日本サッカー人物史
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川淵三郎 [Saburo KAWABUCHI]
日本サッカー殿堂
第10代会長(在任期間:2002〜2008年)
1936年12月3日、大阪府生まれ
大阪府立三国丘高校でサッカーを始め、早稲田大学、古河電工サッカー部でプレー。早大在学中の1958年、国際親善試合の香港戦で日本代表デビュー。1964年の東京オリンピックでは、強豪アルゼンチンを相手に1ゴール1アシストを決めるなど、チームの逆転勝利とベスト8進出に貢献する。日本代表として国際Aマッチ26試合出場、8得点
現役引退後は古河電工監督を経て1980年〜81年に日本代表監督
1988年にJSL総務主事、JFA理事に就任し、日本サッカーのプロ化を牽引。1991年にJリーグ初代チェアマンに就任し、「日本サッカーの強化」と「地域スポーツの振興」に力を注ぐ。1994年にJFA副会長。2002FIFAワールドカップの日本招致と開催成功に尽力
2002年JFA会長に就任、自らの愛称を「キャプテン」と称し、草の根の目線に立った改革に着手。その具体策として「キャプテンズ・ミッション」を策定し、サッカーの普及と強化、スポーツ環境の充実を推し進める。「JFA2005年宣言」では日本サッカーの目標を明確に打ち出し、国内外に広く訴える。また、FIFAクラブワールドカップの日本開催やAFCプロリーグ改革などに手腕を発揮し、国際的に日本サッカーの存在感を示す一方、「JFAこころのプロジェクト」や「環境プロジェクト」など社会貢献活動にも心血を注ぎ、スポーツ界のリーダーとして尽力した
2005年AFCアワード・ダイアモンドオブアジア賞、2006年FIFA功労賞
2008年 第5回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
編集中プロフィール
- 1936年12月3日 父・真一、母・淑子の3男として大阪府高石市に生まれる
- 1943年4月 大阪府高石町立高石小学校入学
- 1949年4月 大阪府高石町立高石中学校入学、野球部に所属
- 1952年4月 大阪府立三国丘高等学校入学
7月 同校サッカー部に入部 - 1955年 第33回全国高校選手権大会出場
3月 大阪府立三国丘高校卒業 - 1956年 大阪府三国丘高校OBチームで都市対抗サッカー大阪予選決勝進出
- 1957年4月 早稲田大学商学部に進学、ア式蹴球部でプレー(〜1961年)
- 1958年12月 国際親善試合の香港戦で日本代表デビュー。試合は2−5で敗れたが、川淵自身は2得点の活躍、Aマッチ初出場での得点は史上10人目の快挙だった
関東大学リーグ優勝 - 1959年8月 第3回ムルデカ大会出場(クアラルンプール、〜9月)
12月 ローマ五輪予選出場。韓国と1勝1敗(0−2、1−0)、総得点で及ばず本大会出場を逃す - 1960年11月 第7回チリW杯のアジア予選に出場(対韓国・第1戦1−2)。関東大学リーグ優勝
- 1961年3月 早稲田大学卒業
4月 古河電気工業に入社(横浜電線製作所勤務)。サッカー部入部 - 1962年8月 第4回アジア大会(ジャカルタ)出場
12月 妻・康子と結婚 - 1963年8月 本社人事部厚生課へ異動
- 1964年 東京オリンピック出場。対アルゼンチン戦(3−2)で1ゴール1アシストを記録
- 1967年 JSLアシスト王でシルバーボール賞を獲得
- 1970年 現役引退(日本代表通算70試合18得点、うちAマッチ26試合8得点)。古河電工サッカー部コーチに
- 1972年 古河電工サッカー部監督に就任(〜1975年、通算5勝4分け11敗)
- 1976年 日本サッカーリーグ常任運営委員(〜1979年)
10月 伸銅事業部第1販売部第2販売課長 - 1980年6月 ロサンゼルス・オリンピック強化部長就任
8月 系列会社「谷商株式会社」に常務取締役として出向
11月 日本代表監督代行就任(〜1981年3月) - 1982年6月 古河電工名古屋支店金属営業部長
- 1984年4月 日本サッカー協会強化部長退任
- 1988年6月 古河産業へ出向、取締役伸銅品部長
8月 日本サッカーリーグ1部総務主事
10月 日本サッカー協会理事就任 - 1989年6月2日 JFA、プロリーグ検討委員会の委員長に就任
- 1990年8月 プロリーグ検討委員会委員長
- 1991年3月 強化委員長就任(〜1994年10月)。日本サッカー協会プロリーグ設立準備室長
11月 古河電工退社。(社)日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)を設立、初代チェアマンに - 1993年5月15日 Jリーグ開幕
- 1994年5月 日本サッカー協会副会長就任
