日本サッカー人物史

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大畠襄 [Nozomu OHATA]

日本サッカー殿堂

2010年第7回掲額

1930年11月25日、東京都生まれ
旧制成城高等学校尋常科でサッカーを始め、成城高等学校及び東京慈恵会医科大学でプレー
同大整形外科、形成外科学教室を経て1984年教授。翌年同大健康医学センターに、日本の医科系大学では初のスポーツ外来部を設立し、93年同センター長・スポーツ医学科教授に就任。96年より東京慈恵会医科大学客員教授
1964年JFAにおいて医事活動をスタート、70年第6回アジア競技大会で日本代表初のチームドクターをつとめ、以後約10年間日本代表チームに帯同、医学をスポーツの現場にフィードバックする体制を築いた。71年には三菱重工サッカー部で日本初のチームドクターとなり、74年にJSLチームドクター協議会を設立。77年JFAスポーツ医学委員長(〜98年)となり、サッカー医・科学研究会、サッカードクターセミナーを発足させ、95年にはJリーグにドーピングコントロールを導入等、医学管理の重要性を日本サッカー界に浸透させた。また、96年CAFと共催して南ア・プレトリアでスポーツ医学セミナーを開催し、2002FIFAワールドカップ招致に貢献した
1982〜06年FIFAスポーツ医学委員会委員、83〜02年AFC医事委員長(医事委員就任は79年)として、FIFAワールドカップ(90年イタリア大会から5大会連続)、アジアカップ等国際大会における医学管理とドーピングコントロールの指揮をとった。06年引退に際し、FIFA功績認定証が授与された。また、95年第1回アジア・科学とフットボール学会(東京)を皮切りに、アジア各地でスポーツ医学会議、スポーツ医学セミナーを開き、アジアのスポーツ医学の普及と向上に貢献、「アジアスポーツ医学の父」と称される。92年、02年AFC功労賞受賞

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1972年ミュンヘン・オリンピックアジア東地区予選A岡野俊一郎A藤島信雄A古田篤良A崎谷誠一A宮本輝紀Aネルソン吉村大志郎A上田忠彦A杉山隆一A釜本邦茂A足利道夫A大野毅A小城得達A新井公三A平木隆三A八重樫茂生A大畠襄A横山謙三A船本幸路A山口芳忠A宮本征勝A片山洋A富沢清司A永井良和A森孝慈

ミュンヘン・オリンピック予選を戦った日本代表(1971年9月、ソウル) (C)フォート・キシモト ※『サッカー日本代表 世界への挑戦』(新紀元社)より

1972年ミュンヘン・オリンピックアジア東地区予選A岡野俊一郎A小城得達A大野毅A藤島信雄A古田篤良A崎谷誠一A宮本輝紀Aネルソン吉村大志郎A上田忠彦A新井公三A富沢清司A平木隆三A八重樫茂生A大畠襄A横山謙三A船本幸路A山口芳忠A宮本征勝A片山洋A杉山隆一A森孝慈

1972年ミュンヘン・オリンピックアジア東地区予選、日本対韓国 (C)フォート・キシモト ※『サッカー日本代表 世界への挑戦』(新紀元社)より

大畠襄

日本サッカーミュージアムの殿堂に掲額された肖像プレート

小倉純二A高円宮妃久子A賀川浩Aネルソン吉村大志郎A浅見俊雄A落合弘A大畠襄A鈴木良三

2010年9月10日、日本サッカー殿堂第7回掲額式典。高円宮妃殿下を中央に、左から小倉純二JFA会長、表彰を受けた故・ネルソン吉村氏の長男・誠一氏、落合弘氏、鈴木良三氏、浅見俊雄氏、大畠襄氏、賀川浩 (C)STUDIO AUPA

小倉純二A大畠襄

小倉純二JFA会長(左)から記念プレートを贈られる大畠襄氏 写真提供:木村裕文氏

金子勝彦A大畠襄

第7回掲額式典で、金子勝彦アナウンサーのインタビューに答える大畠襄氏(右) 写真提供:木村裕文氏

小倉純二A高円宮妃久子A大畠襄A浅見俊雄A賀川浩A鈴木良三

第7回殿堂パーティで、川淵三郎キャプテン(左端)の乾杯の挨拶に耳を傾ける高円宮妃と掲額者たち (C)STUDIO AUPA

大畠襄

大畠襄氏。2010年9月10日、第7回日本サッカー殿堂掲額式典で 写真提供:木村裕文氏

山口芳忠A大畠襄A賀川浩

(左から)第7回殿堂入りした大畠襄氏、賀川浩、第4回掲額の山口芳忠氏。殿堂掲額式典後のパーティーで (C)STUDIO AUPA

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