日本サッカー人物史
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高橋英辰 [Hidetoki TAKAHASHI]
日本サッカー殿堂
1916年4月11日、福島県生まれ
小学校4年でサッカーを始め、刈谷中学、早稲田高等学院、早稲田大学を経て、1941年より日立製作所でプレー
1955年に早稲田大学監督に就任し、関東大学リーグ2連覇。1957年、第3回アジア競技大会に向けた強化のための中国遠征で日本代表を率い、1959年、日本ユース代表を初めて編成して臨んだ第1回アジアユース大会では3位の成績を収めた。1960年正式に日本代表監督に就任。FIFAワールドカップ・チリ大会予選、第5回ムルデカ大会、第4回アジア競技大会などを戦い、デットマール・クラマーコーチとともに2年間、東京オリンピックに向けた日本代表の強化に取り組んだ
1969年、低迷の続く日立の監督に就任。当時のJSLは、東洋工業4連覇の後、スピードを重視した三菱と、個人技主体のヤンマーがリードする時代に入っていたが、高橋はサッカーの不滅の基本である「走る」ことを強調、スターのいないチームを「入れ替え戦組」から一挙に上位に押し上げるとともに、1972年度にはJSL1部、天皇杯全日本選手権ともに初優勝を果たして「基本の重要性」を再認識させた。1975年度第55回天皇杯全日本選手権にも優勝するなど、創部以来関わってきた日立のサッカーを再興し、柏レイソルへの基礎を固め、1976年に退任
1979〜86年JSL総務主事として活躍、リーグ事務所をサッカー協会内から独立させ、斬新なデザインのリーグポスターで話題を呼ぶなど、リーグの活性化に力を注いだ
2000年没
2009年 第6回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
編集中プロフィール
- 1916年4月11日 福島県に生まれる
- 1929年4月 愛知県立刈谷中学に入学
- 1934年3月 刈谷中学卒業
4月 早稲田高等学院(略称・早高)入学 - 1935年 第2回東京大学予科大会で早高が優勝
- 1936年1月 第13回全国高校大会(旧制インターハイ)で早高は3回戦で敗退
10月 関東大学リーグの第1戦、対東京商大戦はベルリン・オリンピック代表メンバーが不在で、留守番チームで戦い4−3で惜敗、FWに高橋の名あり - 1938年6月 第18回日本選手権(現・天皇杯)で早大が10年ぶり2度目の優勝
- 1941年3月 早大を卒業
4月 日立製作所に入社。秋の神宮大会、実業団の部で準優勝 - 1955年 早大ア式蹴球部監督に就任、秋の関東大学リーグで4年ぶり11回目の優勝
- 1956年 関東大学リーグ優勝、東西学生王座決定戦も優勝。大学選手権は準優勝
- 1957年 日本代表コーチに就任
- 1959年4月 第1回アジアユース大会日本代表監督
- 1960年8月 日本代表監督に就任(〜62年9月)
- 1969年3月 日立本社サッカーチーム監督に
- 2000年2月5日 肺炎のため死去。満83歳
- 2009年8月11日 第6回日本サッカー殿堂入り
関連項目
- 昭和の大先達・竹腰重丸(下)
- 第6回 川本泰三(1)シュートの名人は消える
- 身体でカバーしてのキープ
- “消える”ということ
- 英雄マソプスト
- デットマール・クラマー(中)
- 90年イタリアW杯 伝統的なボヘミアン・スタイル
- 第19回 杉山隆一(1)メキシコ五輪銅メダルのパスの名手は突進とひらめきのゴールゲッター
- チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(上)
- 第20回 杉山隆一(2)突破力を生かすためにはまず巧みなトラッピングを。名将クラマーの個人指導
- 世界を驚かせた日本サッカー・俊足の攻撃リーダー杉山隆一(上)
- 第31回 右近徳太郎 戦野に散ったサッカー人。ベルリン逆転劇の2点目を決めた不思議な天才
- 日本代表を応援し続けて40年 サポーターの元祖 鈴木良韶さん(上)
- オリンピック代表監督からワールドカップ招致まで 40年間を日本協会とともに 長沼健(下)
- 第45回 デットマール・クラマー(1)日本サッカーの“いま”への道を開いた
- W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(中)
- “走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰
- “走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰(続)
- 第53回 高橋英辰(1)70年代に“走る日立”を登場させ日本サッカーに世界を見せたロクさん
- 第54回 高橋英辰(2)早大監督として“百姓一揆”で優勝。シンプルを追求したロクさん
- 第55回 高橋英辰(3)第1回アジアユースで銅メダル。暗いサッカーに灯をつけたロクさん
- 東北初の高校チャンピオンを育てた剣道の達人 内山真(上)
- どん底の時代から栄光の銅メダルまで、日本代表を押し上げたピッチ上の主 平木隆三(下)
- チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)
- オシムに代わる代表監督――火事場に強い男 岡田武史
- 極東大会で活躍した名プレーヤー。JFAを支え、導いた 篠島秀雄(上)
- 速さの杉山とともに成長したアジアユース1期生 宮本輝紀(上)
- 1959年アジアユース「日本のスポーツ史上、高校生チーム初の海外遠征」
- デュッセルドルフの初めての朝、コーヒーの味とサッカー技術
- ルーハン大聖堂とブラジル戦前夜
- ブラジル勢を困惑させた小さなアルディレス
- 完成の域に達したマラドーナを思いながら期待にふくらむ第2ラウンド
- アステカ最後の王の名がつく競技場で宿敵を撃破した充実のマラドーナ
- 第3回 巨大スケールのトレセン構想。不調のアルゼンチン、それでもマラドーナの技はさえる!
- デンマーク幸運の2ゴールで欧州の王座に
- サッカー 故里の旅 第5回 チェコの変動の歴史とダニュービアン・スタイル
- メキシコの星、また一つ消え… 特別編 宮本輝紀を悼む
- 現場を好んだ技術史の"生き証人" 特別編 ロクさん、高橋さん
- 戦後の混乱と復興期に(3)
- スポーツ記者になって(8)
- ローマ、東京、メキシコ(1)
- ローマ、東京、メキシコ(2)
- ローマ、東京、メキシコ(5)
- 世界の“常識”を求めて(4)
- フリッツ・バルターへの弔意
- 釜本邦茂(24)ペレとオベラートの友情参加。満員の国立競技場、引退試合でも先制ゴール
- 【番外編】日本代表欧州遠征、第2戦ガーナ戦から
- 世界のサッカー国を相手に銅メダル獲得。メキシコ五輪の地味なヒーロー 鎌田光夫(上)
- 密着マークでベスト4と銅メダルの栄光を生み、王様ペレに食いついてその本領を引き出した“すっぽん” 山口芳忠(中)
- ソ連、欧州ツアーで腕を磨き、ひたむきに東京五輪を目指した日本代表DF 片山洋(中)
- 日本代表監督の交代劇
- Jクラブオーナー・岡田武史 出会いから半世紀
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昭和29年9月、実業団大会へ。松山への船上。右、大谷四郎。中央、高橋英辰