6月 2002年W杯日本招致委員会実行副委員長 - 1996年5月31日 2002年W杯が日韓共催に決定
7月 2002年W杯開催準備委員会実行副委員長 - 1997年12月 2002年FIFA W杯日本組織委員会理事に
- 2000年6月 2002年FIFA W杯日本組織委員会副会長
- 2002年7月 Jリーグチェアマンを退任、第10代日本サッカー協会会長に(愛称・キャプテン)
- 2008年7月 日本サッカー協会会長を退任(3期6年)、名誉会長に就任
8月15日 第5回日本サッカー殿堂入り
関連項目
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(上)
- デットマール・クラマー(中)
- 第20回 杉山隆一(2)突破力を生かすためにはまず巧みなトラッピングを。名将クラマーの個人指導
- 世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー杉山隆一(上)
- 早稲田の“主” 工藤孝一(上)
- 後進地・岩手から銅メダル・チームのキャプテンを生み出した 工藤孝一(下)
- 第35回 宮本征勝(1)強い体を自ら鍛え1対1に闘志を燃やし続けた不屈のプロフェッショナルDF
- 日本代表を応援し続けて40年 サポーターの元祖 鈴木良韶さん(上)
- 第36回 宮本征勝(2)重症を克服して“東京”の代表に加わり“メキシコ”で歴史的ゴールを演出
- 【番外編】ワールドカップ一周年 日本サッカーの質の変化
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(下)
- W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(続)
- “走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰
- “走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰(続)
- 第54回 高橋英辰(2)早大監督として“百姓一揆”で優勝。シンプルを追求したロクさん
- 殿堂入り歴代会長と第6代藤田静夫(上)
- 日本代表を世界基準に向けさせた初の外国人監督 ハンス・オフト(上)
- 日本代表を世界基準に向けさせた初の外国人監督 ハンス・オフト(下)
- 日本が生んだ国際クラスのゲームメーカー 八重樫茂生(下)
- チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)
- 第3回アジア大会決勝で主審を務め、日本レフェリーの国際舞台への第一歩を記した 村形繁明
- 企業チームの部長としてチームをナンバーワンに。第7代JFA会長 島田秀夫
- 30年極東大会、36年五輪。2つのビッグイベントを勝ち抜いた名FB 竹内悌三(続)
- 甲子園球場、西宮球技場での高校選手権
- 素晴らしきサッカー仲間たち
- ローマ、東京、メキシコ(6)
- ローマ、東京、メキシコ(7)
- 番外編 キリンカップとコンサドーレ札幌の練習場
- フランス―ウルグアイ、難しく、感動的な試合
- ポルトガルを追い落とした朴智星のゴール
- 世界の“常識”を求めて(21)
- 楢崎正剛「不動心」
- ベルリン→ニュルンベルク:カカーの右足シュートの確かさと負けても粘るクロアチアの執着心
- 【番外編】岡田武史監督 彼自身と日本サッカーの10年の証を見たい
- ロナウド(4)98年フランスW杯準決勝で見せたビューティフルゴール
- 人の話を聞き、人を働かせ、自らも労をいとわぬ気配りの名手。日本サッカーの大功労者、長沼健さんを偲んで
- 【番外編】平木隆三さんを偲ぶ 東京、メキシコの栄光を支え、コーチ育成組織をつくり、天皇杯を改革し、発展の基礎を築いた
- 田辺五兵衛とともに桃山中学をトップに、ゴットンとともに関学を関西ナンバーワンに。昭和初期の日本一のGK 斎藤才三(中)
- 本番の1年前、ブラジルのパルメイラスを相手の守備戦術のシミュレーション。メキシコ銅メダルのヒーロー 鎌田光夫(中)
- 「坂の上の雲」の時代を身近に感じる85歳と語り合う歴史物語
- 対カメルーン、労を惜しまぬ動きと36年、30年代表に見る日本サッカーの原点
- 古希を前に、なお現場に立つメキシコ五輪銅メダリスト 松本育夫(上)
- 1956年天皇杯でキラリと光ったスピード “東京”の後も続く“代表”への情熱 渡辺 正(中)
- リーグ優勝3回、天皇杯優勝3回 ヤンマーを率いたJSL最多勝監督 鬼武健二(上)
- 日本代表監督の交代劇(後篇)
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1960年日本代表ヨーロッパ遠征のメンバープログラム(表紙)

