日本サッカー人物史
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横山謙三 [Kenzo YOKOYAMA]
日本サッカー殿堂
1943年1月21日、東京都生まれ
埼玉県立川口高校、立教大学を経て、三菱重工入り
高校3年(1961年)の時にGKに転向し、同年第3回アジアユース大会に出場。大学在学中の1963年に日本代表初キャップ。1964年の第18回オリンピック競技大会(東京)1968年の第19回大会(メキシコシティ)では全試合に出場し、終始安定したセービングと分析力でゴールを守り、東京オリンピックのベスト8、メキシコオリンピックの銅メダル獲得に貢献。また、アジア競技大会(1966年第5回大会では3位)FIFAワールドカップメキシコ、西ドイツ両大会予選、ミュンヘンオリンピック予選などに出場し、1975年まで日本代表のGKとして活躍した。Aマッチ出場49試合
JSL(三菱重工)では136試合出場(1966〜77年)。1973〜75年度主将。JSL1部では1969年度の初優勝を含む優勝2回。1971年度天皇杯全日本選手権優勝。年間優秀11人賞7回受賞
1976〜83年、三菱の監督を務め(77年までは選手兼任)、JSL1部、JSLカップ、天皇杯ともに2回ずつの優勝を果たし、1978年度には三冠を達成
1988年日本代表監督に就任し、1991年キリンカップ初優勝。1991〜92年にはU−23日本代表の総監督を兼任し、代表の強化を図った。この間、JFA理事・強化委員長も務める
1994年浦和レッドダイヤモンズ監督、1995年同GM。その後、常務取締役・事業本部長を経て、取締役社長補佐。強化のみならず運営全般にも携わり、クラブ育成に尽力した
2006年、埼玉県協会専務理事に就任
2006年 第3回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
プロフィール
関連項目
- 第4回 釜本邦茂(4)単身留学の驚くべき成果ゴール,前で見せる電光石化の動き
- デットマール・クラマー(中)
- 世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー杉山隆一(上)
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(中)
- W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(中)
- オシムに代わる代表監督――火事場に強い男 岡田武史
- 速さの杉山とともに成長したアジアユース1期生 宮本輝紀(上)
- 「5・3・2」も結構やけれど 各選手の分業化を考える時期
- スタミナを浪費するな! ホットスパー戦の教訓
- クラマーからの脱皮 自分で考え、自分で工夫することが大事なのだ
- サッカーの極意は選手が掴むもの ソウルでの敗因を探る
- 選手をおだてる時代は終った 若手の活躍は釜本、小城らに支えられてのもの
- プロと対戦する意義は何か
- ローマ、東京、メキシコ(7)
- 世界の“常識”を求めて(4)
- 世界の“常識”を求めて(20)
- 楢崎正剛「不動心」
- ベルリン→ニュルンベルク:カカーの右足シュートの確かさと負けても粘るクロアチアの執着心
- 【番外編】永井雄一郎 永井のゴールに、彼の昔からのゴールへ向かう姿勢を見た
- 釜本邦茂(3)17歳、高2でデットマール・クラマーと衝撃の出会い“北海道のクマのままじゃない”
- 【番外編】平木隆三さんを偲ぶ 東京、メキシコの栄光を支え、コーチ育成組織をつくり、天皇杯を改革し、発展の基礎を築いた
- 釜本邦茂(13)メキシコ五輪B組第1戦、ナイジェリアを相手にハットトリック
- 釜本邦茂(14)メキシコ五輪B組、対ブラジル。ヘディングパスで渡辺正の同点ゴールを生み出す
- 釜本邦茂(17)68年オリンピック3位決定戦、開催国メキシコ相手に2ゴール
- 釜本邦茂(18)メキシコ五輪3位決定戦。試合後にベッドへ倒れ込んで動かず、死力を尽くしたイレブンにクラマーも感動
- 釜本邦茂(21)肝炎から立ち直った第2黄金期。国内外で演じたビューティフル・ゴール
- 本番の1年前、ブラジルのパルメイラスを相手の守備戦術のシミュレーション。メキシコ銅メダルのヒーロー 鎌田光夫(中)
- 東京五輪直前に19歳で抜擢。1対1の強さに“すっぽん”といわれたDF 山口芳忠(上)
- 密着マークでベスト4と銅メダルの栄光を生み、王様ペレに食いついてその本領を引き出した“すっぽん” 山口芳忠(中)
- メキシコ五輪銅メダルチームを支えた右フルバック 片山洋(上)
- メキシコ・オリンピックでPKを防ぎ 銅メダルを守ったGK 横山 謙三(上)
- コースを読み、タオルで誘って 45年前の銅メダルPK 横山 謙三(下)
- マインツ・岡崎慎司の成長と 46年前の五輪銅メダリストの“ひたむき”ゴール 渡辺 正(上)
- 岡野良定(上) 三菱重工サッカー部を強化、発展させ 今の浦和レッズへ導いた 広島一中OB
- Jリーグ・トップクラブでの ルーツに広島一中 岡野良定(下)
- 日本代表監督の交代劇(後篇)
- 日本のゴールキーパー(上)
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日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額された肖像プレート (C) J. LEAGUE PHOTOS

