。選手、左から則武謙、岡田吉夫、岩谷俊夫、堀口英雄、松永碩、有馬洪、賀川太郎、加藤信幸、加納孝、二宮洋一(監督・主将)鴇田正憲、宮田孝治、田村恵、杉本茂雄、津田幸男
1951年、第1回アジア競技大会(ニューデリー)の日本代表メンバー。後列左から岡田吉夫、鴇田正憲。右から加藤信幸、二宮洋一、加納孝、岩谷俊夫。前列左から津田幸男、和田津苗、田村恵、一人おいて有馬洪、宮田孝治、杉本茂雄、松永碩
第1回アジア競技大会報告書の表紙(財団法人日本体育協会発行)
1953年に行なわれた日独交歓試合、対オッフェンバッハ戦のプログラム
1953年に行なわれた日独交歓試合、対オッフェンバッハ戦のプログラム(全日本代表)
1954年、関西選抜対タイの華人チーム・維和(西宮球技場)。相手GK(右端)の前でハイボールを処理する賀川太郎。その右、岩谷俊夫。左端は木村現。
1954年、第2回アジア大会(マニラ)の日本代表。東京合宿での撮影。後列左から大埜正雄、渡部英麿、高林隆、二宮洋一、木村現、岩谷俊夫、鴇田正憲、土井田宏之、村岡博人、徳弘(現・水野)隆、川本泰三コーチ。前列左から、平木隆三、岡田吉夫、杉本茂雄、加納孝、松永信夫、宮田孝治、賀川太郎、長沼健
1956年6月10日、メルボルン・オリンピック予選の対韓国戦(第2戦)。1勝1敗のあとの抽選で、日本が出場権を得た。右から2人目が竹腰重丸監督、その隣、岩谷俊夫主将、西本修吉氏。中央で抽選の箱を掲げるのは松丸貞一JFA理事。
1956年メルボルン五輪予選、対韓国・第2戦のあと。抽選で本大会出場が決まり、歓喜の代表チーム。中央、メガネをかけているのは川本泰三コーチ
1965年の神戸少年サッカースクールで、デットマール・クラマー コーチ(中央)とともに。右は加藤正信ドクター、左は岩谷俊夫コーチ