日本サッカー人物史
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内野台嶺 [Tairei UCHINO]
日本サッカー殿堂
1884年4月29日、神奈川県生まれ
幼名 城田作三
東京高等師範学校卒業、漢文学者。東京高等師範学校教授・東京文理科大学教授、駒澤大学文学部長、曹洞宗大乗寺住職
東京高等師範学校(以下、高師)で校友会蹴球部部長を務めていた1919年、大日本体育協会会長・高師校長の嘉納治五郎氏とともにイングランド協会より FAカップを受領。英国大使館のヘーグ書記官らからイングランド協会の運営や大会規約等について教示を受け、組織作りに尽力するとともに会長の決定(初代会長に今村次吉氏就任)にも奔走するなど、1921年のJFA創設に無尽の貢献をした。JFA創設後も初代理事の一人として運営の中心を担った
また、 1931年に採用されたJFAのシンボルマーク「三本足烏」は、内野らの発案を日奈子実三氏がまとめたものである
高師在学時から選手としてだけでなく指導にも携わり、1909年に赴任した豊島師範学校やその後教鞭をとった高師では、部の強化を図りサッカーの普及に努めた
1917年、高師、豊島、青山の三師範を中心としたわが国初のクラブチーム「東京蹴球団」を結成させ、日本サッカーの底上げと普及に力を注ぎ、学校中心であったサッカー界に新風をもたらした
1918年に東蹴主催で始まった関東蹴球大会では大会委員長を務めるなど関東のサッカーの発展にも尽力し、後、関東協会会長を務めた
1941年 勲三等瑞宝章
1953年没
2006年 第3回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
JFA創設や東京蹴球団の結成 組織作りに力を尽くした漢学者
内野台嶺(うちの・たいれい)先生は、1884年(明治27年)4月29日生まれだから、始祖・坪井先生より33歳若いのだが、幕末生まれの坪井さんが英語の達人であったのに対して、内野さんは漢学者で『孟子新譯』をはじめ多くの漢籍の著作もあることで知られている。
神奈川県の生まれで、14歳のとき生家に近い曹洞宗大乗寺の養子となり、城田作三の名を内野台嶺と改めている。
サッカーにかかわるのは東京の私立郁文館中学校を卒業して東京高等師範(高師)に入ってから。1905年(明治38年)、すでに高師にはフットボールがあって、2年前(明治36年、1903年)には『アッソシエーションフットボール』(鐘美堂)を出版していた。上級生にはのちに名古屋での普及に力のあった堀桑吉たちがいて、部長が坪井玄道教授だった。
4年間、内野さんは学業とサッカーに打ち込む。明治40年12月22日の対横浜外人クラブとの試合のハーフバックに名があり、また、慶応義塾の50周年記念祭のサッカー試合に招かれるなど、レギュラーとして十分楽しんだ。
国語漢文部を卒業(1909年)すると、東京の豊島師範の教諭となり、ここで熱心にサッカーを指導。青山師範に一歩劣るとされていた同校を互角に引き上げる基礎をつくるが、勉強家の内野さんは再び高師の専攻科に進み(1911〜1913年)修了後は学校に講師として留まり、やがて教授に――。
大正6年に東京・芝浦で第3回極東大会が開催され、日本サッカーは初の国際舞台を経験する。高師のメンバーで出場した代表チームは中華民国にもフィリピンにも大敗した。
ひとつの学校の、それも学生チームでは――と、内野さんは青山師範、豊島師範、高師の卒業生たちに呼びかけて、新しいクラブ「東京蹴球団」を結成した。卒業後もプレーを続け、日本のレベルアップの先頭に立とう、という内野さんの提唱に賛同した東京蹴球団は次の年、初めての関東蹴球大会を企画する。朝日新聞の後援もあって、高師校庭でのこの大会に、宮様方や英国大使が臨席するという盛況になった。
この関東大会と同じころ、名古屋と大阪でも大会が開かれたことが英国に伝わり、FA(フットボールアソシエーション)からシルバーカップを送ってくる。
それがきっかけで、今度は日本のFAをつくることになり、嘉納治五郎校長の指示で内野先生が中心になって働き、1921年(大正10年)9月10日に大日本蹴球協会が創設されたのだった。東京蹴球団という新しい仕掛けから次々に初期日本サッカーの組織づくりが進み、その中心に内野さんがいた。 1931 年(昭和6年)に製作された協会のシンボルマーク「三本足のカラス」も、内野さんの造詣から生まれたものだった。
「淮南子(えなんじ)」をはじめ、いくつかの漢籍にあるとおり、中国では太陽のなかに烏(カラス)がいると古来から信じられていて、その三本足のカラスを図案にと考えたという。奇抜な形ながら、気宇壮大なシンボルマークを漢学者は残してくれた。
プロフィール
- 1884年(明治17年) 4月29日、神奈川県に生まれる
- 1898年(明治31年) 5月、生家に近い大乗寺住職、内野眠嶺の養子となり、城田作三を内野台嶺と改名
- 1905年(明治38年) 4月、東京高等師範学校(現・筑波大)予科入学
- 1909年(明治42年) 3月、同校本科国語漢文部卒業
4月、東京府豊島師範学校(現・東京学芸大)教諭 - 1911年(明治44年) 4月、東京高等師範学校専攻科入学
- 1913年(大正2年) 3月、同校修身漢文部卒業
4月、同校漢文科講師 - 1920年(大正9年) 同校教授
- 1932年(昭和7年) 東京文理科大学(現・筑波大)教授兼東京高等師範学校教授
- 1940年(昭和15年) 3月、東京文理科大学漢文学研究主任
- 1946年(昭和21年) 同校教授を退任
- 1947年(昭和22年) 駒澤大学教授
- 1953年(昭和28年) 12月24日死去、69歳
関連項目
- 殿堂入り歴代会長と第6代藤田静夫(上)
- 大日本蹴球協会(JFA)設立、全日本選手権開催。大正年間に組織作りを成功させた漢学者・内野台嶺
- メキシコ・オリンピックの8ヶ月前に釜本邦茂の劇的開花を助けた西独の名コーチ ユップ・デアバル
- 自らプレーヤーで指導者でもありサッカーに生涯を捧げた記者 山田午郎
- 日本サッカーの創生期から発展期まで、歴史とともに生きて歴史を伝えた大先達 新田純興(上)
- JFA創立に関わり、ベルリン行きを支援。“東京”成功の裏方を務め、50年史を世に残した 新田純興(下)
- 厳しいコーチをバックアップし代表チームに栄冠を呼んだ監督 鈴木重義(下)
- 自らは優れたランナー。体協の筆頭理事で募金活動に腕を振るったJFA初代会長 今村次吉
- 全日本選手権のはじまりは、英国から寄贈された銀カップ
- 英国大使館の助力で関東大会開催。FAからの銀盃寄贈がJFA創設を促進
- JFA初代会長、今村次吉は不忍池周回競争の裸足のランナー
- 日本サッカーを応援、バックアップした FIFA会長 サー・スタンレー・ラウス(上)
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日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額された肖像プレート (C) J. LEAGUE PHOTOS
内野台嶺先生
内野先生の発想を生かしたJFAのエンブレム、三本足のカラス