日本サッカー人物史
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大谷四郎 [Shiro OTANI]
日本サッカー殿堂
1918年4月23日、兵庫県生まれ
兵庫県立第一神戸中学校で2年連続全国大会優勝、第一高等学校を経て、1939年東京帝国大学に入学。得点力のあるFWとして活躍し、関東大学リーグ優勝2回、東西学生王座決定戦優勝1回
戦後は、大阪サッカークラブや東大LBでプレーを続ける一方、関西協会所属のコーチとしても活躍。1947年東西対抗(天覧試合)では関西の若手を鍛え、ベテランを擁する関東と互角の勝負をみせた。また、1953年西独ドルトムント国際大学スポーツ週間(現・ユニバーシアード競技大会)では、コーチとして次世代の選手の育成に携わった
1948年に朝日新聞社運動部記者となり、紙面を通じてサッカーの普及に務め、一方で、全日本実業団選手権、朝日招待サッカー(国内試合)朝日国際サッカー(日本代表強化のための国際試合)など朝日新聞社の後援事業の開催・運営にも尽力した。1973年からはフリーランスとしてサッカー専門誌を中心に執筆活動を続け(本名とともにペンネーム「秋庭亮」でも執筆)、組織・運営から技術・指導に至る幅広い視野で日本サッカーの将来を予見しつつ、着実な進歩を説いた
その先見性は現場にも活かされ、1970年結成の社団法人神戸FCでは、初めての年齢別会員登録制度を採用して、後のサッカー界変革の布石を打った
1990年没
2009年 第6回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
編集中プロフィール
- 1918年4月23日 神戸市御影に生まれる
- 1925年4月 御影師範付属小学校に入学、小学生のころからサッカーに親しむ
- 1931年9月 神戸一中に入学。サッカー部に入り、3年生からレギュラー。昭和9年の全国招待大会、同10年の全国中等学校選手権(現・高校選手権)に優勝
- 1936年 神戸一中卒業。第一高等学校(文科乙類)に入学
- 1939年 東京帝大(現・東京大学)経済学部に入学。関東大学リーグで昭和16、17年に優勝
- 1942年9月 東大卒業、同30日、海軍経理学校に入校
- 1943年1月 同校を卒業、海軍主計中尉に任官、戦艦山城に勤務
7月 第2輸送隊主計長となり、ラバウルヘ - 1946年5月 ラバウルより復員、帰国。大阪商船に勤務
- 1948年4月 朝日新聞社に入社、スポーツ記者となる
- 1953年 国際学生スポーツ週間(現・ユニバーシアード)に日本代表チームのコーチとして参加
- 1954年 大阪サッカークラブの広報誌のかたちで、サッカーの同人誌というべき、『KICK OFF』創刊
- 1970年 ワールドカップ・メキシコ大会を取材
同年、社団法人神戸フットボールクラブを加藤正信ドクターとともに設立。会員登録と日本で初めての年齢別にした - 1973年3月 朝日新聞社を退職、スポーツ記者として執筆活動を続けながら、神戸FCの運営、発展にカを注ぐ
- 1990年11月9日 死去
- 2009年8月11日 第6回日本サッカー殿堂入り
関連項目
- 二人の先輩に思う日本のストライカー
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(中)
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(下)
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(続)
- 天皇杯を7度も獲得した名ストライカー 二宮洋一(上)
- 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(上)
- 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(中)
- 兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(下)
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(中)
