日本サッカー人物史
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賀川太郎 [Taro KAGAWA]
日本サッカー殿堂
1922年8月9日、兵庫県生まれ
神戸経済大学(現・神戸大学)卒業
神戸一中(現・県立神戸高校)、神戸経済大学(現・神戸大学)、田辺製薬、大阪クラブでプレー。神戸一中では、1938年第20回全国中等学校蹴球大会優勝、1939年度は主将として第10回明治神宮国民体育大会優勝を果たす。戦後、復学した神経大では1946年関西学生リーグ優勝
1948年入社の田辺製薬では、1950年第3回全日本実業団選手権に優勝以来、1957年まで6連覇を含む優勝7回。その間、1950年の実業団選手権予選以来94戦93勝1分という無敗記録樹立に貢献、田辺製薬の黄金期を築いた
また同時期、大阪クラブ(川本泰三氏の提唱により創設)では岩谷俊夫氏らとプレーし、天皇杯全日本選手権大会では1951年第31回大会から3年連続で決勝に進出した
日本代表として、1951年第1回アジア競技大会(ニューデリー)1954年同第2回大会(マニラ)1954年ワールドカップスイス大会アジア予選に出場。レベルの高いボールテクニックと戦術眼を持ち、日本代表でも右ウィングの鴇田氏とのコンビで活躍。ベルリンオリンピック以降の戦前のサッカーの上昇期を知る選手として、戦後の混迷期に日本サッカーの存続と技術の向上に努力した世代の一人である。Aマッチ出場5試合
1990年没
2006年 第2回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
編集中プロフィール
- 1922年8月9日 兵庫県に生まれる
- 1935年3月 神戸市立雲中尋常小学校卒業
4月 兵庫県立第一神戸中学(略称=神戸一中)に入学、サッカー部に入部 - 1937年 3年生のときにレギュラーとなり、第19回全国中等学校蹴球選手権大会(現・高校サッカー選手権)で準優勝
- 1938年 第20回大会で優勝。ポジションはCF
- 1939年 主将となるが、第21回大会は2回戦で敗退。秋の明治神宮大会では北海中学、広島一中、明星商業を破って優勝。天覧試合の対広島師範(15分間)にも1−0で勝つ
- 1940年 神戸一中を卒業、神戸商業大学予科(現・神戸大学)に1回生として入学、サッカー部を創部、予科1年から神戸商大のレギュラーで関西学生リーグに出場
- 1943年12月8日 学徒徴兵猶予令撤廃によって、大学2年のとき、舞鶴海兵隊に入隊。予備学生試験を受けて、翌年、土浦航空隊、出水航空隊を経て、筑波航空隊に勤務
- 1945年 海軍特別航空隊員として北海道千歳航空隊で演習中、8月15日終戦。大学に復学
10月 復員した仲間たちが集まり、戦後最初の試合を行なった - 1946年2月 復活した東西対抗、学生選抜対抗に西軍主将で出場、2−2
5月 第26回天皇杯に神戸経大(商大を改名)クラブで準優勝
10月 関西学生リーグで優勝 - 1947年4月 東西対抗の両軍メンバーとして天覧試合に出場。第2回国体(金沢)で神戸経大は準優勝
- 1948年 田辺製薬に入社、同社サッカー部へ
- 1950年 第3回全国実業団選手権で田辺製薬は初優勝。同年4月9日の関西予選から、56年5月27日の関西実業団選手権決勝で敗れるまで、全国選手権6連覇を含む94戦93勝1分けの記録を残す
- 1951年 インド・ニューデリーでの第1回アジア大会に日本代表として出場、3位。大阪クラブを結成、5月の第31回天皇杯で準優勝。同クラブは翌32回、33回にも準優勝
- 1952年 秋の国体(仙台)で田辺製薬が大阪代表として優勝
- 1953年 日本代表として、6月、西ドイツのクラブ、オッフェンバッハFCキッカーズ、11月にスウェーデンのクラブ、ユールゴルデンなどの来日した欧州チームとの対戦に出場
- 1954年3月 ワールドカップ・スイス大会の極東予選、対韓国戦2試合(東京)に出場、1−5、2−2
5月 第2回アジア大会(マニラ)に日本代表として参加したが、体調不良で第1戦の前半だけの出場となる。この年の公式国際試合の敗戦で日本サッカー協会は日本代表の若返りを図り、二宮洋一、賀川太郎、宮田孝治たちの戦前、戦中派の30歳以上の選手は代表を離れた
9月 田辺製薬は全国実業団選手権で5連覇を達成、マニラでの不調を脱して、賀川、鴇田正憲のペアは新境地を開く - 1956年 実業団の登録ルール変更で、東京に勤務していた賀川をはじめ、主力を欠いた田辺製薬は全国選手権で準優勝に終わる
