日本サッカー人物史
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浅見俊雄 [Toshio ASAMI]
日本サッカー殿堂
1933年10月3日、埼玉県生まれ
埼玉県立浦和中学校でサッカーを始め、県立浦和高校時代には1951年度国民体育大会高校の部優勝、全国高校選手権大会優勝、東京大学では1952年度年第1回全国大学選手権優勝
1959年に1級審判員となり、1983年の引退までトップレフェリーとして、また1961年からは国際審判員として国内外で20年以上に亘り活躍。1964年東京オリンピック線審、1979年第2回FIFAワールドユース選手権、アジアカップ、アジア競技大会等主審を務め、1983年FIFA審判員特別功労賞を受賞。JSLでは主審74試合(1965〜82年)
1978年JFA理事に就任、91年からはJリーグ理事を兼務し、日本サッカー界全体の底上げと活性化を推進
1983年よりJFA審判委員長として(93年からはJリーグ審判委員長兼任)、委員会機能の充実と地域との連携を図り、日本サッカー審判界のレベルアップに着手。特に、「ワールドカップで笛を吹ける審判員」の養成を目指し、若手の育成とプロ化に向けた基盤作り、インスペクター、インストラクター制度の確立と充実に重点を置く抜本的な施策を行ない、後の時代につなげた。また女子審判員の育成にも尽力、資格制度を設け、世界大会への輩出を実現した
1986〜2002年AFC審判委員会委員・副委員長を務め、審判教育や体力トレーニングの導入により審判員制度に厳しい基準を設けるなど、アジアの審判界における規律の重視と技術向上を主導。その功績により2002年AFC功労賞受賞。またAFC規律委員会の委員・副委員長としてフェアプレーの徹底に尽力した
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1973年「日独交歓サッカー」日本代表対1.FCケルン(6〜7月国立、長居)のマッチデープログラム表紙

1973年「日独交歓サッカー」日本代表対1.FCケルン(6〜7月国立、長居)のマッチデープログラム(選手紹介ページ)

1973年「日独交歓サッカー」日本代表対1.FCケルン(6〜7月国立、長居)。ケルンのメンバー提出用紙

2010年12月7日、賀川浩日本サッカー殿堂入りパーティ(東京)。 (C)フォート・キシモト

2010年9月10日、日本サッカー殿堂第7回掲額式典。高円宮妃殿下を中央に、左から小倉純二JFA会長、表彰を受けた故・ネルソン吉村氏の長男・誠一氏、落合弘氏、鈴木良三氏、浅見俊雄氏、大畠襄氏、賀川浩 (C)STUDIO AUPA

小倉純二JFA会長(左)から記念プレートを贈られる浅見俊雄氏 写真提供:木村裕文氏

第7回掲額式典で、金子勝彦アナウンサーのインタビューに答える浅見俊雄氏(右) 写真提供:木村裕文氏

掲額式典後のパーティで、高円宮妃殿下を囲んで。浅見俊雄氏(妃殿下右隣)ご家族と小倉純二会長(中列右端) 写真提供:木村裕文氏

第7回殿堂パーティで、川淵三郎キャプテン(左端)の乾杯の挨拶に耳を傾ける高円宮妃と掲額者たち (C)STUDIO AUPA