- 第43回 二宮洋一(2)中学生でショートパスを覚えストライカーの技を磨いて慶応義塾で開花した
- 第51回 番外編・クラブ世界選手権 相手の予想より早いキック。空間でなく時間で勝ったアルイテハド
- 京都と日本のサッカーに捧げた90年 第6代藤田静夫(下)
- JFA創立に関わり、ベルリン行きを支援。“東京”成功の裏方を務め、50年史を世に残した 新田純興(下)
- 第3回アジア大会決勝で主審を務め、日本レフェリーの国際舞台への第一歩を記した 村形繁明
- 「川本泰三放談」とは
- 「5・3・2」も結構やけれど 各選手の分業化を考える時期
- PKは低く蹴れ! ユース日韓戦、日本の敗因をつく
- スタミナを浪費するな! ホットスパー戦の教訓
- クラマーからの脱皮 自分で考え、自分で工夫することが大事なのだ
- サッカー選手に欲しい素質 “外から見える素質”と“見えざる素質”
- 30年間早大を鍛えた鬼監督 工藤孝一氏の思い出
- サッカーの極意は選手が掴むもの ソウルでの敗因を探る
- ヤンマーの個性 日本代表との差はどこにある
- 選手をおだてる時代は終った 若手の活躍は釜本、小城らに支えられてのもの
- 五輪アイスホッケーに学ぶ サッカーのフィルターを通して見た共通点
- フランクフルトの静かな雑踏で思う、過剰アナウンスと過剰コーチ
- 大いに見聞を広めよう
- 貧乏旅行の苦労と楽しさ
- ハプニング
- ドイツの大歓迎
- 民泊の話
- ドルトムント大会 その1
- ドルトムント大会 その2
- ドルトムント大会 その3
- ドイツからスウェーデンへ
- スウェーデン 〜その1 大敗の巻〜
- スウェーデン 〜その2〜
- 文なしパリ見物
- ベルギーで悔いを残す
- 初めて観る本場のプロ試合
- 日本サッカー英国で初めての試合
- 英国からスイスへ
- ジュネーブ スイス その1
- ユングフラウを楽しむ スイス その2
- ベオグラードの印象 ユーゴ その1
- 存分に戦って好ゲーム ユーゴ その2
- 再びローマを訪ねて
- サッカーの何を見たか その1
- サッカーの何を見たか その2
- サッカーの何を見たか その3
- サッカーの何を見たか その4
- サッカーの何を見たか その5
- 宿命のライバル韓国の名プレーヤーたち
- サッカーの何を見たか その6
- 守りを分散させたオールド・ファッションの3ウィング
- サッカーの何を見たか その7
- シベリア抑留の頃、我がサッカー不毛時代
- 若手登場の全日本に希望あり
- 重要なのは体力よりもセンスだ
- “欧州”へ行けばうまくなれるのか
- 相手に勝つための工夫と分析
- 日本リーグ、PK戦採用と攻撃的サッカー
- 「年齢制」の意味 技術の向上と組織・運営
- GKのキャッチングとキック
- キーパーの判断力とタイミング
- さらにタイミングについて
- なぜパスが不正確なのか
- メンドーサ人の好意でアンデス山中へ
- インステップキックが基本だ
- インステップのインサイドとアウトサイド
- 実戦的ストップについて
- さらに実戦的ストップについて
- ドリブルを十分に楽しもう
- ドリブルの“つぼ”
- ドリブルでの戦術的要請 <new!>
- 続・ドリブルでの戦術的要請 <new!>
- ドリブルの使い方 <new!>
- 一対一の守り その1
- 一対一の守り その2
- 一対一の守り その3
- コーチへの助言 その1
- コーチへの助言 その2
- 日本のスポーツの特異性 その1
- 日本のスポーツの特異性 その2
- 年齢制の競技会
- 回想のW杯と世界を包みこむサッカーの大きさ
- 神戸フットボールクラブ 20年のあゆみ
- 兄は少年野球の三振奪取王
- 野球からサッカーへ
- ベルリン・オリンピック そのあとさき(2)
- 大戦争前の光彩(1)
- 戦後の混乱と復興期に(3)
- スポーツ記者になって(1)
- スポーツ記者になって(4)
- スポーツ記者になって(7)
- 世界の“常識”を求めて(2)
- 決勝ゴールになったロナウドのトーキック
- 世界の“常識”を求めて(8)
- 世界の“常識”を求めて(19)
- ゲルト・ミュラー 〜天賦の才と経験とサムシングと〜