- 1957年 登録ルール再変更で賀川たちが戦列に加わり、田辺製薬は第14回全国実業団選手権に7度目の優勝
- 1960年 第一線のプレーから退いたが、東京に勤務してきた鴇田とのペア復活。東京トリッククラブで岡野俊一郎たちとプレーを楽しむ。対古河電工戦を見たデットマール・クラマーが「パスの受け渡しの手本」と賞賛した
- 1962年 名古屋グランパスエイトへ転勤、名古屋クラブでOBの試合を楽しむ
- 1967年 岡山に移り、(株)良互薬品を設立、社長に。会社のサッカーチームをつくり、自らも選手として岡山県リーグに出場。62歳でなお、県リーグ2部の公式試合でプレーを続けた
- 1990年3月6日 死去。67歳
- 2006年5月23日 第2回日本サッカー殿堂入り
関連項目
- 木曜日のボール By近藤 篤
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(下)
- 第8回 川本泰三(3)ボールを上から叩くシュートとディープ・センターフォワード
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(下)
- 身体でカバーしてのキープ
- 英雄マソプスト
- 二人の先輩に思う日本のストライカー
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(下)
- 天皇杯を7度も獲得した名ストライカー 二宮洋一(上)
- 戦後10年、ウイングプレー一筋 センタリングの神様 鴇田正憲(下)
- 戦後10年、ウイングプレー一筋 センタリングの神様 鴇田正憲(続)
- 【番外編】サッカー界の歴史指向とS誌選定、日本代表ベスト50 釜本邦茂の1位に思う
- 日本が生んだ国際クラスのゲームメーカー 八重樫茂生(上)
- 60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(上)
- 60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(中)
- 学徒出陣の中断期を乗り越え、クラマーを感嘆させた戦中派の代表 賀川太郎(下)
- 天皇杯のきっかけとなった天覧試合
- ベッケンバウアーとクライフ
- 高校大会にこつ然と現れ消えた幻のストライカー
- バイエルンからアルプスの南を想う
- ウエーターの優雅なナイフさばきとアントニョーニのプレー
- サッカー 故里の旅 第5回 チェコの変動の歴史とダニュービアン・スタイル
- 賀川浩「サッカーは世界とつきあう窓やね」 By田中J太郎
- 兄は少年野球の三振奪取王
- 戦後の混乱と復興期に(5)
- 戦後の混乱と復興期に(6)
- スポーツ記者になって(1)
- メキシコの余韻さめて
- 韓国に一度も負けなかった 最後の古典的ウイング、鴇田正憲
- 準決勝を前に――熱っぽく語った兄・太郎への追憶
- 瓦礫の中からサッカー復興 大きなステップとなった天覧東西対抗
- 昭和天皇の「予想外」のお言葉に感激 天皇杯につながる47年4月3日
- 当用漢字制定で蹴球がサッカーに ロンドン五輪不参加も、明日に備え合同合宿
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- 優勢に戦いながら勝てなかった第2戦 半世紀に及ぶ日韓対決の歴史を予感
- 第2回アジア大会、日韓戦の反省を背負い 挽回を目指した日本代表だったが…
- 1950年代に全国実業団6連勝94戦無敗の田辺製薬の守りの柱 宮田孝治(上)
- 34歳で4日連続試合 現役を退いた後も16年間、チームを指導 老舗企業チームの最高の師表 宮田孝治(下)
- インドネシアに初戦で完敗 新興国の向上の早さに後れをとる
- チョウ・ディンの指導で神戸一中を開眼 51年第1回アジア大会に後輩10人を送り込む 時代の先頭を歩いたサッカー人 範多竜平(下)
- 一浪中に毎日50本センタリングの練習 自らの工夫で進化した第1回アジア大会3位のFW 則武 謙(中)
- 大戦直後のサッカー再興とともに歩み 代表1試合出場で銅メダル獲得 則武 謙(下)
- 香川真司(下)
- サッカーチームの監督とは?
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東大合宿を終え、農学部正門前で。左から長沼健、川本泰三、賀川太郎、鴇田正憲

