日本サッカー人物史
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賀川浩 [Hiroshi KAGAWA]
日本サッカー殿堂
1924年12月29日、兵庫県生まれ
神戸市立雲中小学校5年でサッカーを始め、神戸一中(現・県立神戸高校)、神戸経済大学(現・神戸大学)、大阪クラブなどでプレー。東西学生選抜対抗出場、全日本選手権準優勝2回の経験を持つ
1951年スウェーデン・ヘルシングボーリュの来日を地方紙に寄稿したのがきっかけとなり、スポーツ記者の道を歩む。1952年産経新聞社に入社し、サッカーのみならず様々なスポーツの取材を続け、1974〜84年サンケイスポーツ(大阪)編集局長、定年退職後はフリーランスとして、足かけ60年にわたりサッカージャーナリストとして活躍。その間、FIFAワールドカップは1974年西ドイツ大会以来2006年ドイツ大会まで9大会連続で現地取材をこなし、ヨーロッパ選手権も5回取材した。国内で行なわれた国際大会はもとより、JSL、Jリーグとも開幕から足を運び、『サンケイスポーツ』紙だけでなく、各種サッカー雑誌などで健筆を振るい、技術論から人物史まで様々な角度から世界と日本のサッカーを書き続けてきた。なかでも『サッカー・マガジン』誌で74年から連載してきた「ワールドカップの旅」は、紀行形式という斬新な方法で世界各地のサッカーを紹介するとともに、サッカーとサッカーを愛好する人々に対する筆者の深い愛情が見事に表現され、日本のファンに世界のサッカーの知識を提供するとともに、夢をかきたて続けた
執筆活動以外でも、1964年東京オリンピック5、6位決定戦(大阪トーナメント)の開催、社団法人神戸フットボールクラブの創設に関わり、関西サッカー協会役員としても長く活動するなど、サッカーの興隆のために尽力した
イントロダクション
編集中プロフィール
- 1924年12月29日、神戸に生まれる
- 1931年4月、雲中小学校入学
- 1937年、雲中小学校卒業、神戸一中へ
- 1938年、神戸一中が全国優勝(兄・太郎4年生)
- 1939年、太郎主将率いる神戸一中が第10回明治神宮大会優勝、師範優勝の広島師範と天覧試合
- 1941年、第12回明治神宮大会優勝(普成中と引き分け両校1位、浩5年生)
- 1942年、神戸商大予科(現・神戸大)に入学
- 1944年、陸軍特別操縦見習士官に
- 1945年、第413飛行隊(特別攻撃隊)入隊、終戦後10月に復員
- 1946年、神戸経大クラブで天皇杯準優勝
- 1952年、大阪クラブで天皇杯準優勝
産経新聞社入社、スポーツ記者の道へ - 1958年、アジア大会(東京)取材
- 1959年、アジアユース(マレーシア)に報道兼マネジャーとして同行
- 1963年、兵庫サッカー友の会設立に携わる
- 1964年、東京五輪5/6位決定戦「大阪トーナメント」を企画
- 1965年、神戸少年サッカースクール設立に携わる(常務理事)
アジアユース(日本)取材 - 1966年、アジア大会(バンコク)取材
- 1970年、日本初の法人格を持つサッカークラブ、(社)神戸フットボールクラブ創設に携わる
- 1974年、西ドイツワールドカップで初のW杯現地取材、06年大会まで9大会連続
サッカーマガジン誌で紀行形式の連載「ワールドカップの旅」を始める
サンケイスポーツ編集局次長、同年暮れに編集局長(大阪、〜84年) - 1977年、欧州駆け足ツアー(ハンガリー、フランス、ドイツ取材)
- 1978年、アルゼンチンW杯取材
- 1980年、EURO80(イタリア)、コパデオロ(ウルグアイ)取材
- 1981年、第1回大阪国際女子マラソン事務局長(〜1984年)
- 1982年、スペインW杯取材
- 1984年、大阪サンスポ企画社長
EURO84(フランス)取材
釜本邦茂引退試合を企画運営 - 1986年、メキシコW杯取材
- 1987年、ユニセフチャリティマッチ「マラドーナの南米選抜対日本選抜」を企画
- 1988年、天神祭奉納ドラゴンカヌー大会開催
- 1989年、欧州スーパーカップ(ACミラン対バルセロナ)取材
- 1990年、イタリアW杯取材後、定年退職。フリーランス記者に
- 1992年、EURO92(スウェーデン)取材
