日本サッカー人物史
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鈴木良三 [Ryozo SUZUKI]
日本サッカー殿堂
1939年9月20日、埼玉県生まれ
東京オリンピックからメキシコオリンピックにかけての日本サッカーの飛躍期に日本の守備を支えたディフェンダー
埼玉県立浦和西高校でサッカーを始め、1956年度第35回全国高校選手権大会優勝。立教大学では1959年度関東大学リーグ優勝(全勝優勝)東西学生王座決定戦初優勝、また、1962年入社の日立製作所では、1963年度天皇杯全日本選手権準優勝、全国都市対抗選手権優勝に貢献
立教大学在学中に日本代表に選出され1961年8月対インドネシア戦で日本代表デビュー。東京オリンピックでは全試合に出場し、チームのベスト8進出に貢献、バネのきいたヘディングと外国人選手にも負けないフィジカルの強さを生かして相手のエースを厳しくマークするストッパーの仕事を黙々とこなした。1966年アジア競技大会(バンコク)では3位。1967年6月、東京・駒沢競技場で行なわれたブラジルの一流プロクラブ、パルメイラスとの試合では、危険極まりないFWダリオをマーク、激しい当たりで防ぎきってプロチームに対する日本代表の初勝利を支えた。1968年メキシコオリンピック日本代表に選出され、同年代表を退いた。日本代表として98試合出場
JSL(日立)では、1965年にJSL選抜(当時のベストイレブン)に選出され、1970年までに通算67試合出場、5得点を記録
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1964年10月、東京オリンピックのとき、選手村で。 写真提供:鎌田光夫氏

日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額された肖像プレート

小倉純二JFA会長(左)から記念プレートを贈られる鈴木良三氏 写真提供:木村裕文氏

第7回掲額式典で、金子勝彦アナウンサーのインタビューに答える鈴木良三氏(右) 写真提供:木村裕文氏

2010年9月10日、日本サッカー殿堂第7回掲額式典。高円宮妃殿下を中央に、左から小倉純二JFA会長、表彰を受けた故・ネルソン吉村氏の長男・誠一氏、落合弘氏、鈴木良三氏、浅見俊雄氏、大畠襄氏、賀川浩 (C)STUDIO AUPA

掲額式典後のパーティで。高円宮妃殿下を囲んで、鈴木良三氏(中列左から3人目)とそのご家族 写真提供:木村裕文氏

第7回殿堂パーティで、川淵三郎キャプテン(左端)の乾杯の挨拶に耳を傾ける高円宮妃と掲額者たち (C)STUDIO AUPA

クラマーの来日に集まったメキシコ五輪代表。左から横山謙三、石井義信、岡野俊一郎、長沼健、クラマー、保坂司、鎌田光夫、鈴木良三

全日本対西ドイツ五輪代表、ゴール前の必死の攻防。ゴールに飛び込むボールを追う平木(1963年6月5日、西ドイツ・ジーゲン)

1964年10月16日(駒沢)東京五輪グループB第2戦のガーナ戦、日本ゴール前での攻防。白のユニフォーム、手前から片山洋(背番号2)、上久雄、山口芳忠、鎌田光夫、鈴木良三。背番号21はGK横山謙三

1967年12月2日、CSKAモスクワ2-2日本代表(国立競技場)。中央、ボールを持っているのは丸山義行レフェリー 写真提供:丸山義行氏

1967年12月2日、国立競技場で行なわれたCSKAモスクワ対日本代表(2-2)は日本人の丸山義行氏が主審を務めた 写真提供:丸山義行氏

1963年夏、デュイスブルクで。後列左から竹腰重丸団長、宮本征勝、小沢通宏、一人おいて横山謙三、デットマール・クラマー、鎌田光夫、長沼健、保坂司、鈴木良三、外国人選手をはさんで川淵三郎、釜本邦茂、片山洋、小城得達。前列左から岡野俊一郎コーチ、一人おいて上久雄、山口芳忠、宮本輝紀、杉山隆一、富沢清司、継谷昌三、八重樫茂生、渡辺正

1963年10月20日、西京極球技場で行なわれた「日独国際サッカー親善試合」日本対西ドイツのプログラム(表紙)

「日独国際サッカー親善試合」日本対西ドイツ(1963年10月20日、西京極球技場)の公式プログラム。両チームのメンバーリスト

「日英交歓サッカー」アーセナル対日本(1968年5月、国立他)の公式プログラム表紙

「日英交歓サッカー」アーセナル対日本(1968年5月、国立他)の日本代表メンバー。公式プログラムより