第2回アジア大会出発前、大阪駅で。岩谷夫人と談笑する賀川太郎。夫人が抱いているのは長男・省吾

日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額された肖像プレート (C) J. LEAGUE PHOTOS

第2回アジア大会出発直前、大阪駅で

第2回アジア大会雑景:ベイビュー・ホテルで。後列右から杉本茂雄、岩谷俊夫。同前列、賀川太郎、鴇田正憲、岡田吉夫

第2回アジア大会雑景:マニラ湾クルーズ、地下の冷蔵室で。左から岩谷俊夫、鴇田正憲、賀川太郎、加納孝

第2回アジア大会雑景:マニラ・ホテルの庭園で。後列左から賀川太郎、杉本茂雄、岡田吉夫、加納孝。同前列、川本泰三コーチ、鴇田正憲

第2回アジア大会雑景:帰国後、体協の控室で。右手前より賀川太郎、木村現、長沼健、宮田孝治

第2回アジア大会雑景:帰国後、かつら旅館で荷解きをする賀川太郎

1954年、第2回アジア大会(マニラ)のオフィシャルプログラム

1954年、第2回アジア大会(マニラ)の日本代表メンバーリスト。大会オフィシャルプログラムより

1954年第2回アジア大会サッカー日本代表。JOC作成大会報告書より

JOCが作成した1954年第2回アジア大会の報告書

賀川太郎

河本春男先生が編集発行した『神戸一中蹴球史』(1932年)

1953年オッフェンバッハとの日独交歓試合。後列右から村形繁明(審判)宮田孝治、福島玄一(審判)大埜正雄、岩谷俊夫、加茂健(審判)岡田吉夫、加藤信幸。前列右から松丸貞一(役員)賀川太郎、松永信夫、川本泰三、加納孝、GK津田幸男 ※日本チームのみ (C)日本サッカーミュージアム

第1回アジア競技大会(1951年)日本対イラン、試合開始前の記念撮影(賀川太郎アルバムより)

第1回アジア大会雑景:ガンジーの墓を詣でる日本代表選手(岩谷俊夫アルバムより)

賀川太郎がいつも胸ポケットに入れていたのは、弟・浩の出征の日の写真だった

第1回アジア大会雑景:1951年2月19日、大阪駅頭にて。第1回アジア大会のため上京する岩谷俊夫(右)と賀川太郎

第1回アジア競技大会(1951年)出国前の結団式。三笠宮より秩父宮賜旗を受ける浅野団長(2月21日、体協)(岩谷俊夫アルバムより)

第1回アジア大会雑景:1951年2月25日(羽田)アジア大会に向け出発。右、賀川太郎。左、岩谷俊夫

第1回アジア大会雑景:賀川太郎(左)。アジア大会に向かう機内にて

第2回アジア大会に向け出発。大阪駅頭の鴇田正憲(左)と賀川太郎

第2回アジア大会出発前、横山陽三マネージャーから説明を受ける日本代表の一陣

4月26日、日本代表がマニラに向けて出発。羽田の見送りの様子

第2回アジア大会入村式風景:日本代表団、国旗が揚がりました

第2回アジア大会選手村風景:食堂へ三々五々と向かうメンバー。奥に見えるのはカソリック教会

第2回アジア大会選手村風景:賀川太郎。食堂の前で

第2回アジア大会選手村風景:4月30日のランチメニュー。ビーフ、サラダ、ごはんorパン…

第2回アジア大会選手村風景:食堂は宿舎から500mほど歩いたところに

第2回アジア大会雑景:5月9日、大野公使による歓迎パーティ。海苔巻き、海老天、佃煮などたくさんの日本食でもてなしてもらった

第2回アジア大会雑景:岩谷俊夫。帰国日に行なわれた大野公使の歓迎パーティで。

第2回アジア大会雑景:帰国日の5月9日、大野公使の歓迎パーティに出席する日本代表チーム。右端、賀川太郎。その隣、竹腰重丸団長

1956年6月、メルボルン五輪予選の前(後楽園競輪場)。後列左から竹腰重丸監督、長沼健、福原黎三、岩谷俊夫キャプテン、一人おいて鴇田正憲、GK古川好男、木村現(中腰)一人おいて岡本久敬、小林忠生(中腰)岩淵功、生駒友彦、小沢通宏(中腰)青木要三、三村恪一、川本泰三コーチ、賀川太郎、堺井秀雄。同前列、岡野俊一郎、木下勇マネージャー、八重樫茂生、内野正雄、景山(高森)泰男、北口晃、佐藤弘明 (C)日本サッカーミュージアム