1960年日本代表ヨーロッパ遠征のメンバープログラム(表紙)

1960年日本代表ヨーロッパ遠征のメンバープログラム

2009年9月10日、日本サッカー殿堂第6回掲額式典。高円宮妃殿下を中央に、左から犬飼基昭JFA会長、表彰を受けた松本育夫、丸山義行の両氏。右端は高橋英辰さんのお嬢さん、その隣は大谷四郎さんの長男・亮介氏

EURO92取材のとき、イエテボリのスタジアム記者席でロクさん(左・高橋英辰)と

1959年4月 第1回アジアユース大会(クアラルンプール)開会式、入場行進して開会宣言を待つ日本チーム。日の丸を持つのはGK片伯部延弘、そのうしろ石丸俊徳団長。その後方第1列、左から高橋英辰監督、西本修吉マネージャー、秋葉和美主将

1959年第1回アジアユース(クアラルンプール)のとき。最初の宿泊地・香港のホテルの前で練習に出かけるためバスを待つイレブン。左から杉山隆一、松岡浩、高橋英辰監督、田村文彦、堀井国雄

高橋英辰監督。1959年第1回アジアユース大会の後、シンガポールの公園で。

第1回アジアユース大会、日本代表のメンバー表(表紙)

第1回アジアユース大会、日本代表のメンバープログラム

高橋ロク(英辰)さん。アルゼンチンW杯のとき、カミニートの街で

メキシコW杯のとき、プエブラでのアルゼンチン対ウルグアイ戦を前に。高橋英辰さん(右)と賀川浩

1992スウェーデンでのヨーロッパ選手権。ストックホルムのプレスルームで食事をとる高橋英辰さん。右、西部謙司

あるパーティで高橋ロク(英辰)さんと賀川浩。ロクさんのネクタイは本人デザインのロク・タイ

明治神宮競技場で開催された昭和21年度東西対抗のパンフレット(左・表紙、右・裏表紙)

昭和21年度東西対抗のパンフレット。関東・関西両代表メンバー紹介ページ