日本サッカー人物史
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鈴木重義 [Shigeyoshi SUZUKI]
日本サッカー殿堂
1902年10月13日、福島県生まれ
早稲田サッカーの始祖。チョー・ディン氏の指導を日本サッカー界にもたらし、選手、指導者としても国際舞台で活躍した日本サッカー黎明期の功労者の一人
早稲田高等学院・早稲田大学でア式蹴球部を立ち上げ、卒業後はOBを加えた早稲田WMWを結成。早高では、チョー・ディンの指導を得て技術的な強化を図り、全国高等学校ア式蹴球大会(旧制インターハイ)で優勝。これによりチョー・ディンの指導が各地に波及し、日本サッカー全体のレベルアップにつながった。大学では、東京カレッジリーグ(現・関東大学リーグ)の設立に関わり、1925年選手としても初代王者に輝く
1927年、早稲田WMWが主力となって出場した第8回極東選手権大会(上海)では主将を務め、フィリピン戦で国際公式試合初勝利を挙げた。監督として、1930年第9回極東選手権大会(東京・神宮)では中国と引き分け同位優勝、東アジアトップの座を獲得。1936年のベルリン・オリンピックでは、工藤、竹腰両コーチをバックアップし、強豪スウェーデンとの逆転劇を成功させ、日本の名を世界にとどろかせた
1928年、野津謙氏との共著『ア式蹴球』(アルス運動大講座)を出版し、サッカーの普及に貢献
JFA創設時は競技委員として全国優勝競技会(現・天皇杯全日本選手権大会)の運営に携わり、1929年に常務理事、1931年主事に就任し、JFAの組織の充実にも尽くした
大日本体育協会理事・専務理事、早稲田WMW会長などを歴任
1971年没
2007年 第4回日本サッカー殿堂入り
イントロダクション
インターハイ初優勝、国際試合初勝利、初出場のオリンピックでベルリンの奇跡。 日本サッカーの可能性を切り開いた、選手で監督、ポンポンさん
“ポンポン”さんの由来は知らないが、お目にかかったあと、何となくニックネームの感じを納得したことを思い出す。
1902年(明治35年)生まれの鈴木重義さんのサッカー人生には、“初”がついてまわる。それも、国際舞台を含めてのことである。
曰く、
▽早稲田高等学院(略称・早高)で第1回全国高校蹴球大会(旧制インターハイ=1923年)優勝
▽第1回東京コレッジリーグ(現・関東大学リーグ=1925年)で早大が優勝
▽第8回極東大会(1927年・上海)に日本代表チーム主将として出場、フィリピンを破り初の国際試合での勝利を記録
▽第9回極東大会(1930年・東京)の日本代表監督、1勝1分けで中華民国と同率1位。初めて東アジアのトップに
▽1936年ベルリン・オリンピック大会サッカー競技の日本代表チーム監督。初出場の日本がスウェーデンを破り初勝利
フィリピンから初勝利したときはプレーヤーで24歳、30年の日本代表チーム監督は27歳。ベルリン・オリンピックは33歳だった。
鈴木さんは東京の豊島師範附属小学校から東京高師附属中学に進み、そこでサッカーに夢中になる。小学校もサッカーが盛んだったから、「少年時代からボールを蹴った」当時としてはエリートコース。冬の2月の開催だった関東蹴球大会に5年生のときも出場して高等学校への受験準備が遅れたとき、ちょうど早大の予科ともいうべき早高が開校され受験に合格したから、ここでも1回生で“初”――ア式蹴球部を創設して、いまの名門・早稲田のサッカーの創始者となる。したがって早高の1年生のころから、学校の蹴球部の代表格となり、新田純興(1897年生)野津謙・第4代JFA会長(1899年生)といった年長の東大生とともにJFAの創立(1921年)や同年の第1回全国優勝大会(現・天皇杯)の運営を手伝う。