1960年日本代表ヨーロッパ遠征のメンバープログラム

1964年10月、東京オリンピックのとき、選手村で。 写真提供:鎌田光夫氏

山口芳忠氏。2007年9月10日、第4回日本サッカー殿堂掲額式で。左は川淵三郎キャプテン。写真提供:山口芳忠氏

第7回日本サッカー殿堂掲額式典の懇親会で。右から川淵三郎キャプテン、賀川浩、吉村多恵子さん(ネルソン吉村氏夫人)

2010年9月10日、殿堂掲額式典後の懇親会で談笑する川淵三郎キャプテン(右)。その右、ネルソン吉村夫人・多恵子さん、賀川浩、左端はネルソン氏長男の誠一氏

1962年ワールドカップ(チリ大会)のアジア予選、対韓国戦の試合前。中央左、竹腰重丸監督。その右はデットマール・クラマー コーチ

戦後初の訪韓、日本代表チームと韓国側役員。左から李時東(元韓国サッカー協会理事長)八重樫茂生、工藤孝一副団長、一人おいて川淵三郎、宮本征勝、?宗鎬(昭和16年、早大サッカー部主将、当時の日本代表)

1963年、東京オリンピック選手村でボードを前に戦術指導。左端・長沼監督、その右・クラマー

1963年夏、デュイスブルクで。後列左から竹腰重丸団長、宮本征勝、小沢通宏、一人おいて横山謙三、デットマール・クラマー、鎌田光夫、長沼健、保坂司、鈴木良三、外国人選手をはさんで川淵三郎、釜本邦茂、片山洋、小城得達。前列左から岡野俊一郎コーチ、一人おいて上久雄、山口芳忠、宮本輝紀、杉山隆一、富沢清司、継谷昌三、八重樫茂生、渡辺正

日本サッカー殿堂第1回表彰式。前列左から釜本邦茂、八重樫茂生、長沼健、村形繁明、デットマール・クラマー、岡野俊一郎、平木隆三、杉山隆一の各受賞者。後列左端、川淵三郎JFAキャプテン

第1回サッカー殿堂入り。掲額のミニチュアを川淵三郎キャプテンから受けるクラマー

レプリカを受ける釜本邦茂氏。左は川淵三郎キャプテン (C)J.LEAGUE PHOTOS

2007年9月10日、日本サッカー殿堂第4回掲額式典。高円宮妃殿下を中央に、表彰を受けた3氏(右から片山洋、鎌田光夫、山口芳忠)。左から川淵三郎JFAキャプテンとミャンマーサッカー協会のゾウゾウ会長、鈴木章氏 (C)フォート・キシモト

レプリカを受ける鈴木章氏(鈴木重義氏 長男)。左は川淵三郎キャプテン (C)フォート・キシモト

掲額のレプリカを受けるゾウゾウ・ミャンマーサッカー協会会長。左は川淵三郎キャプテン (C)フォート・キシモト