日本サッカー人物史
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ネルソン吉村大志郎 [Daishiro Nelson YOSHIMURA]
日本サッカー殿堂
1947年8月16日、ブラジル・サンパウロ生まれ
日本サッカーリーグ(JSL)初の日系ブラジル人選手
1967年にヤンマーに加入し、柔らかなボールタッチとテクニックで衝撃を与えるとともに、当時急激に成長しつつあったFW釜本邦茂のアシスト役として好パスを配給した
1968年度天皇杯全日本選手権、1971年度JSL1部でヤンマーに初優勝をもたらし、1972年度アシスト王獲得、1980年の現役引退までにJSL1部優勝4回、天皇杯優勝3回(1978年は二冠)に貢献、ヤンマーの絶頂期を築いた。JSLで189試合に出場し30得点、54アシスト、年間優秀11人賞4回受賞
ヤンマーでの活躍だけでなく、1970年には日本国籍を取得し、日本代表としても貢献、貴重なテクニシャンとして攻撃をリードするとともに、7年間にわたって献身的にプレーした
吉村の華麗なプレーは、ブラジルサッカーの個人技が「日本人でもここまでできる」ことを認識させ、後に日本のサッカーがブラジルスタイルに傾倒していく際の大きな勇気づけとなった
日本代表として101(Aマッチは46)試合出場、10(Aマッチは7)得点
引退後は指導者となり、若手の育成、タレント発掘など地道な仕事で日本サッカーの発展を支えた
1981〜89年ヤンマーコーチを経て、1990〜94年監督として指揮を執り、セレッソ大阪の礎を築いた
2003年没
イントロダクション
編集中プロフィール
- 1947年 8月16日、日系2世としてブラジルに生まれる
- 1967年 6月、来日してヤンマー・サッカー部に
彼より2ヶ月前に釜本邦茂が早大を卒業して入社、2人を中心にヤンマーは日本のトップチームとなる - 1969年 1月、天皇杯優勝。以来、ヤンマーは優勝2回(71、75年)、準優勝5回
- 1970年 日本国籍を取得。日本代表選手となり、76年に代表を退くまで101試合に出場10得点(うちAマッチ45試合7得点)
- 1971年 日本サッカーリーグでヤンマーが初優勝。以来、74、75、80年にも優勝、2位も4回(68、72、78、82年)
- 1980年 選手を引退、ヤンマーのコーチに
- 1990年 ヤンマーの監督に就任(91年に森島寛晃がプロ契約で入部)
- 1996年 大阪サッカークラブ(セレッソ大阪)のスクール・コーチに
- 2000年 大阪サッカークラブの総括部スカウト担当
- 2003年 11月1日、急逝
- 2010年 9月10日、第7回日本サッカー殿堂入り
関連項目
- 第4回 釜本邦茂(4)単身留学の驚くべき成果ゴール,前で見せる電光石化の動き
- 胸で止めてのシュート
- 第10回 セルジオ越後(2)リベリーノと競ったブラジルの技術の高さをJSLで披露
- サッカーのために最初にブラジルから来日、大きな衝撃を与えた日系2世 ネルソン吉村大志郎
- 日本の隅々まで足を伸ばし サッカーを教えたブラジル人 セルジオ越後(上)
- 【番外編】サッカー界の歴史指向とS誌選定、日本代表ベスト50 釜本邦茂の1位に思う
- 1967年のネルソン吉村
- 釜本に影響を与えた吉村の胸トラップ
- 釜本の復調でヤンマー初優勝の1971年
- 「5・3・2」も結構やけれど 各選手の分業化を考える時期
- スタミナを浪費するな! ホットスパー戦の教訓
- サッカーの極意は選手が掴むもの ソウルでの敗因を探る
- 釜本邦茂「ワールドカップへの挑戦 シュートのポイントを設定する」
- なぜパスが不正確なのか
- 番外編 ヤンマーサッカーの生みの親 山岡浩二郎さん
- ローマ、東京、メキシコ(16)
- ネルソン吉村を想う
- ワールドカップ初対決のブラジル対ドイツ。日本と密接な両国に、特別な思いが…
- 【番外編】日本のストライカー 日本は、わずかな競技人口の時代にも良いストライカーを生み出してきた
- 釜本邦茂(8)JSLヤンマーを最下位から5位へ、メキシコ・オリンピック予選突破。上昇続く23歳
- 釜本邦茂(21)肝炎から立ち直った第2黄金期。国内外で演じたビューティフル・ゴール
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アマチュアであった吉村(左)は、ブラジル・ヤンマーから日本の本社への研修生という名目で来日。工場での実習も仕事のひとつだった

ブラジル流のボールを浮かして相手のタックルを避ける吉村のプレーは、その当時にはとても珍しいものだった。日本サッカーリーグ 対三菱重工。長居競技場で。

ドリブルはネルソンの一つの看板

尼崎の三花寮で日本語の勉強をする吉村。ベッドに「こくご」の教科書を置いていた

1970年に日本に帰化したネルソン吉村(左)は、代表チームでも釜本(右)とプレーした

ネルソン吉村。尼崎の三花寮で

1973年「日独交歓サッカー」日本代表対1.FCケルン(6〜7月国立、長居)のマッチデープログラム表紙

1973年「日独交歓サッカー」日本代表対1.FCケルン(6〜7月国立、長居)のマッチデープログラム(選手紹介ページ)

ミュンヘン・オリンピック予選を戦った日本代表(1971年9月、ソウル) (C)フォート・キシモト ※『サッカー日本代表 世界への挑戦』(新紀元社)より

1972年ミュンヘン・オリンピックアジア東地区予選、日本対韓国 (C)フォート・キシモト ※『サッカー日本代表 世界への挑戦』(新紀元社)より

2002年、ヤンマーサッカー部OB会が発行した「ヤンマーサッカー部の歴史」の表紙(監修:賀川浩)

2010年9月10日、日本サッカー殿堂第7回掲額式典。高円宮妃殿下を中央に、左から小倉純二JFA会長、表彰を受けた故・ネルソン吉村氏の長男・誠一氏、落合弘氏、鈴木良三氏、浅見俊雄氏、大畠襄氏、賀川浩 (C)STUDIO AUPA

第7回日本サッカー殿堂掲額式典の懇親会で。右から川淵三郎キャプテン、賀川浩、吉村多恵子さん(ネルソン吉村氏夫人)

2010年9月10日、殿堂掲額式典後の懇親会で談笑する川淵三郎キャプテン(右)。その右、ネルソン吉村夫人・多恵子さん、賀川浩、左端はネルソン氏長男の誠一氏

1986年3月、故郷ブラジルにて

1984年8月25日、釜本邦茂引退試合(国立)。左からネルソン吉村、ペレ、マリーニョ(JSL選抜)

古巣ヤンマーのコーチ、監督を経て、大阪サッカークラブではスクール・コーチとなり子どもたちにサッカーを教えた

1994年11月、セレッソ大阪のJリーグ昇格を祝うパーティで。左から2人目、ネルソン吉村氏。1人おいて釜本邦茂氏

JRの電車内で、ファンに撮ってもらった一枚

ネルソン吉村氏(左)1995〜1996年頃、パウロ・エミリオ監督のお見送りで空港へ

自宅で友人と