- 【番外編】日本代表欧州遠征、第2戦ガーナ戦から
- 世界のサッカー国を相手に銅メダル獲得。メキシコ五輪の地味なヒーロー 鎌田光夫(上)
- 戦前のU-17全国中等学校選手権 1935年「夏」への移行
- 大戦2年目、不思議なスポーツ扱い 1年だけの橿原大会も
- イランとの2日激闘に敗れ 戦争のブランクの大きさを知る
- 若者たちにヨーロッパを感得させた 画期的な53年国際学生スポーツ週間への参加
- ドルトムントで6位、ロンドンで試合 欧州で見聞を広めた現代のリーダーたち
- 【番外編】近づくワールドカップ本番。走ることも、パス攻撃も、点を取ること、防ぐことが第一 〜85歳サッカー人のはるか昔の素人経験から〜
- 1970年〜80年日本サッカーの指導に革命 近江達
- FIFA会長賞異聞 多くの取材、質問で知らされた 自分の現場のありがたさ、先輩や仲間の威力
- 金子彌門 旧制中学生でサッカー、ラグビーの 全国大会二冠を目前に
- 日本中がペレに酔った(中) 44年前の5月26日 2点目に見た「王様の神髄」
- このくにとサッカー最終章にあたって
フォトライブラリ
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1953年夏、ドルトムントで開かれた国際学生スポーツ週間に出場した日本学生選抜チーム。後列左から岩田淳三、平木隆三、三村恪一、長沼健、高林隆、岡野俊一郎、木村現、山口昭一、大谷四郎、小田島三之助、山路修。同前列、鈴木徳衛、徳弘隆、筧晃一、松丸貞一副団長、竹腰重丸団長、玉置良一、井上健
河本春男先生が編集発行した『神戸一中蹴球史』(1932年)
新田純興さんが中心になりつくったJFA50周年記念の「日本サッカーのあゆみ」。その他、田辺五兵衛、鈴木重義、多和健雄、大谷四郎、中条一雄の5氏が編集委員を務めた
2009年9月10日、日本サッカー殿堂第6回掲額式典。高円宮妃殿下を中央に、左から犬飼基昭JFA会長、表彰を受けた松本育夫、丸山義行の両氏。右端は高橋英辰さんのお嬢さん、その隣は大谷四郎さんの長男・亮介氏
東大時代。明治神宮競技場(現・国立競技場)での東西大学1位対抗、関学を8−1で破って優勝。前列左型5人目が大谷四郎
昭和10年、冬の県大会。神戸東遊園地(元・KR&ACグラウンド)で。
昭和12年8月、兵庫予選決勝。関西学院グラウンドで。原田の森の中に校舎が見える
神戸一中時代。昭和10年夏、全国大会兵庫県予選に優勝し、生田神社へ報告
昭和10年度全国優勝。後列左端、優勝旗を持っているのが大谷四郎キャプテン
昭和10年全国優勝祝賀会(平和楼)。座っている左端が大谷四郎、その左後方(立っている)は兄の大谷一二。中央奥は池田多助校長、旗の右が河本春男部長
神戸一中、昭和10年度部員送別会。前列左から2人目が大谷四郎主将。中央、河本春男先生、その右2人目 金子彌門
昭和14年の解散コンパ。本郷白十字で。前列中央が大谷四郎さん
一高時代。インターハイで京都へ。前列左から4人目が大谷四郎さん
一高2年のとき。インターハイ。本郷での合宿。前列左から3人目が大谷四郎さん
神中クラブ。1947年、西宮で。前列左から3人目 大谷四郎、左端 賀川浩
1948年 東西OB選抜対抗の西軍(西宮球技場)。右端、大谷四郎。左端、賀川浩
1948年 東西OB選抜対抗。中央、ヘディングする大谷四郎(西宮球技場)
大谷四郎さん(左)。1950年代はじめに西京極で。右は大阪クラブのチームメイト笠原隆
昭和29年9月、実業団大会へ。松山への船上。右、大谷四郎。中央、高橋英辰
大谷四郎さん
大谷四郎さん。メキシコ・ワールドカップ取材のとき、アステカスタジアム前で
1956年1月、名古屋での第24回アイスホッケー日本選手権のとき、記者仲間とともに。中央が大谷四郎さん(朝日)左、足立諄(読売)右はデイリーの中山信宜
1960年頃、記者クラブと関西協会役員の交歓試合で。前列右端が大谷四郎(朝日)同4人目・賀川浩(サンケイスポーツ)。後列右から2人目・小山俊昭(共同通信)中山信宜(デイリー)、2人おいて市田左右一元FIFA常任理事
昭和12年3月、第1回神戸一中クラブ東西対抗。前列左端が河本春男、中列2人目は大谷四郎。後列左から10人目、二宮洋一