日本サッカー人物史
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小野卓爾 [Takuji ONO]
日本サッカー殿堂
1906年7月14日、北海道生まれ
中央大学卒業
1935年にJFA代議員に就任し1976年専務理事を退任するまでの(終戦直後を除く)約35年間、サッカーの普及・発展に向けた事業の推進や戦後の日本サッカー界の再建に尽力した
1935年第1回日満親善蹴球大会では日本代表選手団団長。1936年第11回オリンピック競技大会(ベルリン)ではチームに帯同し総務全般を担当した
戦後は1951年に常務理事に就任。財政状況の苦しい中で総務・財務といった実務を担当し、協会組織の活性化を図るとともに、デットマール・クラマー氏の招聘、日本代表チームの海外派遣や外国チームの招聘を積極的に推し進め、日本サッカーの国際的な活躍のための礎を築いた。1974年、協会の財団法人化に伴い専務理事に就任
1964年第18回オリンピック競技大会(東京)や1965年、1971年アジアユース大会(いずれも日本)では、運営の中心として大会の成功に貢献した
一方、中央大学監督として終戦直後から地方遠征を積極的に行ない、地方のサッカー振興に貢献。1962年第42回天皇杯全日本選手権大会では古河電工を破り、学生単独チーム優勝を果たした
1968年 藍綬褒章、1978年 勲四等瑞宝章
1991年没
2006年 第2回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
編集中プロフィール
- 1906年7月14日 北海道白老町に生まれる
- 1927年 札幌第一中学校(現・北海道札幌南高校)を経て中央大学に進学。札幌一中時代のチームメイトと共にサッカー部を創部し、今日まで続く伝統の礎を築く
- 1933年3月 中央大学法学部英法科卒業
- 1934年5月 関東蹴球協会理事
- 1935年 大日本蹴球協会代議員に就任。第1回日満親善蹴球大会で選手団団長を務める
- 1936年 ベルリンオリンピックでマネージャーとして日本代表に帯同、総務全般を担当
- 1938年5月 大日本蹴球協会理事
- 1939年5月 大日本体育協会総務委員
- 1942年8月 第2回アジア大会、日本代表団役員として帯同
- 1943年4月 大日本蹴球協会理事兼名誉書記長
- 1946年4月 中央大学サッカー部監督に就任
- 1951年 JFA常務理事に就任し、総務・財務といった実務を担当し協会組織を活性化。また、デットマール・クラマーの招聘、代表チームの海外派遣および海外チームとの対戦などに尽力した
- 1956年10月 東邦物産株式会社取締役
- 1957年10月 相馬窒業株式会社取締役
- 1958年1月 第6回全日本大学選手権で初優勝(57年度大会)
- 1959年10月 東京オリンピック大会組織委員会の特別委員長に就任
- 1960年 1月に第8回全日本大学選手権(59年度大会)を制し、2度目の優勝。12月には第9回の同大会で優勝し、連覇を達成した
- 1961年 関東大学リーグ1部で初優勝
- 1962年 天皇杯優勝。このほか関東大学リーグ1部、東西学生王座、全日本大学選手権も制し、4冠を成し遂げた(公式戦無敗)
- 1964年10月 東京オリンピックでサッカーを観戦した皇太子ご夫妻(現在の天皇、皇后両陛下)の先導役を担う
- 1965年 全日本大学選手権、5度目の優勝に導く。翌年には関東リーグ1部を制覇(3度目)
- 1968年 サッカーの発展及び普及振興に寄与したとして、藍綬褒章を受章
- 1971年4月 日本体育協会国体委員会委員
- 1974年 JFA専務理事に就任。中大サッカー部監督としては4度目の関東リーグ1部優勝を果たしている
- 1975年 中央大学サッカー部監督を退く。数十年にわたる監督生活の間に、長沼健、山口芳忠、小城得達ら多くの教え子を日本代表や日本サッカーリーグ等に輩出した
- 1976年4月 JFA専務理事(1974〜)を退任し、同顧問に
- 1978年4月 勲四等瑞宝章
5月 故郷の白老町に帰郷 - 1991年2月 白老町荻野の自宅にて死去、享年84
- 2006年 第2回日本サッカー殿堂入り
関連項目
- W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(続)
- 60歳を過ぎて県リーグ2部の公式試合――戦中派の代表 賀川太郎(上)
- チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)
- ベルリンの栄光を味わい戦後の日本サッカー復興期を支えた実力者 小野卓爾(上)
- 東京とメキシコの成功を将来に備えたFIFAコーチングスクールやJFAと中央大学の発展と基礎を築いた“実力者” 小野卓爾(下)
- ベルリン到着後、新知識を吸収し、 3FB制を採用、いよいよ対スウェーデン
- 自らもオリンピック、ワールドカップで働き日本の審判のレベルアップに尽くした 丸山義行(上)
- 国際試合60試合で審判を務め、中央大学のコーチ、監督を半世紀。傘寿のいまも試合に足を運ぶ 丸山義行(下)
フォトライブラリ
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日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額された肖像プレート (C) J. LEAGUE PHOTOS
2007年、中央大学に建立された小野卓爾先生の胸像。サッカー場をながめるように建っている
1936年ベルリン五輪雑景:オリンピック村入村式
1936年ベルリン・オリンピックの日本代表。ドイツにて。後列左から7人目 川本泰三、その右・鈴木重義監督、右端は竹腰重丸コーチ
1936年ベルリン五輪開会式
1936年ベルリン五輪雑景:オリンピック村での国旗掲揚式
1936年ベルリン五輪雑景:ベルリン市長を表敬訪問
1936年ベルリン五輪雑景:ベルリン到着
1936年ベルリン五輪雑景:練習を終え帰村、くつろいだ表情の日本代表選手たち
第1回アジア競技大会(1951年)日本対イラン、試合開始前の記念撮影(賀川太郎アルバムより)
第1回アジア大会雑景:ガンジーの墓を詣でる日本代表選手(岩谷俊夫アルバムより)
1936年ベルリン・オリンピック日本選手団、出国前の宮城遥拝
1936年ベルリン五輪出発前、明治神宮を参拝する日本選手団
第1回アジア競技大会(1951年)出国前の結団式。三笠宮より秩父宮賜旗を受ける浅野団長(2月21日、体協)(岩谷俊夫アルバムより)
戦後のJFAを長年にわたって牽引した技術の竹腰重丸と運営の小野卓爾(国立競技場で)
1951年、第1回アジア競技大会の日本代表選手。前列左端から竹腰重丸JFA理事、田辺五兵衛副会長、高橋龍太郎会長、範多竜平団長、野津謙理事、一人おいて小野卓爾理事。選手、左から則武謙、岡田吉夫、岩谷俊夫、堀口英雄、松永碩、有馬洪、賀川太郎、加藤信幸、加納孝、二宮洋一(監督・主将)鴇田正憲、宮田孝治、田村恵、杉本茂雄、津田幸男