大正12年(1923年)に野津さんたちが「インターハイ」を提唱してスタートさせるときに、官立の高等学校大会のなかに早高が割り込んだのも、鈴木さんの力。このときにチョー・ディンの指導を受けた効果で、早高が優勝したことでビルマ(現・ミャンマー)人指導者のコーチ力が評価され、やがて全国を巡回するようになって、日本サッカーのレベルアップにつながる。このチョー・ディンとの出会いをはじめ、自身が当時では上手な選手であった鈴木さんが、自分のプレーやコーチよりも若い、優れた技術指導者が現れると、それに任せ、自分はバックアップする側にまわったところが不思議であり、ポンポンさんらしいところだろう。
1930年の成功はコーチ兼主将、竹腰重丸(たけのこし・しげまる)の厳格な指導にあるとされているが、ノコさんに任せたのが鈴木さん。36年のベルリンでもノコさんと早大の工藤孝一さんの2人の有能なコーチを配したことが奇跡の勝利を生んだ一因と、私は考えている。
今年の9月にチョー・ディンさんとともに特別功労者として日本サッカー殿堂入りされたポンポンさんについて、より多くの資料が発掘され、より多くの業績が世に紹介されることを願っている。
プロフィール
- 1902年(明治35年) 10月26日生まれ
- 1916年(大正5年) 3月、豊島師範付属小学校卒業
4月、東京高等師範(略称・高師)付属中学校(旧制)に入学。小学生の頃からボールを蹴ることを覚えた - 1920年(大正9年) 2月、第3回関東蹴球大会に高師付属中が参加、1回戦で暁星中(3−0)に勝ち、2回戦で青山師範を2−2、CK数によって敗退した。FWだった4年生の鈴木は強豪・青山師範から2ゴールを奪った
- 1921年(大正10年) 第4回関東蹴球大会・1回戦で独協中を6−0で破り、2回戦で埼玉師範と1−1、CK数は同じ、GK数によって敗退した
3月、高師付属中学卒業
4月、早稲田高等学院(略称・早高)に入学、中学でのサッカー経験者の新人たちとともに練習を始める
9月、大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)が設立、早高も加盟チームに
10月、第1回全国優勝大会(現・天皇杯)東部予選に出場、準決勝で敗退 - 1922年(大正11年) 10月、高師グラウンドで第2回全国優勝大会東部予選開催、早高は2回戦で敗退。ビルマ(現・ミャンマー)人のチョウ・ディンを早大競争部の平井武選手が紹介、同氏によって早高の急速なレベルアップが進む
- 1923年(大正12年) 1月、東京帝国大(現・東京大)主催の第1回全国高等学校(旧制)ア式蹴球大会(高師グラウンド)に出場、参加8校、早高が優勝した
4月、早高を卒業し、大学へ。早稲田大学ア式蹴球部の設立を図る - 1924年(大正13年) 1月、高師グラウンドで開催された第2回全国高等学校蹴球大会で、早高は2回目の優勝
1月24日、第1回早慶サッカーで早大が2−0で勝つ
2月、東京コレッジリーグ(現・関東大学リーグ)が結成され、大正13年度リーグを翌年1〜2月に開催することや、リーグ戦規約を決めた
9月、大学幹事会で認められ、実質的に体育会内のア式蹴球部としての活動が始まる(正式承認は翌年)、新しく早大・関学定期戦が発足 - 1925年(大正14年) 1〜2月、第1回東京コレッジリーグ開催、1部6校、2部6校がそれぞれリーグ形式(1回戦制)で優勝を争い、早大が1部で優勝(4勝1敗)。2位帝大(3勝1分け1敗)3位法政(2勝1分け2敗)4位高師(2勝1分け2敗)5位慶應(3分け2敗)6位農大(1勝4敗)の順。農大は2部優勝の明大と入れ替わった(3、4位は得失点差による)
5月、第7回極東大会の日本代表決定戦に早大は関東代表で出場、関西代表の大阪クラブに敗れた
11〜12月、第2回東京コレッジリーグで早大は2位(優勝は高師)
- 1926年(大正15年) 3月、早大を卒業。同大ア式蹴球部の最初の卒業生。このOBを加えたチーム、WMW(WASEDA MAROON AND WHITE=早稲田、えび茶と白=えび茶色と白色は早大のチームカラー)が誕生
- 1927年(昭和2年) 6月、第8回極東大会、日本代表決定戦でWMWは関東代表となり、7月の全国大会予選会に優勝して代表権を獲得
