日本サッカー人物史
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福島玄一 [Genichi FUKUSHIMA]
日本サッカー殿堂
1911年4月6日、宮城県生まれ
日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)卒業
東京府立第五中学校(現・都立小石川高校)でサッカーをはじめ、日本歯科医学専門学校、第一生命等でプレー
1936年第16回全日本選手権(兼第2回全日本総合選手権)で線審を務めた。以後JFAの審判として活動し、審判技術の向上や審判界の組織化に多大な貢献をした
1958〜66年、1967〜70年国際審判員。1961年第5回FIFA審判研修会(フィレンツェ)に出席。アジアユース大会やムルデカ大会等海外での審判経験も積み、1964年第18回オリンピック競技大会(東京)ではハンガリー対ユーゴスラビア戦の主審を務めた。1969年、国際Aマッチ10試合以上という当時としては厳しい条件をクリアし、日本人初のFIFA審判特別功労賞(FIFA Referees’ Special Award)を受賞。JSL主審22試合(1965〜70年)
一方、審判委員会の設置や審判制度の確立に尽力し、1965〜71年JFA理事・審判委員長を務めた。また、審判指導員制度の充実にも力を注ぎ、後進の指導、育成に貢献。関東協会審判統制委員長、日本サッカー審判協会副会長等を歴任
杉並区サッカー連盟会長、杉並区体育協会副会長を務め、地元杉並のサッカーの普及、発展にも大きく貢献。1984年には文部大臣より体育功労者表彰を受ける
1994年没
2006年 第2回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
編集中プロフィール
- 1911年4月6日 宮城県に生まれる
- 1924年 東京府立第五中学校(現・都立小石川高校)に入学(6回生)、サッカーをはじめる。先輩(3回生)にのちに日本代表で活躍する松丸貞一、竹内悌三、阿部鵬二がいた
- 1928年 全国中等学校選手権・関東予選、対日大二中戦のメンバーに福島の名がある。ポジションはハーフバック
- 1929年 五中を卒業し、日本歯科医学専門学校へ進学
- 1932年 第一生命に入社。実業団チームでプレー
- 1936年 第16回全日本選手権(兼第2回全日本総合選手権)で線審を務める
- 1952年 関東の各大学サッカー部のOBがプレーする「東京四十雀倶楽部」の設立に尽力
- 1958年 国際審判員(〜1970)
- 1961年 第5回FIFA審判研修会(フィレンツェ)に出席
- 1964年 東京オリンピック、グループB第3戦のハンガリー対ユーゴスラビア戦で主審を務める。副審に丸山義行
- 1965年 JSL主審(〜1970、22試合)
JFA理事・審判委員長に就任(〜1971) - 1969年 日本人初のFIFA審判特別功労賞(FIFA Referees' Special Award)を受賞
- 1984年 文部大臣より体育功労者表彰を受ける
- 1994年 死去、享年83
- 2006年5月23日 第2回日本サッカー殿堂入り
その他役職 等 関東協会審判統制委員長 日本サッカー審判協会副会長 杉並区サッカー連盟会長 杉並区体育協会副会長
フォトライブラリ
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日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額された肖像プレート (C) J. LEAGUE PHOTOS

1953年オッフェンバッハとの日独交歓試合。後列右から村形繁明(審判)宮田孝治、福島玄一(審判)大埜正雄、岩谷俊夫、加茂健(審判)岡田吉夫、加藤信幸。前列右から松丸貞一(役員)賀川太郎、松永信夫、川本泰三、加納孝、GK津田幸男 ※日本チームのみ (C)日本サッカーミュージアム

1967年9月28日、メキシコ五輪予選の中国対韓国戦は丸山義行(先頭中央)福島玄一(左)の日本人審判がジャッジした 写真提供:丸山義行氏

明治神宮競技場で開催された昭和21年度東西対抗のパンフレット(左・表紙、右・裏表紙)

第2回アジアユース大会、日本代表のメンバー表(表紙)

第2回アジアユース大会、日本代表のメンバープログラム