日本サッカー人物史

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牛木素吉郎 [Sokichiro USHIKI]

日本サッカー殿堂

2011年第8回掲額

1932年6月12日、新潟県生まれ
新潟県立新潟高校、東京大学文学部社会学科卒業。東大ア式蹴球部主務。東京新聞、読売新聞でスポーツ記者を務め、50年以上にわたってスポーツジャーナリストとして活動
1970年代半ばまで日本サッカー協会機関誌『サッカー』の編集に携わる一方、『サッカーマガジン』誌(ベースボール・マガジン社)では、1966年の創刊以来40年間にわたって時評を連載して日本のサッカー界のオピニオンリーダーとなり、Jリーグ時代につながる「サッカーという文化の考え方」を説いてきた
学校と企業に依存していた日本のスポーツを「クラブ化」することのメリットを訴え、自ら読売サッカークラブの創設(1969年)に尽力。アマチュアリズム至上主義の不合理性に目をつけ、プロフェッショナルとアマチュアが健全な形で共存することがサッカーという競技のあるべき姿であることを主張し続けた
海外サッカーの情報がほとんどなかった1958年にワールドカップを新聞で紹介し、1970年メキシコ大会以来11大会連続して現地取材。1970年大会を題材とした日本で初めてのワールドカップに関する書籍『サッカー 世界のプレー』(講談社)をまとめてワールドカップに関する知識を広めるとともに、70年代から繰り返しワールドカップ日本開催の夢を語ってきた
メディア人として後生に記録を残すことの重要さを意識し、1965年の1シーズン目からの「日本サッカーリーグ年鑑」の発行を強く推進。また、現在日本のサッカーで広く使われている「試合記録用紙」の開発は、地味ながら忘れてはならない重要な業績と言える
新聞社退職後には、「ビバ!サッカー研究会」「日本サッカー史研究会」を主宰し、広く一般のファンの参加を求めてサッカー知識の普及に努めている

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プロフィール

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牛木素吉郎

牛木先生。ビバ!サッカー研究会の仲間とまとめた『Jリーグのある暮らし―サポーターズ・アイ 』を手に 写真提供:ご本人

牛木素吉郎

2011年8月18日、「牛木素吉郎先生サッカー殿堂入り記念パーティ」で、仲間たちと 写真提供:山内博之氏

小倉純二A高円宮妃久子A多和秀人Aクリストファー W・マクドナルドAロジャー・マクドナルドA多和健雄A牛木素吉郎

2011年9月12日、日本サッカー殿堂第8回掲額式典。高円宮妃殿下を中央に、左から小倉純二JFA会長、表彰を受けた牛木素吉郎氏、クリス・マクドナルド氏長男ロジャー氏、多和健雄氏長男 秀人氏 (C)TOMIKOSHI PHOTOGRAPHY

藤口光紀A丸山義行A牛木素吉郎A賀川浩

2010年9月、第7回掲額式典。左から元日本代表 藤口光紀氏、賀川浩、第6回殿堂入りの丸山義行 元国際審判員、ジャーナリスト仲間の牛木素吉郎氏 (C)STUDIO AUPA

根本いづみA澤良世A武智幸徳A北條聡A平澤大輔A野嶋庸平A瀬崎久見子A清水和良A六川則夫A今井恭司A澤山大輔A国吉好弘A西部謙司A田村修一A大住良之A後藤健生A財徳健治A牛木素吉郎A賀川浩

2010年12月7日、賀川浩(赤胸章)日本サッカー殿堂入りパーティ。ライター/記者、編集者、カメラマンの仲間たちと (C)フォート・キシモト

根本いづみA田村修一A後藤響子A庄司悟A武藤文雄A高田敏志A中塚義実A本多克己A岸巨卓A牛木素吉郎A賀川浩

2010年12月7日、賀川浩(赤胸章)日本サッカー殿堂入りパーティ。お祝いに駆け付けた「サロン2002」の仲間たちと (C)フォート・キシモト

浅見俊雄A森孝慈A財徳健治A牛木素吉郎

2010年12月7日、賀川浩日本サッカー殿堂入りパーティ(東京)。 (C)フォート・キシモト

加藤正信Aウィル・クーバーA牛木素吉郎A賀川浩

1983年頃、神戸にて牛木素吉郎記者(右端)とともに、(その隣、右から)指導の大家ウィル・クーバーコーチ、同夫人、加藤正信ドクター、バルコム・コーチ、賀川浩

国吉好弘A田嶋幸三A中条一雄A牛木素吉郎

2011年3月10日、「神戸一中蹴球史」復刻記念パーティで、(左から)国吉好弘氏、田嶋幸三JFA副会長、中条一雄氏、牛木素吉郎氏(ユーハイム千駄ヶ谷店)

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