日本サッカー人物史
日本サッカーアーカイブ ホーム > 日本サッカー人物史 > 宮本輝紀
宮本輝紀 [Teruki MIYAMOTO]
日本サッカー殿堂
1940年12月26日、広島県生まれ
広島・山陽高校から八幡製鐵(1970年から新日本製鐵)入り
1959年、高校選抜で臨んだ第1回アジアユース大会に出場し3位。精度の高いパスと巧妙なボールさばき、シュートの正確性を併せ持ち、1960年に日本代表入りする。1964年の第18回オリンピック競技大会(東京)1968年の第19回大会(メキシコシティ)では全試合に出場。メキシコ・オリンピックでは中盤構成の大任を担い攻守に活躍し、銅メダル獲得に多大な貢献をした。また、FIFAワールドカップチリ、メキシコ両大会予選、アジア競技大会(1966年第5回大会では3位)ミュンヘン・オリンピック予選などに出場し、1971年まで日本代表として活躍した。Aマッチ出場58試合、18得点
1959年入社の八幡製鐵でも確実なプレーで黄金時代の立役者として、1963、64年度全日本実業団選手権2連覇、1964年度天皇杯全日本選手権優勝に貢献。JSLでは138試合出場、68得点(1965〜76年)。1969〜73年度主将。1970年度JSLアシスト王、JSL通算得点ランキング6位(68得点)年間優秀11人賞6回受賞。1967年度年間最優秀選手賞受賞
1974〜75年新日鐵コーチ、1976〜79年同監督(76年までは選手兼任)
1981〜85年、国民体育大会福岡県代表監督
1996年には九州共立大学の監督に就任し、2年間でチームを九州大学リーグ1部に昇格させた
2000年没
2006年 第3回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
編集中プロフィール
- 1940年12月26日 広島市生まれ
- 1953年3月 千田小学校卒業
4月 国泰寺中学校へ - 1956年3月 国泰寺中卒業
4月 山陽高校へ - 1957年 山陽高2年のとき、秋の静岡国体・高校の部で決勝に進み、藤枝東に敗れた
- 1958年 山陽高3年で秋の富山国体に出場、決勝で清水東に敗れ、2年連続国体準優勝となる
- 1959年3月 山陽高を卒業、八幡製鉄に入社
4月 第1回アジアユース大会(U−20、4月18〜25日、クアラルンプール)に日本代表として参加、3位入賞 - 1960年10月 FIFAワールドカップ・チリ大会のアジア地域予選、対韓国戦の代表候補に選ばれる。ソウルでの第1戦(11月6日)には出場しなかったが、翌日に行なわれた対全韓国戦(2−2)でプレー。Aマッチではないが、代表デビューを果たした(19歳317日)
- 1961年6月11日 ワールドカップ・チリ大会のアジア地域予選、対韓国戦・第2戦に出場、0−2で敗れた。初の国際Aマッチで、以来71年まで日本代表Aマッチの出場は58試合19得点(得点記録としては9位)
- 1964年 東京オリンピックに日本代表として出場。対アルゼンチン(3−2)対ガーナ(2−3)でグループリーグ突破。準々決勝でチェコスロバキアに敗れて(0−4)ベスト8止まり。大阪トーナメント(5、6位決定戦)では1回戦でユーゴスラビアに敗れた(1−6)
- 1965年4月 日本サッカーリーグ(JSL)開幕。八幡製鉄は創設8チームの一つとなり、この年の第1回JSLでは11勝2分け1敗で東洋工業に次いで2位となる。また、この年の1月に開催された第44回天皇杯決勝で古河電工と延長、0−0の引き分け、両チームの優勝となった
- 1966年1月 天皇杯で八幡製鉄は前年に続いて決勝に進んだが、決勝で東洋工業に3−2で敗れた。この年、JSLで八幡製鉄は東洋工業に次いで2位
12月 第5回アジア大会(バンコク)に日本代表として参加、3位入賞、銅メダル - 1967年9〜10月 メキシコ・オリンピックのアジア地区予選に日本代表として全5試合に出場。優勝して大会出場権を獲得
- 1968年10月 メキシコ・オリンピックの全6試合に出場、3位入賞、銅メダル獲得に貢献
- 1969年10月 ワールドカップ・メキシコ大会のアジア・オセアニア予選(ソウル)に出場した日本代表は、オーストラリア、韓国と各2回戦して2分け2敗で敗退。オリンピック銅メダルチームは釜本邦茂を欠き、チーム全体に伸び悩んだ。宮本は3試合に出場し2ゴール
- 1970年12月 第6回アジア大会(バンコク)、釜本邦茂も復帰した日本代表だったが、準決勝で韓国に敗れ、3位決定戦でインドに負けて4位。宮本は全7試合中6試合に出場して1ゴール
- 1971年 ミュンヘン・オリンピックのアジア東地区予選(9月23日〜10月2日、ソウル)で日本代表はフィリピン、台湾には勝ったが、マレーシアと韓国に敗れて2勝2敗で敗退。宮本はこの試合で代表から去った(10年113日)。杉山隆一、片山洋、宮本征勝もまた代表から引退した
- 1976年 新日鉄(前・八幡製鉄)でのキャリアを終え、選手を引退。JSL12シーズン138試合出場68得点31アシストの記録を残す。36歳。この後3年間、同チームの監督を務め、その後、大学チームの指導をした