- 1993年、Jリーグマッチコミッショナー就任
- 1994年、米国W杯取材
- 1995年、阪神大震災で書庫兼事務所が倒壊
アンブロカップ(イングランド)取材 - 1996年、EURO96(イングランド)取材
- 1997年、Jリーグアウォーズで功労賞を受賞
- 1998年、フランスW杯取材(日本が初出場、グループリーグ敗退)
「賀川サッカーライブラリー」開設 - 2000年、EURO2000(オランダ/ベルギー)取材
週刊サッカーマガジンで「My Football Chronicle」、月刊グランで「このくにとサッカー」の連載を開始 - 2002年、日韓W杯取材(日本は初の16強進出)
- 2005年、JFA殿堂委員会委員に就任(〜08年7月)
- 2006年、ドイツW杯取材(日本はグループリーグ敗退)
- 2007年、日本サッカーミュージアムの協力のもと「日本サッカーアーカイブ」開設
- 2010年、南アフリカW杯現地取材を断念、40年ぶりにW杯を日本で見る
第6回日本サッカー殿堂入り - 2011年、芦屋市民文化賞受賞
- 2014年、ブラジルW杯取材
「90歳の昔話ではない。 古今東西サッカークロニクル」を出版 - 2015年、FIFA会長賞受賞
●主な著作/監修 「90歳の昔話ではない。 古今東西サッカークロニクル」(東邦出版) 「サッカー ストライカーの技術講座」(ベースボール・マガジン社) 「ワールドクラスの技術」(ベースボール・マガジン社) 「釜本邦茂・ストライカーの技術と戦術」(講談社) 「釜本邦茂・ストライカーの美学」(東方出版) 「ボールを蹴って50年」(神中サッカー・クラブ) 「サッカー日本代表世界への挑戦」(新紀元社) 「決定版ワールドカップ全史」(ブライアン・グランヴィル著)(草思社) 「ワールドカップ・ストーリー」(ブライアン・グランヴィル著)(新紀元社)
関連項目
- 第1回 釜本邦茂(1)足のシュートもヘディングシュートもボールを注視した
- フランスで見る夢‘98W杯サッカー(2)半世紀の目 By平井 桂月
- W杯 夢の大舞台に期待 〜伝わるか サッカー取材の興奮〜 By上杉 威彦
- 普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(中)
- 天皇杯を7度も獲得した名ストライカー 二宮洋一(上)
- 【番外編】サッカー界の歴史指向とS誌選定、日本代表ベスト50 釜本邦茂の1位に思う
- 1959年アジアユース「日本のスポーツ史上、高校生チーム初の海外遠征」
- 「川本泰三放談」とは
- 「5・3・2」も結構やけれど 各選手の分業化を考える時期
- PKは低く蹴れ! ユース日韓戦、日本の敗因をつく
- スタミナを浪費するな! ホットスパー戦の教訓
- クラマーからの脱皮 自分で考え、自分で工夫することが大事なのだ
- サッカー選手に欲しい素質 “外から見える素質”と“見えざる素質”
- 30年間早大を鍛えた鬼監督 工藤孝一氏の思い出
- サッカーの極意は選手が掴むもの ソウルでの敗因を探る
- ヤンマーの個性 日本代表との差はどこにある
- 選手をおだてる時代は終った 若手の活躍は釜本、小城らに支えられてのもの
- 五輪アイスホッケーに学ぶ サッカーのフィルターを通して見た共通点
- 千差万別のスイングの中に基本がある
- 技を磨けば心も磨ける 心を磨けば技も磨ける
- 日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった
- ベルリンでのGK佐野理平氏の神ワザの秘話
- 高校大会にこつ然と現れ消えた幻のストライカー
- 旧制の全国高等学校大会は青春の気迫を現す場だった
- 宿命のライバル韓国の名プレーヤーたち
- なぜ日本選手は接触プレーを避ける ベルリン以後の3FBとの違い
- 守りを分散させたオールド・ファッションの3ウィング
- HBのポジションと有馬、宮田の存在
- 戦前の代表的ストライカー 二宮洋一とボク自身……
- 戦前の代表的ストライカー 二宮洋一とボク自身……(続)
- メルボルン五輪大会で印象に残ったソ連・ブルガリア
- シベリア抑留の頃、我がサッカー不毛時代
- 大阪に招致した東京五輪の5−6位決定戦