第3回アジアユース大会、日本代表のメンバー表(選手紹介ページ)

第3回アジアユース大会、日本代表のメンバー表(表紙)

1970年、南米遠征した三菱重工。右から杉山隆一、大仁邦彌、2人おいて森孝慈、細谷一郎、落合弘。一人おいて横山謙三、片山洋キャプテン 提供:片山洋氏

1964年10月、東京オリンピックのとき、選手村で。 写真提供:鎌田光夫氏

ミュンヘン・オリンピック予選を戦った日本代表(1971年9月、ソウル) (C)フォート・キシモト ※『サッカー日本代表 世界への挑戦』(新紀元社)より

1967年12月2日、CSKAモスクワ2-2日本代表(国立競技場)。中央、ボールを持っているのは丸山義行レフェリー 写真提供:丸山義行氏

1967年12月2日、国立競技場で行なわれたCSKAモスクワ対日本代表(2-2)は日本人の丸山義行氏が主審を務めた 写真提供:丸山義行氏

「日英交歓サッカー」アーセナル対日本(1968年5月、国立他)の日本代表メンバー。公式プログラムより

「日英交歓サッカー」アーセナル対日本(1968年5月、国立他)の公式プログラム表紙

1972年ミュンヘン・オリンピックアジア東地区予選、日本対韓国 (C)フォート・キシモト ※『サッカー日本代表 世界への挑戦』(新紀元社)より

1972年1月1日、第51回天皇杯決勝(国立)でヤンマーを3−1で破り優勝した三菱重工。右から2人目が片山洋主将。その左、GK横山謙三、一人おいて大久保賢司、大仁邦彌、森孝慈、落合弘、足利道夫、細谷一郎、高田一美、高橋公平、杉山隆一 提供:片山洋氏

クラマーの来日に集まったメキシコ五輪代表。左から横山謙三、石井義信、岡野俊一郎、長沼健、クラマー、保坂司、鎌田光夫、鈴木良三

1963年、東京オリンピック選手村でボードを前に戦術指導。左端・長沼監督、その右・クラマー

1963年夏、デュイスブルクで。後列左から竹腰重丸団長、宮本征勝、小沢通宏、一人おいて横山謙三、デットマール・クラマー、鎌田光夫、長沼健、保坂司、鈴木良三、外国人選手をはさんで川淵三郎、釜本邦茂、片山洋、小城得達。前列左から岡野俊一郎コーチ、一人おいて上久雄、山口芳忠、宮本輝紀、杉山隆一、富沢清司、継谷昌三、八重樫茂生、渡辺正

1964年10月16日(駒沢)東京五輪グループB第2戦のガーナ戦、日本ゴール前での攻防。白のユニフォーム、手前から片山洋(背番号2)、上久雄、山口芳忠、鎌田光夫、鈴木良三。背番号21はGK横山謙三

1968年メキシコ五輪アジア予選の公式プログラム(表紙)

1968年メキシコ五輪アジア予選の公式プログラム、日本代表メンバーの紹介ページ

メキシコ五輪予選(日本3−3韓国)。韓国の守りをドリブルで突破した釜本が強烈なシュートをニアポストへ決め、日本は3−2とリード

1967年10月10日、メキシコ五輪・アジア地区予選の最終戦で南ベトナムを破って優勝。試合後、日の丸を掲げて場内を一周してスタンドの歓声を浴びる日本代表

1968年メキシコ五輪、表彰式で銅メダルを受け取る日本代表チーム。左から、岡野俊一郎コーチ、GK浜崎昌弘 、松本育夫、釜本邦茂、桑原楽之、渡辺正、宮本輝紀、湯口栄蔵、小城得達、森孝慈、富沢清司、鈴木良三、鎌田光夫、山口芳忠