日本サッカー人物史
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山口芳忠 [Yoshitada YAMAGUCHI]
日本サッカー殿堂
1944年9月28日、静岡県生まれ
県立藤枝東高校、中央大学を経て、日立入り。高校時代にユース代表候補に選出され、1962年第4回、1963年第5回アジアユース大会に出場。中央大学では主将として1966年度関東大学リーグ優勝
大学在学中に本格的にFWからBKに転向し、1964年日本代表入り。東京オリンピック・ガーナ戦で代表初キャップを獲得し、堅実な守備とタイトで激しいマーク、正確な技術を持ち味としたBKとして活躍
1964年東京、1968年メキシコ両オリンピックに出場し、左FBとしてチームの躍進を支えた。メキシコオリンピック・フランス戦では、相手のCFを抑え、オリンピック初のベスト4進出の力となり、銅メダル獲得に貢献した。アジア競技大会(1966年第5回大会では3位)FIFAワールドカップメキシコ、西ドイツ両大会予選、ミュンヘンオリンピック予選などに出場し、1974年まで日本代表として活躍した。Aマッチ出場49試合
JSL(日立)では121試合出場、15得点(1967〜75年)。1972年度JSL1部優勝、1972年度、75年度天皇杯全日本選手権優勝。1974年度主将。年間優秀11人賞7回連続受賞(1968〜74年)
日本ジュニア代表、ユニバーシアード日本代表、日本代表B等の監督を務め、1988年、日本代表Bチームを率いてマラハリムカップ優勝。1989年バルセロナオリンピックを目指すチームの監督に就任し、アジア最終予選に進出した
柏レイソルでは、1993年度監督。その後育成部門の責任者として、ユースの育成に尽力。2000年には中央大学の監督に就任し、2005年まで指揮を執った
2007年 第4回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
編集中プロフィール
編集中関連項目
- 世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー杉山隆一(上)
- 攻守兼備のMF 努力の人 小城得達(下)
- 第36回 宮本征勝(2)重症を克服して“東京”の代表に加わり“メキシコ”で歴史的ゴールを演出
- “走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰(続)
- 厳しいコーチをバックアップし代表チームに栄冠を呼んだ監督 鈴木重義(下)
- 速さの杉山とともに成長したアジアユース1期生 宮本輝紀(上)
- 「5・3・2」も結構やけれど 各選手の分業化を考える時期
- サッカーの極意は選手が掴むもの ソウルでの敗因を探る
- 選手をおだてる時代は終った 若手の活躍は釜本、小城らに支えられてのもの
- 甲子園球場、西宮球技場での高校選手権
- ローマ、東京、メキシコ(7)
- 世界の“常識”を求めて(4)
- 【番外編】平木隆三さんを偲ぶ 東京、メキシコの栄光を支え、コーチ育成組織をつくり、天皇杯を改革し、発展の基礎を築いた
- 釜本邦茂(14)メキシコ五輪B組、対ブラジル。ヘディングパスで渡辺正の同点ゴールを生み出す
- 釜本邦茂(17)68年オリンピック3位決定戦、開催国メキシコ相手に2ゴール
- 釜本邦茂(21)肝炎から立ち直った第2黄金期。国内外で演じたビューティフル・ゴール
- 片山、山口、小城たちとともに粘り強い守りで銅メダルの栄光をつかんだ冷静なスイーパー 鎌田光夫(下)
- 東京五輪直前に19歳で抜擢。1対1の強さに“すっぽん”といわれたDF 山口芳忠(上)
- 密着マークでベスト4と銅メダルの栄光を生み、王様ペレに食いついてその本領を引き出した“すっぽん” 山口芳忠(中)
- ペレの「生涯最高のゴール」日本中に感銘を残すプレーを引き出した 山口芳忠(下)
- メキシコ五輪銅メダルチームを支えた右フルバック 片山洋(上)
- メキシコ五輪で1対1の粘り強さで各国チャンスメーカーを封じた右DF 片山洋(下)
- やわらかなタッチでボールを浮かせ、DFをかわしてシュート ペレの技術はいまの日本にも ペレ(中)
- 日本中がペレに酔った(上)
フォトライブラリ
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第5回アジアユース大会、日本代表のメンバー表(表紙)