- vs八重樫茂生 優秀な選手はボールを持ったら安心するものだ 〜すべての環境が整っているのになぜ日本は強くならないのか〜 <new!>
- vs鬼武健二 海外遠征の好成績が心に甘さをつくった!! 〜不調の最大の原因となったコンディション調整の失敗とゾーンディフェンスの問題点〜 <new!>
- vs渡辺正 日本サッカーは当面の目標を打倒韓国に絞るべきだ 〜ゴール前のスペシャリストといわれたガッツマンが語る現在の日本サッカー〜 <new!>
- 賀川浩「サッカーは世界とつきあう窓やね」 By田中J太郎
- サッカー人生はや半世紀 〜74年W杯から全大会を取材・賀川浩さん〜 By武智 幸徳
- 大戦争に直面して(2)
- 開幕試合、フランス代表の受難
- フランス―ウルグアイ、難しく、感動的な試合
- ロナウド復活の驚きと喜び
- 小兵のストライカー、手島をはじめFWは東大の5人が並ぶ
- 日本サッカー殿堂入り。多くのお祝いメッセージありがとう。ちょっと嬉しく、少し気恥ずかしい85歳の本人から 賀川浩
- 東京とメキシコの成功を将来に備えたFIFAコーチングスクールやJFAと中央大学の発展と基礎を築いた“実力者” 小野卓爾(下)
- 第1回日本フートボール大会に出場 慶応ソッカー部の創設者でハンター邸の主 範多竜平(上)
- チョウ・ディンの指導で神戸一中を開眼 51年第1回アジア大会に後輩10人を送り込む 時代の先頭を歩いたサッカー人 範多竜平(下)
- マインツ・岡崎慎司の成長と 46年前の五輪銅メダリストの“ひたむき”ゴール 渡辺 正(上)
- サンケイスポーツ新聞を創刊 『熱戦一番』『山ある記』を生んだ編集長 木村象雷(下)
フォトライブラリ
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2010年9月10日、日本サッカー殿堂第7回掲額式典。高円宮妃殿下を中央に、左から小倉純二JFA会長、表彰を受けた故・ネルソン吉村氏の長男・誠一氏、落合弘氏、鈴木良三氏、浅見俊雄氏、大畠襄氏、賀川浩 (C)STUDIO AUPA
イングランドの往年の名選手サー・ボビー・チャールトンと。2011年9月12日、JFA創立90周年パーティで
2011年9月12日、JFA創立90周年パーティで。左からクラマー夫人、長沼有光子さん(故・長沼健氏夫人)平木ハナ子さん(故・平木隆三氏夫人)デットマール・クラマー氏、賀川浩
小倉純二JFA会長(左)から記念プレートを贈られる賀川浩 (C)STUDIO AUPA
第7回掲額式典で、金子勝彦アナウンサー(左)のインタビューに答える賀川浩
2010年9月、第7回殿堂入りした賀川浩。兄・太郎と親友デットマール・クラマーのプレートの前で
兄・賀川太郎の息子たちと、太郎の銅板を囲んで。左奥が長男の進太郎氏、手前は次男・竜二郎氏(2010年9月)
第7回殿堂パーティで、川淵三郎キャプテン(左端)の乾杯の挨拶に耳を傾ける高円宮妃と掲額者たち (C)STUDIO AUPA
2010年9月、第7回掲額式典。高円宮妃、小倉会長(中央)と談笑する賀川浩
賀川浩(前列中央)。2010年9月、第7回掲額式典で家族、サッカー仲間とともに。賀川の右隣は律子夫人 (C)STUDIO AUPA
2010年9月、第7回掲額式典で仲間に囲まれ笑顔の賀川浩(前列)。後列左から二人目、大仁邦彌JFA副会長
第7回日本サッカー殿堂掲額式典の懇親会で。右から川淵三郎キャプテン、賀川浩、吉村多恵子さん(ネルソン吉村氏夫人)
2010年9月10日、殿堂掲額式典後の懇親会で談笑する川淵三郎キャプテン(右)。その右、ネルソン吉村夫人・多恵子さん、賀川浩、左端はネルソン氏長男の誠一氏
2010年9月、第7回掲額式典。左から賀川浩、岡野俊一郎 元JFA会長、平松純子 ISU理事
第7回日本サッカー殿堂入りした賀川浩(右)と落合弘氏
2010年9月、第7回殿堂入りした賀川浩(右)と、大東和美Jリーグ新チェアマン
2010年9月、第7回掲額式典。左からサッカージャーナリストの大住良之氏、賀川浩、今井恭司カメラマン
2010年9月、第7回掲額式典で。賀川浩(右)と第4回殿堂入りの元日本代表スィーパー・鎌田光夫氏 (C)STUDIO AUPA