兄・賀川太郎の息子たちと、太郎の銅板を囲んで。左奥が長男の進太郎氏、手前は次男・竜二郎氏(2010年9月)

2010年9月、第7回殿堂入りした賀川浩。兄・太郎と親友デットマール・クラマーのプレートの前で

鴇田(左) 賀川(太郎)のペアは、田辺製薬のユニフォームでも日本代表でも関西代表でも1950年代の右サイドとして群を抜く攻撃力だった

昭和13年(1938年)兵庫県中学校10マイルレースで神戸一中が団体優勝。7人のメンバーのうち4人がサッカー部員だった。左から皆木忠夫、賀川太郎。右端、岡田稔、その左が芦田信夫

昭和13年、全国中等学校蹴球選手権大会優勝の神戸一中チーム。前列左から荒木雄二郎、森武史、皆木忠夫、友貞健太郎、水沢淳也、小畑儀宏、玉木和之、後列左から松浦巌、宮田孝治、田島祐三、向井清之、加藤、加藤勝郎先生、河本春男先生、岡田稔、菱田武、芦田信夫、賀川太郎

明治神宮競技場で開催された昭和21年度東西対抗のパンフレット(左・表紙、右・裏表紙)

昭和21年度東西対抗のパンフレット。関東・関西両代表メンバー紹介ページ

1948年8月、戦後第1回目の日本代表合宿。前列左から中垣内勝久、加茂健、横山陽三、二宮洋一、宮本能冬、竹腰重丸、松丸貞一、加納孝、賀川太郎

1951年、第1回アジア競技大会の日本代表選手。前列左端から竹腰重丸JFA理事、田辺五兵衛副会長、高橋龍太郎会長、範多竜平団長、野津謙理事、一人おいて小野卓爾理事。選手、左から則武謙、岡田吉夫、岩谷俊夫、堀口英雄、松永碩、有馬洪、賀川太郎、加藤信幸、加納孝、二宮洋一(監督・主将)鴇田正憲、宮田孝治、田村恵、杉本茂雄、津田幸男

1951年第1回アジア競技大会代表候補。前列左から松永碩、賀川太郎、則武謙、岩谷俊夫、二宮洋一、加納孝、鴇田正憲、和田津苗。後列左から鈴木、田村恵、岡田吉夫、津田幸男、宮田孝治、杉本茂雄、加藤信幸、堀口英雄、有馬洪、松永信夫

第1回アジア競技大会報告書の表紙(財団法人日本体育協会発行)

昭和27年、第7回国民体育大会(宮城県)。田辺製薬チームが大阪府代表として出場し、優勝(前列左から藤本、岡村、津田、木下、恒藤、手島、和田。後列左から近藤、加藤、田辺五兵衛、宮田、西村、種田、鴇田、賀川、垂水、内田)

1953年に行なわれた日独交歓試合、対オッフェンバッハ戦のプログラム

1954年、関西選抜対タイの華人チーム・維和(西宮球技場)。相手GK(右端)の前でハイボールを処理する賀川太郎。その右、岩谷俊夫。左端は木村現。

1953年に行なわれた日独交歓試合、対オッフェンバッハ戦のプログラム(全日本代表)

1954年、第2回アジア大会(マニラ)の日本代表。東京合宿での撮影。後列左から大埜正雄、渡部英麿、高林隆、二宮洋一、木村現、岩谷俊夫、鴇田正憲、土井田宏之、村岡博人、徳弘(現・水野)隆、川本泰三コーチ。前列左から、平木隆三、岡田吉夫、杉本茂雄、加納孝、松永信夫、宮田孝治、賀川太郎、長沼健

京都で少年たちの指導。大谷大学グラウンドで。右から岡野俊一郎コーチ、クラマー、宮田孝治、賀川太郎