- 2002年2月2日 没
- 2006年 第3回日本サッカー殿堂入り
関連項目
- 右45度からの得点
- ポストプレー
- デットマール・クラマー(上)
- デットマール・クラマー(中)
- 第19回 杉山隆一(1)メキシコ五輪銅メダルのパスの名手は突進とひらめきのゴールゲッター
- 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(上)
- 第21回 杉山隆一(3)メキシコへの道を開くゴールを決め、メキシコ銅メダルのゴールへのパスを送る
- 20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(続)
- 世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー杉山隆一(上)
- 世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー杉山隆一(下)
- 第27回 八重樫茂生(3)有能な後輩と切磋琢磨。絶妙のパスのタイミングを掴んだ12yearsオリンピアン
- 攻守兼備のMF 努力の人 小城得達(上)
- “走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰
- “走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰(続)
- 第55回 高橋英辰(3)第1回アジアユースで銅メダル。暗いサッカーに灯をつけたロクさん
- どん底の時代から栄光の銅メダルまで、日本代表を押し上げたピッチ上の主 平木隆三(下)
- 日本が生んだ国際クラスのゲームメーカー 八重樫茂生(上)
- チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)
- 30年極東大会、36年五輪。2つのビッグイベントを勝ち抜いた名FB 竹内悌三(続)
- 速さの杉山とともに成長したアジアユース1期生 宮本輝紀(上)
- 八幡製鉄で自ら鍛え杉山、釜本とともに銅メダルチームの核となった 宮本輝紀(下)
- 1967年メキシコ・オリンピック予選「韓国との壮絶な点の取り合い」
- メキシコ五輪出場に向けての海外遠征
- 1968年メキシコ・オリンピック「地元さえも味方にし、銅メダルを獲得」
- 1968年メキシコ・オリンピック「チームワークが生んだ銅メダル」
- クラマーからの脱皮 自分で考え、自分で工夫することが大事なのだ
- サッカーの極意は選手が掴むもの ソウルでの敗因を探る
- ジーグブルグとテヘラン
- ブラジル勢を困惑させた小さなアルディレス
- 完成の域に達したマラドーナを思いながら期待にふくらむ第2ラウンド
- あるスポーツ記者の回想 〜クラマー、釜本邦茂、そして神戸一中のこと〜 By富樫 洋一
- メキシコの星、また一つ消え… 特別編 宮本輝紀を悼む
- 現場を好んだ技術史の"生き証人" 特別編 ロクさん、高橋さん
- スポーツ記者になって(8)
- ローマ、東京、メキシコ(3)
- ローマ、東京、メキシコ(7)
- ローマ、東京、メキシコ(13)
- ローマ、東京、メキシコ(18)
- フリッツ・バルターへの弔意
- 世界の“常識”を求めて(27)
- ベルリン→ニュルンベルク:カカーの右足シュートの確かさと負けても粘るクロアチアの執着心
- ドルトムント→ハノーファー:「風林火山」も「威風堂々」もブラジルには勝てず
- 釜本邦茂(6)超過酷、アジア大会で3位。大学最後の天皇杯勝者となった22歳
- 【番外編】大迫勇也とメキシコ得点王 しなやかで強い体と抜群のシュート力を成長期に懸命に、順調に伸ばした
- 釜本邦茂(12)オデッサでの35mシュート、ボルシア・MGからもゴール。進歩の証を重ねてメキシコへ
- 釜本邦茂(13)メキシコ五輪B組第1戦、ナイジェリアを相手にハットトリック
- 釜本邦茂(14)メキシコ五輪B組、対ブラジル。ヘディングパスで渡辺正の同点ゴールを生み出す
- 釜本邦茂(15)メキシコ五輪第3戦「点を入れたらアカン」シュートを外して○印のサイン
- 釜本邦茂(16)メキシコ五輪で突破シュートと胸でトラップからのシュート。フランスを破ってベスト4へ
- 釜本邦茂(17)68年オリンピック3位決定戦、開催国メキシコ相手に2ゴール
- “東京”の選考はもれたが アマの東洋工、プロのサンフレッチェを日本一に 小沢 通宏(下)
- マインツ・岡崎慎司の成長と 46年前の五輪銅メダリストの“ひたむき”ゴール 渡辺 正(上)
- 1956年天皇杯でキラリと光ったスピード “東京”の後も続く“代表”への情熱 渡辺 正(中)
- 李昌碩を軸に関学をレベルアップ つなぐサッカーで天皇杯を獲得 低迷期の日本に輝いた 西邑昌一(中)
- 香川真司(下)
フォトライブラリ
写真をクリックすると拡大表示されます。