2010年9月、第7回掲額式典。左から元日本代表 藤口光紀氏、賀川浩、第6回殿堂入りの丸山義行 元国際審判員、ジャーナリスト仲間の牛木素吉郎氏 (C)STUDIO AUPA
賀川浩。第7回掲額式典で、律子夫人(左)と長年の記者仲間、大住良之氏と (C)STUDIO AUPA
賀川浩(右から4人目)。第7回殿堂掲額式典で、元選手、記者仲間とともに (C)STUDIO AUPA
(左から)第7回殿堂入りした大畠襄氏、賀川浩、第4回掲額の山口芳忠氏。殿堂掲額式典後のパーティーで (C)STUDIO AUPA
2010年9月、第7回掲額式典。左から賀川浩、原博実JFA技術委員長、小倉純二JFA会長、岩谷俊夫氏次男の砂田純二氏、本多克己氏
2010年9月、第7回掲額式典。第3回掲額の森孝慈氏(左)と賀川浩
2009年9月、掲額式典で。殿堂入りした松本育夫さん(中央)と。左、賀川浩、右、二村昭雄さん
2009年9月、掲額式典後のパーティで談笑する鎌田光夫氏(左)と賀川浩
河本春男先生が編集発行した『神戸一中蹴球史』(1932年)
2002年、ヤンマーサッカー部OB会が発行した「ヤンマーサッカー部の歴史」の表紙(監修:賀川浩)
「ストライカーの美学 釜本邦茂写真集」の表紙(1985年 東方出版発行、監修:賀川浩)
賀川浩(右)1971年頃。ベルリン五輪のCF川本泰三さん(左)に連れられ、よく釣りに出かけた
2004年11月8日、鴇田正憲を偲ぶ会で(ホテル竹園芦屋)。前列左から岩谷俊夫夫人、鴇田夫人、長沼健元JFA会長。後列左から前野正氏、賀川浩
賀川太郎がいつも胸ポケットに入れていたのは、弟・浩の出征の日の写真だった
神戸一中時代。1941年夏、兵庫県大会で優勝した賀川浩(後)と岩谷俊夫
1941年夏、神戸一中が兵庫県中学校大会で優勝。4試合で岩谷(下)5点、賀川(上)が6点、合計11点をとった記念に
神中クラブ。1947年、西宮で。前列左から3人目 大谷四郎、左端 賀川浩
1956年メルボルン五輪予選前の合宿を訪ねて。代表の鴇田正憲選手(右)と賀川浩
1948年 東西OB選抜対抗の西軍(西宮球技場)。右端、大谷四郎。左端、賀川浩
第1回アジアユース大会、日本代表のメンバー表(表紙)
第1回アジアユース大会、日本代表のメンバープログラム
1960年頃、記者クラブと関西協会役員の交歓試合で。前列右端が大谷四郎(朝日)同4人目・賀川浩(サンケイスポーツ)。後列右から2人目・小山俊昭(共同通信)中山信宜(デイリー)、2人おいて市田左右一元FIFA常任理事
EURO92取材のとき、イエテボリのスタジアム記者席でロクさん(左・高橋英辰)と
メキシコW杯のとき、プエブラでのアルゼンチン対ウルグアイ戦を前に。高橋英辰さん(右)と賀川浩
あるパーティで高橋ロク(英辰)さんと賀川浩。ロクさんのネクタイは本人デザインのロク・タイ
2000年7月 中国・秦皇島市で。75歳の誕生祝いにドイツ協会から贈られた代表ユニフォームを手にしているデットマール・クラマー
オーストリアとの国境に近いクラマーの自宅の前で。左は賀川浩
2005年11月、「日本におけるドイツ年」講演前の控え室にて、デットマール・クラマー、故・岩谷俊夫 夫人と
クラマー氏講演前の控え室にて。左は滝川二高監督(当時)の黒田和生さん
2005年11月14日、「日本におけるドイツ年」にて。左から岩谷俊夫の次男・砂田氏、岩谷夫人、クラマー、河本武ユーハイム社長、賀川浩
首からレイを下げるクラマー。右は賀川浩。“北九州ダービー”を盛り上げる催しのひとつとして、クラマー氏の講演会が開かれ来日した
インタビューに応じるクラマー(右)2000年中国泰皇島市の中国足球学校で
第1回殿堂入りの村形繁明さん(右)。2005年5月27日、殿堂表彰式のレセプション会場で。賀川浩と。
2010年12月7日、賀川浩(赤胸章)日本サッカー殿堂入りパーティ。お祝いに駆け付けた「サロン2002」の仲間たちと (C)フォート・キシモト
2010年12月7日、賀川浩(赤胸章)日本サッカー殿堂入りパーティ。ライター/記者、編集者、カメラマンの仲間たちと (C)フォート・キシモト
1983年頃、神戸にて牛木素吉郎記者(右端)とともに、(その隣、右から)指導の大家ウィル・クーバーコーチ、同夫人、加藤正信ドクター、バルコム・コーチ、賀川浩