第5回アジアユース大会、日本代表のメンバー表(選手紹介ページ)

1973年「日独交歓サッカー」日本代表対1.FCケルン(6〜7月国立、長居)のマッチデープログラム表紙

1973年「日独交歓サッカー」日本代表対1.FCケルン(6〜7月国立、長居)のマッチデープログラム(選手紹介ページ)

1964年10月、東京オリンピックのとき、選手村で。 写真提供:鎌田光夫氏

ミュンヘン・オリンピック予選を戦った日本代表(1971年9月、ソウル) (C)フォート・キシモト ※『サッカー日本代表 世界への挑戦』(新紀元社)より

1967年12月2日、CSKAモスクワ2-2日本代表(国立競技場)。中央、ボールを持っているのは丸山義行レフェリー 写真提供:丸山義行氏

1967年12月2日、国立競技場で行なわれたCSKAモスクワ対日本代表(2-2)は日本人の丸山義行氏が主審を務めた 写真提供:丸山義行氏

「日英交歓サッカー」アーセナル対日本(1968年5月、国立他)の日本代表メンバー。公式プログラムより

「日英交歓サッカー」アーセナル対日本(1968年5月、国立他)の公式プログラム表紙

1972年ミュンヘン・オリンピックアジア東地区予選、日本対韓国 (C)フォート・キシモト ※『サッカー日本代表 世界への挑戦』(新紀元社)より

1972年5月26日、神様ペレがサントスFCとともに来日し日本代表と対戦。右は山口芳忠

山口芳忠氏。2007年9月10日、第4回日本サッカー殿堂掲額式で。左は川淵三郎キャプテン。写真提供:山口芳忠氏

(左から)第7回殿堂入りした大畠襄氏、賀川浩、第4回掲額の山口芳忠氏。殿堂掲額式典後のパーティーで (C)STUDIO AUPA

2007年9月10日、日本サッカー殿堂第4回掲額式典。高円宮妃殿下を中央に、表彰を受けた3氏(右から片山洋、鎌田光夫、山口芳忠)。左から川淵三郎JFAキャプテンとミャンマーサッカー協会のゾウゾウ会長、鈴木章氏 (C)フォート・キシモト

1963年、東京オリンピック選手村でボードを前に戦術指導。左端・長沼監督、その右・クラマー

1963年夏、デュイスブルクで。後列左から竹腰重丸団長、宮本征勝、小沢通宏、一人おいて横山謙三、デットマール・クラマー、鎌田光夫、長沼健、保坂司、鈴木良三、外国人選手をはさんで川淵三郎、釜本邦茂、片山洋、小城得達。前列左から岡野俊一郎コーチ、一人おいて上久雄、山口芳忠、宮本輝紀、杉山隆一、富沢清司、継谷昌三、八重樫茂生、渡辺正

1964年10月16日(駒沢)東京五輪グループB第2戦のガーナ戦、日本ゴール前での攻防。白のユニフォーム、手前から片山洋(背番号2)、上久雄、山口芳忠、鎌田光夫、鈴木良三。背番号21はGK横山謙三

メキシコ五輪予選(日本3−3韓国)。韓国の守りをドリブルで突破した釜本が強烈なシュートをニアポストへ決め、日本は3−2とリード

1967年10月10日、メキシコ五輪・アジア地区予選の最終戦で南ベトナムを破って優勝。試合後、日の丸を掲げて場内を一周してスタンドの歓声を浴びる日本代表

1968年メキシコ五輪アジア予選の公式プログラム(表紙)

1968年メキシコ五輪アジア予選の公式プログラム、日本代表メンバーの紹介ページ

1968年メキシコ五輪、表彰式で銅メダルを受け取る日本代表チーム。左から、岡野俊一郎コーチ、GK浜崎昌弘 、松本育夫、釜本邦茂、桑原楽之、渡辺正、宮本輝紀、湯口栄蔵、小城得達、森孝慈、富沢清司、鈴木良三、鎌田光夫、山口芳忠