第1回アジアユース大会、日本代表のメンバープログラム

第1回アジアユース大会、日本代表のメンバー表(表紙)

1959年4月 第1回アジアユース大会(クアラルンプール)開会式、入場行進して開会宣言を待つ日本チーム。日の丸を持つのはGK片伯部延弘、そのうしろ石丸俊徳団長。その後方第1列、左から高橋英辰監督、西本修吉マネージャー、秋葉和美主将

日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額された肖像プレート (C) J. LEAGUE PHOTOS

1964年10月、東京オリンピックのとき、選手村で。 写真提供:鎌田光夫氏

ミュンヘン・オリンピック予選を戦った日本代表(1971年9月、ソウル) (C)フォート・キシモト ※『サッカー日本代表 世界への挑戦』(新紀元社)より

1959年第1回アジアユース(クアラルンプール)のとき。最初の宿泊地・香港のホテルの前で練習に出かけるためバスを待つイレブン。左から杉山隆一、松岡浩、高橋英辰監督、田村文彦、堀井国雄

「日独国際サッカー親善試合」日本対西ドイツ(1963年10月20日、西京極球技場)の公式プログラム。両チームのメンバーリスト

1963年10月20日、西京極球技場で行なわれた「日独国際サッカー親善試合」日本対西ドイツのプログラム(表紙)

1967年12月2日、CSKAモスクワ2-2日本代表(国立競技場)。中央、ボールを持っているのは丸山義行レフェリー 写真提供:丸山義行氏

1967年12月2日、国立競技場で行なわれたCSKAモスクワ対日本代表(2-2)は日本人の丸山義行氏が主審を務めた 写真提供:丸山義行氏

「日英交歓サッカー」アーセナル対日本(1968年5月、国立他)の日本代表メンバー。公式プログラムより

「日英交歓サッカー」アーセナル対日本(1968年5月、国立他)の公式プログラム表紙

1972年ミュンヘン・オリンピックアジア東地区予選、日本対韓国 (C)フォート・キシモト ※『サッカー日本代表 世界への挑戦』(新紀元社)より

1959年、第1回アジアユース大会(クアラルンプール)の宿舎で子どもと遊ぶ宮本輝紀(右)と杉山隆一

1962年ワールドカップ(チリ大会)のアジア予選、対韓国戦の試合前。中央左、竹腰重丸監督。その右はデットマール・クラマー コーチ

1963年、東京オリンピック選手村でボードを前に戦術指導。左端・長沼監督、その右・クラマー

1963年夏、デュイスブルクで。後列左から竹腰重丸団長、宮本征勝、小沢通宏、一人おいて横山謙三、デットマール・クラマー、鎌田光夫、長沼健、保坂司、鈴木良三、外国人選手をはさんで川淵三郎、釜本邦茂、片山洋、小城得達。前列左から岡野俊一郎コーチ、一人おいて上久雄、山口芳忠、宮本輝紀、杉山隆一、富沢清司、継谷昌三、八重樫茂生、渡辺正

1964年10月16日(駒沢)東京五輪グループB第2戦のガーナ戦、日本ゴール前での攻防。白のユニフォーム、手前から片山洋(背番号2)、上久雄、山口芳忠、鎌田光夫、鈴木良三。背番号21はGK横山謙三

メキシコ五輪予選(日本3−3韓国)。韓国の守りをドリブルで突破した釜本が強烈なシュートをニアポストへ決め、日本は3−2とリード

1967年10月10日、メキシコ五輪・アジア地区予選の最終戦で南ベトナムを破って優勝。試合後、日の丸を掲げて場内を一周してスタンドの歓声を浴びる日本代表

1968年メキシコ五輪アジア予選の公式プログラム(表紙)

1968年メキシコ五輪アジア予選の公式プログラム、日本代表メンバーの紹介ページ

1968年メキシコ五輪、表彰式で銅メダルを受け取る日本代表チーム。左から、岡野俊一郎コーチ、GK浜崎昌弘 、松本育夫、釜本邦茂、桑原楽之、渡辺正、宮本輝紀、湯口栄蔵、小城得達、森孝慈、富沢清司、鈴木良三、鎌田光夫、山口芳忠