8月、中華民国の上海市での極東大会に出場。第1戦は中華民国に1−5で敗れたが、第2戦の対フィリピンは2−1で勝ち、国際舞台での初勝利をつかんだ。大会後、WMWは9月4日から21日まで満州国と朝鮮半島へ遠征した - 1928年(昭和3年) 7月、野津謙と共著『ア式蹴球』(発行・アルス)を出版
- 1929年(昭和4年) JFA常務理事に(〜31年)
- 1930年(昭和5年) 5月、東京の明治神宮競技場で行なわれた第9回極東大会の日本代表監督となる。日本はフィリピンに7−2で勝ち、中華民国とは3−3で引き分け、1勝1分けで中華民国とともに1位となった
- 1931年(昭和6年) JFA主事(理事長)に(〜38年)。体育協会理事に(〜33年)
- 1933年(昭和8年) 体育協会専務理事に(〜35年)
- 1936年(昭和11年) 6月、ベルリン・オリンピック日本代表監督に。大会の1回戦で3−2とスウェーデンに大逆転劇、2回戦はイタリアに0−8で敗れる。日本代表は早大主力でオリンピックでの初勝利をもぎ取った。鈴木重義は27年は選手で、36年は監督で勝利を手にした
- 1971年(昭和46年) 12月20日、没。大学卒業後は同和火災に勤務、共栄火災取締役などを務めた
関連項目
- 昭和の大先達・竹腰重丸(中)
- 時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(上)
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(上)
- ベルリンの奇跡の口火を切ったオリンピック初ゴール 川本泰三(中)
- 第17回 竹腰重丸(3)ひたむきに極東の王座へ 上海でフィリピンに勝ち 東京で中華民国と3−3
- 第18回 竹腰重丸(4)後輩とともにベルリンの栄光 戦後の復興の先頭に立ち長沼・岡野の若いペアに託す
- 早稲田の“主” 工藤孝一(上)
- JFA創立に関わり、ベルリン行きを支援。“東京”成功の裏方を務め、50年史を世に残した 新田純興(下)
- 旧制神戸一中の生徒たちを半日の指導で変身させたビルマ人留学生、大正期のクラマー チョー・ディン
- チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)
- 国際舞台での初勝利からベルリンの逆転劇まで代表チームのリーダー 鈴木重義(上)
- 1927年の1勝を1936年のベルリンへつないだ卓越したリーダー 鈴木重義(中)
- 厳しいコーチをバックアップし代表チームに栄冠を呼んだ監督 鈴木重義(下)
- 大戦前の4年間、光彩を放った慶應義塾のソッカーを築いた 松丸貞一(上)
- オシムに代わる代表監督――火事場に強い男 岡田武史
- 自らは優れたランナー。体協の筆頭理事で募金活動に腕を振るったJFA初代会長 今村次吉
- 華族で貴族院議員。ベルリン五輪へ代表を送り成果を挙げた、第2代JFA会長 深尾隆太郎
- 30年極東大会、36年五輪。2つのビッグイベントを勝ち抜いた名FB 竹内悌三(続)
- 日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった
- 昭和初期のレベルアップ(1)
- 昭和初期のレベルアップ(5)
- ユルゲン・クリンスマン(7)90年W杯、対オランダ戦で会心のボレーシュート
- 大正末期日本サッカーの技術進化に貢献したビルマ人留学生チョー・ディン
- スコットランド流のパスゲームを強調したチョー・ディンの指導
- 好評の全国巡回コーチで日本サッカーの技術革新につなげた
- 1927年第8回極東大会、チョー・ディンの弟子たちが初勝利
- 昭和初期の日本サッカー技術力アップのリーダーとなったチョー・ディンの弟子たち
- 広島、神戸、名古屋、各地各様の伏流がやがて日本代表へJFA創設からの急速進化
- 1930年第9回極東大会のために初の選抜代表チームを編成したJFA
- 「極東」で勝ち、オリンピックに向かうため JFAの改革と代表の体力キャンプ
- ベルリンの栄光を味わい戦後の日本サッカー復興期を支えた実力者 小野卓爾(上)
