日本サッカー人物史

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チョー・ディン [Kyaw DIN]

日本サッカー殿堂

2007年第4回掲額

1900年6月、ビルマ生まれ
サッカーの指導と理論の伝授により、大正〜昭和初期に日本サッカー界に画期的な技術的進歩をもたらしたビルマ(現・ミャンマー)出身の留学生(東京高等工業学校。現在の東京工業大学)
1920年頃から東京高等師範学校附属中学校等で指導を始め、鈴木重義氏の要請により指導した早稲田高等学院は、1923年に始まった全国高等学校ア式蹴球大会(旧制インターハイ)で2連覇を成した。それにより氏の指導力の高さに注目が集まり、全国の学校で巡回指導が始まった。キックやパス等の基礎から、パスをつないで攻めるショートパス戦法まで、実技と理論を教え、その結果日本サッカー全体の技術力が向上し、国際舞台での活躍の基盤が整った
また、指導のテキストとして、『How to Play Association Football』を執筆。1923年8月、教え子らの協力により日本語版が出版される。当時の我が国にはない、写真や図を多用した、技術や戦術に関する具体的かつ理論的なテキストであった
氏の指導を受けたチームはショートパス戦法を軸に躍進し、選手、指導者はその後の日本サッカー界を牽引。特に、鈴木氏が監督を務め、竹腰重丸氏を中心に東大主力で挑んだ1930年の極東選手権大会では初の東アジア制覇。ここに日本サッカーは独自のスタイルを確立し、戦術的伝統の基盤が作られた。その躍進は6年後のベルリン・オリンピックでの快挙にも及んだといえる
1924年に帰国。その後の消息は不明である
2007年 第4回日本サッカー殿堂入り

イントロダクション

自ら手本を示して基礎技術を教え、パスをつなぐ組織サッカーを説いた

 ビルマ(現・ミャンマー)人留学生チョー・ディンの指導によって、大正末から昭和初期の日本サッカーの技術・戦術が急速に進歩した。サッカー史を学ぶ者は、こういうふうに教えられているハズ。私自身も、彼の教えを受けた多くの先輩たちから何度も聞かされてきた。
 走り高跳びのアスリートであったチョー・ディンさんが早稲田のアスリートを通じて、生まれたばかりの高等学院(略称・早高)ア式蹴球部の練習をみて、教えてみようという気になったいきさつ、そして、そこで鈴木重義さんという“やり手”に会うところが天の配剤の妙というべきだろう。

 チョー・ディンの指導について、直弟子で昭和の大先達・竹腰重丸(たけのこし・しげまる)さん、通称ノコさんは、「非常に理論的で分かりやすかったこと、また自ら手本を示して基本技術を教えたこと、『HOW TO PLAY ASSOCIATION FOOTBALL』というテキストを英文で書き上げ、これの日本語訳を受講者に読ませたこと――」などを各地での好評の理由に挙げている。

 旧制・神戸一中(現・神戸高校)26回生の北川貞義さんは、大正12年(1923年)春、中学4年生のときに半日だけチョー・ディンのコーチを受けた思い出をこう語っている。
「それまでやっていたサッカーは、たとえばFBのボクなら、相手がボカンと蹴ってきたボールをボクがボカンと蹴り返す。たまたま相手のボールが、そのFWに渡ると、彼がボールを突っかけるようにドリブルしてくる。それを奪いにゆくのだった。
 タックルにしても、グラウンドの周囲にいる先輩たちも、ただ『すべれ』と叫ぶだけで、どのようにスライディング・タックルするのか、全く教えてくれなかった。そんななかで自分なりに工夫し、いっぱい疑問があったのが、チョー・ディンさんの説明でひとつひとつが解きほぐされてゆく感じだった。」

 26 回生といえば、昭和17年卒43回の私よりも17歳年長で、ノコさん(1906年生まれ)とほぼ同世代だが、私が注目しているのは、この基礎技術とともに、チョー・ディンがサイドキックを使って短いパスでつなぎ、スルーパスを相手DFの背後に送り込むショートパスの組織攻撃を説いたことだった。
 北川さんたちはそれ以後、ボカンと蹴り返すのでなく味方にボールをつなぐようになり、ライバルの御影師範をはじめ各地の師範学校を倒して全国で優勝する神戸一中の基礎をつくった。ここで興味があるのは、チョー・ディンのサッカーはどうやらスコットランド人に習ったらしいこと。彼のつくったテキストにも、サッカーはスコットランドで始まったと書かれている。ご存知のようにスコットランドといえば、イングランドに対抗してショートパスを重視したところである。
 同じころ、東京高師附属中学もチョー・ディンに習って“つなぐ”サッカーを覚えた(鈴木重義さんも高師附属の出身)。神戸一中や附中の卒業生が旧制高校を経て東大に進み、ノコさんを中心に組織サッカーをつくり上げる。
 体格に優れた相手に勝つために、技術を高めよく走って、組織的に守り、短くつないで攻めるという日本流サッカーは、1930年の第9回極東大会、1936年のベルリン・オリンピックで成果を挙げた。
 日本で最初にサッカーの技術を手本を示しつつ教えてくれた外国人コーチがスコットランドの影響を受けていたところも、またまた天の配剤――。歴史を紐とく面白さはこういうところにもある。

プロフィール

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第1回全国高校蹴球大会Aチョー・ディンA鈴木重義

1923年 第1回全国高校蹴球大会に優勝した早稲田高等学院チームとチョー・ディン・コーチ(中央)。前列右から2人目は鈴木重義主将。「How to Play Association Football」より

チョー・ディンA鈴木重義

日本の初期のサッカーの技術アップに貢献したチョー・ディン。右は彼に習った早高の鈴木重義。

チョー・ディン

大正末〜昭和初めの日本サッカーの技術進歩に貢献したチョー・ディン(日本サッカーミュージアム提供)

チョー・ディン

ボレーキックの指導をするチョー・ディン・コーチ(日本サッカーミュージアム提供)

チョー・ディン

棒高跳びの選手だったチョー・ディンさんは、スラリとした体つきをしていた(日本サッカーミュージアム提供)

チョー・ディン

チョー・ディンの著作「How to Play Associaiton Football」の表紙

ゾウゾウAチョー・ディンA川淵三郎

掲額のレプリカを受けるゾウゾウ・ミャンマーサッカー協会会長。左は川淵三郎キャプテン (C)フォート・キシモト

高円宮妃殿下AゾウゾウA鈴木章A片山洋A鎌田光夫A山口芳忠A川淵三郎Aチョー・ディンA鈴木重義

2007年9月10日、日本サッカー殿堂第4回掲額式典。高円宮妃殿下を中央に、表彰を受けた3氏(右から片山洋、鎌田光夫、山口芳忠)。左から川淵三郎JFAキャプテンとミャンマーサッカー協会のゾウゾウ会長、鈴木章氏 (C)フォート・キシモト

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