- 東京とメキシコの成功を将来に備えたFIFAコーチングスクールやJFAと中央大学の発展と基礎を築いた“実力者” 小野卓爾(下)
- 死力を尽くして東アジア1位獲得 昭和5年代表に悲運のロス五輪
- 政治問題が代表の一体化に影を落とし、上昇日本に「蘭印」の強パンチ
- ベルリン到着後、新知識を吸収し、 3FB制を採用、いよいよ対スウェーデン
- オットー・ネルツのフスバルをバイブルに 東大、早大を追う慶應の初代主将濱田諭吉
- 濱田・ネルツ理論を受け継ぎ、新しいサッカーを目指した松丸・慶応
- 84年前に中華民国から1ゴール。兵庫、関西の協会長、神戸FC会長として少年育成に尽くした明治生まれのリーダー 玉井操
- チョウ・ディンの指導で神戸一中を開眼 51年第1回アジア大会に後輩10人を送り込む 時代の先頭を歩いたサッカー人 範多竜平(下)
フォトライブラリ
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1930年 第9回極東大会の開会式(明治神宮競技場)
1930年 第9回極東大会の開会式(明治神宮競技場)
1936年ベルリン五輪雑景:オリンピック村入村式
1936年ベルリン・オリンピック日本代表。後列右から川本泰三、松永行、加茂健、竹腰重丸コーチ、不破整、高橋豊二、佐野理平、右近徳太郎、金容植。前列右から西邑昌一、鈴木保男、竹内悌三、立原元夫、笹野積次、堀江忠男、種田孝一、工藤孝一コーチ
1936年ベルリン・オリンピックの日本代表。ドイツにて。後列左から7人目 川本泰三、その右・鈴木重義監督、右端は竹腰重丸コーチ
1936年ベルリン五輪開会式
1936年ベルリン五輪雑景:オリンピック村での国旗掲揚式
1936年ベルリン五輪雑景:ベルリン市長を表敬訪問
1936年ベルリン五輪雑景:ベルリン到着
1936年ベルリン五輪雑景:練習を終え帰村、くつろいだ表情の日本代表選手たち
新田純興さんが中心になりつくったJFA50周年記念の「日本サッカーのあゆみ」。その他、田辺五兵衛、鈴木重義、多和健雄、大谷四郎、中条一雄の5氏が編集委員を務めた
1936年ベルリン・オリンピック日本選手団、出国前の宮城遥拝
1936年ベルリン五輪出発前、明治神宮を参拝する日本選手団
“ベルリンの奇跡”1936年ベルリン五輪 日本対スウェーデンの公式記録
ベルリン・オリンピック(1936年)の代表壮行会で挨拶する鈴木重義監督。1927年から10年間、代表チームのリーダーだった
アサヒスポーツ「第9回極東大会特別号」の1ページ目。大会日程とその行事・成績の記事。中央の写真は総合優勝国(日本)が受けた大正天皇賜盃(アサヒスポーツ1930年6月10日号)※禁無断転載
第9回極東大会 蹴球の日本対フィリピン戦 ※禁無断転載
1923年 第1回全国高校蹴球大会に優勝した早稲田高等学院チームとチョー・ディン・コーチ(中央)。前列右から2人目は鈴木重義主将。「How to Play Association Football」より
日本の初期のサッカーの技術アップに貢献したチョー・ディン。右は彼に習った早高の鈴木重義。
第9回極東大会の日本代表チーム、石神井合宿。後列左端が鈴木重義監督、前列右から3人目は竹腰重丸主将(アサヒスポーツ1930年5月15日号)※禁無断転載
1930年 第9回極東大会の日本代表チーム。後列左から2人目から鈴木重義監督、一人おいて井出多米夫、杉村正三郎、高山忠雄、阿部鵬二、野沢正雄、竹腰重丸(主将兼コーチ)若林竹雄、春山泰雄、市橋時蔵、西村清。前列、本田長康、篠島秀雄、竹内悌三、後藤靭雄、手島志郎、斉藤才三
レプリカを受ける鈴木章氏(鈴木重義氏 長男)。左は川淵三郎キャプテン (C)フォート・キシモト
2007年9月10日、日本サッカー殿堂第4回掲額式典。高円宮妃殿下を中央に、表彰を受けた3氏(右から片山洋、鎌田光夫、山口芳忠)。左から川淵三郎JFAキャプテンとミャンマーサッカー協会のゾウゾウ会長、鈴木章氏 (C)フォート・キシモト